『海は見ていた』:2002、日本
江戸・深川。女郎宿“葦の屋”に、刃傷沙汰を起こした若侍・房之助が逃げ込んできた。若い女郎・お新は、彼を馴染み客に化けさせ、 追っ手から匿った。翌日、房之助は再び葦の屋を訪れ、お新に礼を述べた。房之助は刃傷沙汰のせいで勘当され、叔父の家で厄介になって いるという。お新は房之助に好意を抱くが、姉貴分の菊乃から「お客に惚れてはいけない」と忠告を受けた。
房之助は翌日から葦の屋に通ってきたが、お新は菊乃の言葉を守り、何かと理由を付けて会わずに追い返した。そんなお新を見守る菊乃 には、銀次というヒモがいた。銀次のせいで菊乃は何度も仕事場を変えており、今も八王子に移る話を彼から持ち掛けられていた。菊乃の 気持ちをほぐしてくれるのは、身請けを申し出ている馴染み客の隠居・善兵衛だった。
ある雪の日、房之助がやって来るが、お新は菊乃に頼み、泊まり客があると言って追い返してもらった。だが、お新は気持ちを抑え切れず 、房之助を追い掛けた。お新は「自分の体は汚れている」と恥じるような言葉を口にするが、房之助は「この商売を辞めれば、いずれは キレイになる」と告げる。2人の幸せを望む女郎の先輩・お吉とおそのは、お新の客を全部引き受け、彼女には他のまかない事をして もらうと申し出た。
房之助は勘当が解けることになり、葦の屋へ報告にやって来た。お新が他の客を取っていないことを聞いた房之助は、「それはいい。私も 嬉しい」と喜んだ。後日、房之助は「皆に祝福してもらいたい」と言って葦の屋に現われ、許婚との婚礼が決まったと告げた。それを 聞いたお新はショックを受け、お吉は怒り出す。房之助は、皆が自分とお新の結婚を信じていたと女将・おみねから聞かされて驚いた。 彼には全くそんな気が無く、お新といると楽しくて身の辛さを忘れられるから通っていただけだったのだ。
心に傷を受けたお新は、しばらく寝込んでいたが、やがて仕事に復帰した。そんな彼女の前に、良介という客が現われた。不幸な境遇を 語る良介に、お新は心を惹かれた。捨て鉢な態度を示す良介を、お新は優しく励ました。一方、菊乃は銀次から、八王子に行く話を勝手に 決めたことを告げられた。拒否の態度を取る菊乃を銀次は殴り付け、従わねば善兵衛にも手を出すと脅した。
豪雨に見舞われた夏の日。川は氾濫し、家屋の浸水が始まった。葦の屋を守ろうとする菊乃の前に銀次が現われ、おみねが貯めていた金を 持って一緒に逃げようと誘った。菊乃は拒絶し、金を渡すよう要求した。お新の元へ来ていた良介が菊乃に加勢するが、銀次によって階段 から突き落とされた。良介は七首を取り出し、銀次を殺害した。良介は自首しようとするが、菊乃が「ほとぼりが冷めるまで姿を消せ」と 促した。葦の屋に残った菊乃とお新は、水位が増す中で逃げ場を失い、屋根の上へ避難した…。監督&脚本潤色は熊井啓、原作は山本周五郎、脚本は黒澤明、企画は黒澤久雄、プロデューサーは猿川直人、制作は豊忠雄&遠藤雅也、 製作は町田治之&宮川鑛一&安藤孝四郎&里見治&鳥山成寛&依田弘長&堀龍俊生&小川祐治、製作総指揮は中村雅哉、撮影は奥原一男、 編集は井上治、録音は小川武、照明は矢部一男、美術は木村威夫、VFXスーパーバイザーは川添和人、音楽は松村禎三。
出演は清水美砂、遠野凪子、永瀬正敏、吉岡秀隆、石橋蓮司、奥田瑛二、つみきみほ、河合美智子、野川由美子、鴨川てんし、 北村有起哉、加藤隆之、土屋久美子、佐藤輝、佐藤健太、藤井綾香、大槻修治、茂木雪乃、はやしだみき、片岡涼、鯉沼トキ、こじ郎、 麻生奈美、大川ひろし、山本美也子、三国一夫、遠藤好、谷口公一、藤あけみ、田中輝彦、松美里杷ら。
1994年、黒澤明は山本周五郎の短編小説『なんの花か薫る』『つゆのひぬま』の2本を組み合わせた恋愛劇の脚本を書き上げ、撮影の準備 を進めた。しかし予算の問題などがあり、製作には至らなかった。
1998年に黒澤明は亡くなり、映画化することは不可能になった。
しかし、その遺志を引き継いだ熊井啓監督の手によって、日活創立90周年記念作品として幻の企画が復活した。
菊乃を清水美砂、お新を遠野凪子、良介を永瀬正敏、房之助を吉岡秀隆、善兵衛を石橋蓮司、銀次を奥田瑛二、お吉をつみきみほ、おその を河合美智子、おみねを野川由美子が演じている。
『なんの花か薫る』のヒロインがお新で、菊乃が『つゆのひぬま』の姐さん女郎(原作では“おひろ”)に当たる。また、お新は『つゆの ひぬま』の一途な女“おぶん”の役割も担っている。『なんの花か薫る』が描かれる前半と、『つゆのひぬま』が描かれる後半の2パートに分かれているのだが、これが全く別の話になって おり、真ん中でスパッと流れが分断されてしまう。お新の恋愛、というか相手の男が分断のポイントなのだが、そこの繋ぎ合わせ作業が 完全に失敗している。「しばらく具合が悪くて休んでいました、でも元気になりました」ということで、お新は傷心を全く後半に引きずる ことが無い。そんな簡単な処理なので、お新が単に惚れっぽいだけの尻軽女に見えてしまう。
