『ウルルの森の物語』:2009、日本

東京で暮らすシングルマザーの工藤夏子は病気で倒れ、長期入院することになった。幼い息子の昴と娘のしずくは夏休みの間、5年前に夏子と離婚した大慈の元へ預けられることになった。昴は夏子の手紙を持参し、しずくを連れて大慈が暮らす北海道へ向かった。野生動物救命所で獣医として働く大慈は、ネイチャー雑誌のカメラマンである妹の千恵と会った。千恵が見守る中、彼は治療を終えたオオタカを空へ放した。
大慈は千恵に、夏子が入院して子供たちを預かることになったと告げる。初めて聞いた千恵は驚き、夏子の症状を尋ねる。しかし大慈は、詳しい病状を知らされていなかった。大慈は美登利駅へ子供たちを迎えに行こうとするが、緊急処置を要請する連絡が入った。千恵は大慈に頼まれ、牧場での跡取り息子である大森拓馬の車で迎えに行く。父が動物の手術を優先して来なかったため、昴は露骨に不快感を示した。拓馬が明るく挨拶しても、昴は仏頂面で無視した。
千恵が子供たちを連れて野生動物救命所へ着くと、大慈は手術の真っ最中だった。彼は助手に指示を出し、真剣な表情で鳥の手術を行った。手術を終えた後、千恵は「人間のせいで怪我を負った動物が日本中から送られてきて、それを直すのがお父さんの仕事」と子供たちに説明した。すると大慈は、「治すんじゃない。治す力を引き出してやるだけだ。野生の生き物は、自分で生き抜く力を持ってるんだ」と修正した。大慈は「良く来たな」と歓迎するが、昴は「別に、来たかったわけじゃないし」と拒絶した。大慈は子供たちと遊びに行こうとするが、無線が入ったので後を千恵に任せて出動した。
大慈は千恵と子供たちを車に乗せ、自分の暮らすログハウスへ連れ帰った。彼は夕食にバーベキューを用意し、「自然の恵みに感謝して食べろ。一切れ残さず食べろ」と子供たちに告げる。昴が千恵に「テレビは?」と訊くと、大慈は「テレビは無い」と言う。千恵は携帯電話も無いことを補足し、「でもね、東京には無い物があるよ」と述べた。しずくは星空を見上げ、「お明かさんが早く元気になりますように」と祈った。千恵は夏子の心臓が以前から悪かったことを知り、大慈の夢を邪魔したくないから打ち明けず、北海道への移住を決めた時に離婚を選んだのだろうと述べた。
しずくが元気一杯で寝ようとしないので、大慈はオオカミの話をする。かつて日本には多くのオオカミが住んでいて、人間の友達だった。森で最も賢く、体力も抜群だった。オオカミは家族の絆が深く、家族のためなら命も投げ出した。そのことを語った大慈は、「気高く、強く、家族を思いやる動物、それがオオカミ」と言う。昴が「だったら、なんで死んだのさ」と反抗的な態度で尋ねると、彼は「人間が森を荒らしたからさ」と答えた。大慈は昴の携帯電話を没収し、「ゲームできないじゃん」と抗議されると「ゲームだったら、ほら」と大量のビー玉を渡した。
翌日、千恵は朝早くから野生動物を撮影するため森に出掛け、昴としずくを同行させる。しずくは動物を見て喜ぶが、昴は退屈そうな様子を見せた。しずくは川の向こう岸に現れたオオカミのような動物を発見し、「いた」と驚いて走り出す。千恵と昴も後を追うが、それはオオカミではなく子犬だった。昴は「犬か」と呆れたように言うが、しずくは「ウルフ」と間違えて「ウルルだよ」と口にする。しずくは右前脚に怪我を負っていることに気付き、「怖くないよ」と優しく声を掛けながら歩み寄った。するとウルルは全く警戒心を見せず、彼女を受け入れた。
千恵はウルルを野生動物救命所へ連れて行き、大慈に治療してもらった。しずくから不安げに状態を問われた大慈は、「やれるだけのことはやったが、かなり弱っているから、後はどれだけ自分で生きられる力を持っているかだ」と答えた。彼は昴に、「ウルルの表情を見てやれ。痛みを我慢して戦っているのか、諦めようとしているのか、それを確かめるんだ」と述べた。大慈がウルルを「オオカミみたいだ」と言ったので、千恵は詳しく調べることにした。
昴としずくは、ウルルの介護をする。翌朝を迎えると、ウルルは元気になっていた。しずくが「この子、どうするの?お母さんは?」と質問すると、大慈は「お母さん捜すのは難しいな」と述べた。しずくが「しずくが面倒見て、お母さん捜してあげる」と口にすると、大慈は「動物を世話するってのは、大変なことなんだ。命を預かるってことだ。出来るか?」と問い掛けた。しずくは父からウルルの世話を任され、昴も積極的に協力する。
