『WINDS OF GOD』:1995、日本

1993年8月1日、東京。売れない漫才コンビの田代と金太は、お笑い名人大賞を目標に掲げて頑張っている。ある日、亀有へナンパに出掛けようとした2人は、バイク事故を引き起こしてしまう。2人が目を覚ました時、そこは神風特攻隊が駐屯所にしている国民学校の校舎だった。田代と金太は、1945年にタイムスリップしてしまったのだ。
田代と金太は神風特攻隊の面々から、それぞれ「岸田中尉」「福元少尉」と名前を呼ばれる。どうやら2人は、優秀な隊員に間違えられているらしい。田代は山本少尉に未来から来たことを説明するが、もちろん信じてもらえない。田代はもうすぐ広島に原爆が投下されることを山本に告げるが、その正確な日付を彼は知らなかった。
田代と金太は、軽い記憶喪失で以前とは別人のようになったのだと判断された。田代と金太は逃亡を図るが、山本から「脱走兵が見つかれば銃殺になる」と聞かされて駐屯所へ戻った。その途中、特攻隊員の米谷が走り幅跳びの記録に挑戦していた。何度も挑戦して記録を破った彼は、次の日に出撃して戦死した。
田代と金太は、特攻隊員の寺川や松島、清水らと親しくなった。金太は福元少尉の婚約者・宮下千穂に会い、本当のことを話そうとする。しかし彼女の強い愛情を感じて、何も言えなくなった。8月6日、広島に原爆が投下された。学徒兵の松島が「何の意味があって戦っているのか」と疑問を口にしたため、兵学校出身の寺川は激怒した。
山本は田代の言っていたことが当たったことで、未来から来たという話を信用した。東京帝大で輪廻転生について学んだ山本は、田代と金太に自分の考えを話した。山本によれば、田代たちが1993年に事故を起こしたのと同時刻、1945年の世界で岸田と福元が飛行機事故を起こした。そこで事故の強いショックによって、田代たちの魂が岸田と福元の体に引き込まれたのではないかという。
田代は元の世界に戻るため、同じショックを再び与えればいいのではないかと考えた。そこで彼は金太と共に駐屯所の屋根から落ちたりバイクで暴走したりするが、何の効果も無い。ついに田代はゼロ戦に乗り込むが、何の経験もないはずなのに見事に操縦し、気持ち良くなった田代は空の旅を楽しんだだけで着陸してしまった。
特攻隊の面々は、次々に出撃して命を落としていった。山田分隊長は名簿を提出する際に必ず自分の名前を書き込んでいたが、彼を残すべきだと考える太田飛行隊長の判断で削除されていた。8月10日には、松島と清水が出撃して命を落とした。さらに寺田も出撃し、戦場に散った。やがて金太にも特攻命令が下るが、彼は何の抵抗も見せずに従おうとする…。

監督は奈良橋陽子、原作&脚本は今井雅之、監修は鈴木達夫、製作は大山幸英、プロデューサーは莟宣次&大里俊博&春山五月、撮影は西浦清、編集は岡安肇、録音は武進、照明は海野義雄、美術は丸山裕司、音楽は大島ミチル、音楽プロデューサーは佐々木麻美子、エンディングテーマはTHE BLUE HEARTS『青空』、挿入曲はポール・ウィンター『Song For The World』。
出演は今井雅之、山口粧太、六平直政、菊池孝典、新井つねひろ、小川範子、藤田朋子、別所哲也、井田州彦、大森嘉之、志村東吾、池上竜馬、秋山見学者、辻つん、小西邦夫、矢田政伸、鈴木誠、山口寛樹、松本理寛、小峰雄帆、牛田裕也、渡辺聡、池田薫、高瀬彩乃、GOLD、SILVER、岩本裕之、大久保茂忠、大塚義隆、大山努、小林靖永、榊原伊織、高橋卓、高井麻由美、太刀原香、南風原涼、田辺紀子、中嶋高次、引地雪絵、藤本昌平、松原理枝子、宮沢太志、宮下和義、湯下隆之ら。