千恵はウルルの写真を撮り、出版社に持ち込んだ。しかし編集長は、ウルルがオオカミだという話を全く信じなかった。「専門家の当てはあるのか」と問われた千恵は、「はい」と答える。「本物だったら、ウチの専属カメラマンとして本採用してやるよ」と言われ、千恵はやる気を見せる。昴が渡すタイミングを失った母の手紙をポケットに入れたまま歩いていると、大慈は鷲をスケッチしていた。昴が呼び掛けると、大慈は「野生の本能が戻って来てるかどうか観察してる。そいつを取り戻さないと、こいつら自然の中で生き残れないんだ」と告げた。彼は昴に、「野生の強さを引き出してやるのが、人間の責任だ。お前らもウルルをしっかり見てやれよ」と述べた。
千恵は野生動物保護協会の分子生態学者である長谷部と連絡を取り、学会のついでに来てもらう。長谷部は大学の先輩である大慈に挨拶し、ウルルを見せてもらう。長谷部はウルルの毛を採取し、DNA鑑定に回す事を告げる。彼は大慈たちに、大発見の可能性があるので口外しないでほしいと頼んだ。大慈は昴から「あの男の人、ウルルを連れて行ったりしないよね」と問われ、「もしウルルが本当にオオカミだったら、いずれにせよ、しずくの傍には置いておけない」と述べた。
「どうしてだよ」と昴が反発すると、大慈は保護していた鹿を自然へ返す現場に子供たちを連れて行く。なかなか鹿が去ろうとしない様子を見た大慈は、爆竹を投げ付けた。しずくが「やめて」と叫ぶと、「野生動物は人間からエサを貰うと、里に戻って作物を荒らしたり人を傷付けたりする。人間は恐ろしいと思わせることが大事なんだ。互いに近付かない。そうやって人間と野生動物は共存してるんだ」と大慈は説明した。
昴が反発すると、「野生動物は犬や猫とは違うんだ。凶暴で、人間とは一緒に暮らせない。野の物は野に返す。それが自然のルールだ」と大慈は述べた。そこへマタギの知里辰二郎が現れて威嚇発砲すると、鹿は走り去った。辰二郎は「爆竹なんて甘いことやってんな」と言い、ウルルを見て「ホルケウ・オ・イ」と口にした。ウルルは絶滅したエゾオオカミの可能性が高いという検査結果が出たため、長谷部は研究所へ持ち帰ると大慈に告げる。大慈は「周辺調査をして、親がいれば返すべきだ」と言うが、長谷部は「親オオカミがいたとしても、探索能力で子供を放っておくことは無い。親がいる可能性は低い」と指摘する。 「今は個体確保が先でしょ。理念は否定しませんが、このままだと貴方がホントに最後のオオカミを絶滅させることになるんですよ」と長谷部に言われ、大慈は承諾した。長谷部から説明を受けたしずくは、「お母さんに会えなくなっちゃう」と言う。長谷部は「お母さんは、もう生きてないんだ」と告げても、彼女は「生きてるもん。ウルルがお母さんに会えなくなっちゃう。嫌だ」と反発する。長谷部は嫌がるしずくからウルルを引き離し、その場を後にした。
しずくに「お父さんの嘘つき」と責められた大慈は、「ワガママ言うんじゃない。こうするしかないんだ。大きくなったら、お前たちにもきっと分かるよ」と語る。だが、しずくは泣きながら部屋に閉じ篭もり、昴は大慈に「ホントはウルルのことなんて考えてないくせに。しずくのことも、お母さんのことも。しずくは、ウルルなんだ。だからあんなに一生懸命、ウルルのことを。お父さんなんて要らない」と言い放って家を飛び出した。
昴は携帯電話を持ち出し、母の病室に電話を掛けた。夏子が「母さんなら寂しくないよ。2人の様子は千恵ちゃんから聞いてるから」と言うと、昴は「僕じゃしずくを守れない。帰りたい」と弱音を吐く。夏子は「甘えんな。お母さんだって会いたいよ。もっと強く、もっと大きくなりなさい」と告げ、電話を切った。昴は通り掛かった拓馬に事情を話し、「ウルルのお母さんは生きてるのかなあ。それとも」と問い掛ける。拓馬は「ホロケシにいるさ、きっと。オオカミの国だ」と言う。
拓馬は昴を家へ連れ帰り、絵本を見せる。それはアイヌの民話について書かれた『森の守り神』という絵本で、拓馬はホロケシがアイヌ語で「オオカミの住む所」という意味だと教えた。「どこにあるの?」と質問された彼は、「東の果てだ。そこにいる。きっと」と答えた。昴は家に戻ってしずくを起こし、「ウルルをお母さんの所へ返してあげよう」と告げる。2人は家を抜け出し、長谷部の目を盗んで野生動物救命所に忍び込む。2人は檻に入れられているウルルを見つけ、外へ連れ出した。
昴としずくは民話の存在に過ぎないホロケシを目指し、旅に出る。一方、残されていた夏子の手紙を読んだ大慈は、彼女の心臓が悪いことを知った。その手紙には、「諦めないで勝負することにしたの。手術、やってみる。もし上手く行かなかったら、子供たちのことよろしく。その時はほんの少しでいいから、貴方の夢の時間をあの子たちに分けてあげてね。あの子たちの父親には、貴方しかなれないの」などと綴られていた…。

監督は長沼誠、脚本は吉田智子&森山あけみ、製作指揮は宮崎洋&島谷能成、製作は堀越徹&富山省吾&堀義貴&村上博保&平井文宏&阿佐美弘恭&大橋善光、企画は奥田誠治&市川南&神蔵克、プロデュースは藤村直人&臼井央、プロデューサーは堀口慎&北島和久&渡邉浩仁、撮影は藤石修、照明は鈴木康介、録音は横野一氏工、美術プロデューサーは小池寛、美術は内田哲也、編集は三條知生、VFXスーパーバイザーは西村了、ドッグトレーナーは宮忠臣、音楽プロデューサーは岩瀬政雄、音楽は久石譲。
主題歌『ウルルの唄』作詞・唄:麻衣、作曲・編曲:久石譲。
出演は船越英一郎、深田恭子、大滝秀治、桜井幸子、鈴木一真、桑代貴明、北村沙羅、濱口優(よゐこ)、光石研、松永博史、田窪一世、山本哲也、南雲勝郎、田渕良和、まつだ壱岱、平井恵助、関口美穂子、下之薗裕太、大海吾郎ら。


公開当時は「『マリと子犬の物語』のスタッフ・キャストが再集結」という情報をアピールして宣伝されていた動物映画。
TVドラマ『仔犬のワルツ』や『ヤスコとケンジ』などの演出家である長沼誠が、初めて劇場映画の監督を務めている。
脚本は『Life 天国で君に逢えたら』『クローズド・ノート』の吉田智子と、映画は初めてとなる森山あけみの共同。
大慈を船越英一郎、千恵を深田恭子、辰二郎を大滝秀治、夏子を桜井幸子、昴を桑代貴明、しずくを北村沙羅、拓馬を濱口優、長谷部を光石研が演じている。
ウルルはエゾオオカミという設定だが、もちろん実際は絶滅しているため、交雑種のウルフドッグを使っている。