今井雅之が台本を書いて出演した舞台劇を基にした作品。
監督は、舞台版でも演出を務めた奈良橋陽子。
田代を今井雅之、金太を山口粧太、山田を六平直政、寺川を菊池孝典、山本を新井つねひろ、千穂を小川範子、松島を井田州彦、清水を大森嘉之、米谷を志村東吾が演じて
いる。田代が千穂と間違える女の役で藤田朋子、太田飛行隊長役で別所哲也が友情出演している。

舞台版は何度も上演されているぐらいだから、たぶん良く出来ているんだろうと思う。しかし、この劇場版の出来映えは、芳しくないと言わざるを得ない。
まず冒頭、なぜか舞台版の『WINDS OF GOD』が公演されているシーンから始まる。そして舞台の上で、漫才コンビの役を演じている今井雅之と山口粧太の姿が映る。そのまま舞台劇の様子を撮り続けて、バイク事故が起きるシーンから、それは舞台上での出来事ではなく実際に起きていること、という風に描写が変わるのである。
しかし、その虚構から現実への転換に、どうも付いて行けない。普通に、最初から「現実世界のストリップ小屋で田代と金太が漫才をやっている」というシーンから始めれば良かったと思うのだが。

どうして、わざわざ「全ては絵空事」というイメージを植え付けてしまうような設定を導入部分に持ってきたのか、その意図が理解できない。

それに、「バイク事故の前までは舞台劇、後からは現実の戦時中」という転換も、ちょっと分かりにくい。それまでは舞台の上における出来事、つまり屋内だったわけだから、田代が事故から目覚めたら、すぐに屋外の風景を映した方がいいだろう。
例えば駐屯所の窓から田代が外の様子を眺めるシーンを挿入するとか、どうにでも出来たはず。

これが密室で展開される物語であれば、舞台劇チックな作り方をしても効果が得られたかもしれない。しかし、そういったテイストの話ではないはずだ。にも関わらず、どうも必要以上に舞台劇っぽい演出をしているように感じられる。
たまに外の風景を映し出しても、そこに広がりや奥行きを感じさせない。

田代は米谷が走り幅跳びで記録を作った時に、まるで自分のことのように大喜びして彼と抱き合う。しかし、ちょっと付いて行けない。だって、田代は来たばかりで、米谷とはほとんど会話さえしていなかった程度の関係だ。そんな全く知らない奴に、そこまで感情移入できるかね。
で、翌日に米谷が戦死したことがテロップ表示されるが、全く感情は動かない。
何しろ、彼の人間描写は皆無に等しいのだ。

いくらコメディー・タッチだからといって、いくら田代と金太がお調子者だからといって、特攻隊に馴染むのが早すぎるように感じる。
それと、コメディー・タッチにするなら、タイム・スリップ物のセオリーとしては時代のギャップを生かして笑いを取りにいくのが普通だが、その要素は使おうとせず、淡白に切り捨てている。
エピソードを串刺し式にしているが、1つ1つがブチブチと切れてしまい、連続性の中で田代が呑気からシリアスにシフトしていく経緯、金太が時代に染まっていく経緯、そういった流れを感じない。
どれだけ田代が深い意味を込めた言葉、熱い主張を述べても、そこまでの話が陳腐なので、そのメッセージは虚しく通り抜けていくだけだ。

どうせ田代は特攻していくわけでもなく、歴史を変えようとするわけでもなく(変えられるはずもないし)、単なる傍観者に過ぎないのだから、舞台版とは大幅に内容が変わってくるが、熱い感情を爆発させる男ではなく語り手に徹した方が良かったのかもしれない。そして、特攻していく面々の人間ドラマに、もっと重点を置くべきだったかもしれない。
田代がどれだけ特攻や戦争の愚かしさを熱く語ったところで、その愚かしいことに命を捧げる連中の方が、田代よりも遥かにエモーションを喚起する存在なのだ。そして田代の熱血パフォーマンスは、特攻隊員の人間ドラマへの感情移入を促すのではなく、むしろ妨害しているのではないかとさえ思えてしまうのだ。

これって、ひょっとするとタイムスリップする人間は1人に絞っても良かったかもしれない。で、そいつは最終的に特攻していくという話にするのだ。
この作品では、生き残った田代が元の時代に戻り、新しい相方と共に漫才を続けているが、最後まで金太を止めようとしていることもあって、その姿から「死んでいった仲間の分も頑張る」というメッセージを読み取るのは難しいし。

 

*ポンコツ映画愛護協会