『マリと子犬の物語』のスタッフ・キャストが再集結していると前述したが、そこには言葉のトリックに近いモノがある。
共通しているスタッフとキャストは、プロデュースの臼井央&藤村直人、企画の奥田誠治&市川南&神蔵克、製作指揮の島谷能成、プロデューサーの堀口慎、編集の三條知生、音楽の久石譲、音楽プロデューサーの岩瀬政雄、主演の船越英一郎という面々だ。
つまり監督、脚本、撮影、照明、美術といった面々は違うってことだ。
特に監督と脚本が異なると、映画の内容や質は大きく変わって来るはず。
あと、そもそも『マリと子犬の物語』だって、良作や傑作だったわけではないのよね。

冒頭、昴の語りと共に映画は始まる。ウルルが森で暮らす様子を写しながら、「ウルル。僕らが出会った、あの日のこと、君は覚えているかなあ。僕は今でもハッキリと覚えている。深い、緑の森の奥。君は、一人ぼっちだった。きっと、怖かったよね。寂しかったよね。でも、一生懸命歩いてた。一生懸命走ってた。大事な物を、一生懸命探してた。あの時僕は、君よりずっとちっぽけで、ずっと弱虫で、一人じゃ何にも出来なくて。ウルル。君は、そんな僕に、あの夏がくれた贈り物だったんだ」という語りが入る。
ちなみに、この後もしばらく語りは続いている。
ナレーションから映画をスタートさせるってのは珍しくもないパターンだし、それがダメってわけではない。ただ、この映画にとっては、それが大きなマイナスに作用している。
なぜなら、そのナレーションが下手だからだ。学芸会かと思うような、大げさな喋り方なのだ。
あえて好意的な表現をするならば、「舞台劇のような話し方」ってことになるだろうか。ただ、「舞台っぽい喋り方」と解釈したとしても、どっちにしろ「残念なナレーション」という印象は変わらないわけでね。
ぶっちゃけ、語っている内容も学芸会チックだし、諸々の理由を考えると、ナレーションから入ったことは大失敗だったと断言できる。

ナレーションが終わると本編に突入していくのだが、ここでも新たな違和感が待ち受けている。
電車に乗っているしずくが窓の外を見て昴に話し掛けるのだが、その時の台詞が「すっごーい。すごいよ、おにい」なのだ。
この「おにい」という呼び方が、強い違和感を抱かせる。
千恵の大慈に対する「兄貴」という呼び方も、これまた強い違和感がある。
色んな呼び方がある中で、それを選んだ理由は何なのかと。
そのセンスが正解だったとは到底言い難い。しずくは「お兄ちゃん」でいいし、千恵は「兄さん」でいいでしょ。

昴に関してはオープニングのナレーションで既に露呈しているが、子役の2人は、お世辞にも芝居が上手いとは言えない。
とは言え、実は子役にとって「演技力が高くない」ってのは、必ずしもダメというわけではないのだ。芝居が出来なくても、「ほぼ素のままの自分」として行動させることで、その素朴さが魅力的な味わいに繋がることはあるからだ。
しかし残念ながら、この映画の子役2人は「下手な演技を見せ続ける」という状態になっている。
これは2人だけの問題ではない。そういう芝居を付けたことにも大きな問題がある。
何しろ、「おにい」と呼ばせるような芝居を付けちゃってるんだし。

ただし幸か不幸か、そんな子役2人を支えるべき大人の俳優たちも、やたらと大仰な演技になっている。
そもそも、そんなに演技力が高い面々を揃えているわけでもない。
「児童映画だから子供たちにも分かりやすい芝居を」ってことで、あえて大仰な演技を付けている可能性もゼロではないだろう。
しかし、仮にそういう狙いがあったとしても、結果として「安っぽい映画」という印象ばかりが強くなっているわけだから、どうであれ失敗だと言わざるを得ない。

子供たちが野生動物救命所へ来た直後、無線連絡を受けた大慈は後を妹に任せて仕事へ出掛ける。ところがカットが切り替わると、彼が子供たちを家へ車で連れて行く様子が写し出される。
それはシーンの繋げ方として上手くないでしょ。
もちろん、もう仕事が終わってから家へ連れて行ったことぐらい、ワシみたいなボンクラだって理解できるよ。
だけど、そこは何か他の出来事を挟んでから、家へ案内するシーンへ移行する方が絶対にいいのよ。
例えば回想を挟むとか、何だっていいんだからさ。

大慈が子供たちにオオカミの話をするとき、その頭上には参考映像が表示される。そして、まるで映像が見えているかのように、大慈が視線を向けながら喋ったりする。
でも、その演出が効果的だとは全く思えない。むしろ、変に飾り付けて、陳腐になっているように感じる。
後から「しずくがウルルを見つけ、オオカミだと確信して追い掛ける」という展開があるので、その時点でしずくにオオカミの姿をインプットしておく必要があるのは分かる。
だけど、それは図鑑の写真を大きく写し出すことで事足りるでしょ。

ウルルが野生動物救命所へ運び込まれると、大慈が治療を終えるまでに時間を使い、やけに丁寧な処理をしている。
だけど、そこで時間を掛ける必要性なんて全く無い。
そこは「治療が終わったシーン」だけで片付けても全く支障は無いし、そっちの方が遥かにスムーズだ。
「治療を待つしずくがウルルを心配する」という様子を見せたかったのかもしれないけど、そんなのは「大慈に預ける時の表情」か「治療を終えた時の表情」だけで充分だ。

しずくが「ウルルの世話をしたい」と言い出すと、「動物を世話するってのは、大変なことなんだ。命を預かるってことだ。出来るか?」と大慈が問い掛ける。
それに対する反応としては、「出来る」と断言するとか、無言で深くうなずくとか、そういう行動が思い付く。
だが、しずくは「約束」と言い、鼻の穴を両手でつまんで塞ぐという、想定外の行動を取る。すると昴も同じポーズを取り、しはらくしてから苦しそうな妹に「息をしろ」と言う。
えっと、この2人の行動が全く理解できないんですけど。
ワシがボンクラなのは前述した通りだけど、利口なら理解できるんだろうか。

長谷部がウルルを引き取って立ち去った後、昴は大慈を非難する。
それは分かるんだけど、「しずくは、ウルルなんだ。だからあんなに一生懸命、ウルルのことを。お父さんなんて要らない」という台詞は、ちょっと何言ってんのか良く分からない。「しずくはウルル」って、どういうことなのかと。
いや、「母と会えない、母と会いたい」という部分で、しずくとウルルを「似た者同士」として示したいのは分かるのよ。でも、急に「しずくはウルル」とか言われても、「はあっ?」という感想しか沸かないよ。
あと、それは昴に言葉で説明させるんじゃなくて、ドラマの中で観客に感じさせた方がいいはずで。児童映画としての分かりやすさを優先したのかもしれないけど、それが陳腐さに繋がっている。

「しずくがウルルと引き離されて悲しみ、昴が父に激しい怒りを示して不和が決定的になる」というシーンを、ドラマとして盛り上げたい気持ちは良く分かる。
だけど、それにしてもBGMが過剰に盛り上がり過ぎて、こっちの気持ちを逆に冷めさせてしまうぞ。
ティンパニが鳴るオーケストラ演奏が使われているんだけど、「むしろBGMなんて無い方が良くねえか」と思ってしまうほどだ。
実際はBGMがあっても別にいいんだけど、それが映画をサポートする役割を果たさず、邪魔する存在になっているんだよね。

最初に「昴が大慈を拒絶し、北海道の生活にも順応する気を全く見せない」という反抗的な態度を取っていたので、彼がウルルと接する中で変化していく様子を中心に描いて行くんだろうと勝手に予測していた。
ところが、ウルルを見つけるのはしずくの役目で、治療を心配するのも、世話をすると言い出すのも彼女だ。昴は妹に協力するだけだったのに、いつのまにか主導的な立場になる。
そりゃあ兄だから、妹を主導する立場になるのは当然っちゃあ当然だろう。
しかしウルルへの思い入れは、しずくの方が強いはず。なので、そこはキャラの使い方が上手くないなあと感じる。

「最初はウルルに対して特に思い入れは無かったけど、次第に距離が近付いて」という交流のドラマを描いているなら、昴とウルルの初期段階の関係が弱くても別に構わない。
しかし、昴がウルルと仲良くなっていく様子は、まるで厚く描かれていない。
「世話を始めた」という時期にダイジェスト処理がサラッと流れて、昴がウルルと仲良くする様子が示されるだけだ。
それだけでなく、昴に関しては「最初は拒絶していた田舎暮らしに、次第に順応していく」といった経緯も全く描かれていない。

昴には「父に反発している」という初期設定もあるので、そこから「父との関係が修復される」という展開が用意されていることは言うまでも無いだろう。
そこに関しては、さすがに「全く描かれていない」ということは無い。
しかし、じゃあドラマとして上手く描写できているのかというと、答えはノーだ。
ホロケシを目指す昴&しずくを大慈が追い掛け、一緒に旅をする中で関係が変化するという形を一応は取っている。ただ、あくまでも「形としては」ってだけで、中身は伴わない。

「ずっと離れていたから父に反抗的」とか、「都会暮らしが長いから田舎に馴染めない」という設定は、ベタっちゃあベタだ。
だけど、そこをドラマとして充実させれば、それなりの形には仕上がるはずだ。
それなのに、そういう作業が実施されていないので、「だったら最初から排除してしまえばいいんじゃねえか」と思ってしまう。
いっそのこと、昴をキャラごと排除して、しずくだけにしてもいいんじゃないかと思ってしまうぐらいだ。

そもそもホロケシを目指す冒険そのものが、強引かつギクシャクしまくりだ。
まず昴がホロケシの存在を信じて旅に出るという段階で、かなりの無理を感じる。昴のキャラクター設定を考えると、急に民話の内容を信じるようになるのは違和感が強い。
そんな昴としずくを大慈が発見するのも、何のヒントも無いはずなので強引さが否めない。
大慈は子供たちを見つけても「2人を生かせてやりたい」と言い、隠れて尾行するんだけど、これは全く賛同できないし。
そんな無責任なことをやっているから、しずくは吊り橋から激流へ落下しそうになっているじゃねえか。

終盤に入ると、「ホロケシは存在した、ウルルのお母さんが現れた」という展開が訪れる。
ハッピーエンドにするなら他に選択肢は無いと思うけど、あまりにもファンタジーが強すぎて、っていうか御都合主義が強すぎて、まるで乗れないのよね(まあ御都合主義が強いのは、そこに限ったことじゃないけど)。
しかも、映像演出も手伝って、すんげえ陳腐なシーンになっているし。
あと、オオカミが母親と子供の2匹しか存在していないとすれば、早い内に絶滅してしまうでしょ。だからホントにオオカミのことを考えたら、そのまま見送るのが正しい選択とは言えないんじゃないか。ちゃんと群れで生活していることが確認できれば別だけどさ。

なかなか去ろうとしないウルルを見た昴は、なぜかリュックに瓶ごと入れていたビー玉を取り出し、投げ付けて追い払おうとする。しずくも後に続き、2人で泣きながらビー玉を投げ付ける。
一応は「感動のシーン」として演出しているけど、ちょっと無理。
だって、それは明らかに動物虐待でしょ。
大慈は鳥を放す時に爆竹を使っていたけど、近くに投げて脅かしただけだ。それに対して、ビー玉は思い切り命中させちゃってるからね。

(観賞日:2017年7月2日)

 

*ポンコツ映画愛護協会