元々、黒澤明が脚本を執筆した段階で、話が2つに分かれているという問題は既に指摘されていたらしい。そこで熊井啓監督が脚本に手を 加えているのだが、しかし問題点は何も解消されていない。良介は一応、前半からチラッと何度か顔を出しているが、マトモにお新たちと 絡むことは無いし、何の接着剤にもなっていない。というか、どうやっても上手い接着は無理だったんじゃないかとさえ思える。2つの話 を並べたこと自体が失敗で、『つゆのひぬま』だけを膨らませて1本に仕上げた方が良かったのではないか。
「脚本:黒澤明」という部分での訴求力を期待したのかもしれんが、その脚本が大きな欠点になっているのだから、何ともはや。大体、 黒澤明は脚本家としてそれほど高く評価される人じゃないような気がするぞ。彼が高く評価されている頃の作品は、全て数名の合議制で 脚本が作られていたわけだし。これは年老いて才能が枯れた後の黒澤明が、単独で執筆した脚本だからねえ。お新と房之助の関係は武士と遊女の恋なのに、肌を重ねる場面が無いのは違和感を覚えたが、それを遥かに凌駕する違和感が前半の最後に 待ち受けていた。お新や女郎が結婚を確信していたことを、房之助は全く気付いていなかったというのだ。
「身の辛さを忘れられるから来ていただけで、お新が結婚を考えていたなんて全く気付かなかった」という展開には、唖然とさせられた。
あれだけお新をその気にさせる言動を示しておきながら、あの展開で「一方的な思い込み」で突破するのは無理だろ。房之助は白痴なのか 、頭の病気なのかと。
そこは彼を、「お新をその気にさせているという自覚症状がある」ということで悪者にしないと、突破は無理だろ。
「悪意の無い単なるバカでした」って、それで済まされるレベルの態度じゃなかったぞ。2つの物語を連ねる上で菊乃のキャラクター設定に変更を加えたことで、ラストの展開に大きな無理が生じている。
説明のために完全ネタバレを書くが、最後は避難していた2人の元に小舟で良介が助けに来る。だが、2人しか乗れないと察知した菊乃は 、自分が貯めていた金をお新と良介に渡して立ち去らせ、清々しい顔で見送るのである。
『つゆのひぬま』では、菊乃が「客と女郎が本当に愛し合うことなど無い」と愛に不信感を抱き、半ば金の亡者と化していた。だからこそ、 必死で助けに来た男の姿に心を打たれ、その愛に真実を見出し、2人のために自己を犠牲にして大切な金まで渡してやるという行動が 活きてくるのだ。
ところが本作品の場合、前半で既に菊乃はお新と房之助の恋を応援しているし、後半もお新と良介の愛に不信を抱いていない。
そうなると、彼女の行動が持つ意味合いも弱くなってしまうのだ。
また、最後に菊乃の清々しい顔で終わるにしては、そこまでの彼女の存在アピールが、特に前半部分で弱すぎる。前半は完全にお新が主役 、菊乃は脇役という関係が出来上がっていたそうではなく、お新と房之助の恋を描きつつも、一方で菊乃と銀次の不毛で歪んだ男女関係を もっと描いておく必要があったのではないか。そして、そこで愛への不信をアピールしておけばいい。脚本に負けず劣らず、配役も無残なものだ。
石橋蓮司、奥田瑛二、野川由美子といった脇を固める熟練のメンツは文句無しなのだが、それ以外はことごとくミスキャスト、もしくは 役者不足。
清水美砂は、他の女郎と一線を画すような存在感が欲しいのだが、艶っぽさが今一つ。
吉岡秀隆は演じられる役柄の幅が極端に狭い人であり、とりあえず時代劇ではどんな役も合わないと思う。
遠野凪子は乳まで出して頑張っているが、残念ながら本作品で主役を張るには役者不足か。
ただし、それは熊井啓監督の腕では彼女を輝かせることが出来なかったということかもしれない。仮に大林宣彦監督が演出したならば、 映画の出来映えは置いておくとして(たぶん悲惨だったと思うが)、それなりにヒロインとして成立させることだけはやってのけたような 気もする。あと、この映画は全体に「粋」が感じられない。
もっと洗練されたオシャレ感覚(現代的な感覚という意味ではない)があった方がいい、いや必要だったのではないかと思うんだけどなあ。
映像・風景という意味だけでなく、演出にも「粋」が感じられない。
例えば房之助が再訪してお新が動揺するシーン、茶碗をこぼす彼女の手元をアップで捉える野暮ったさには参った。
BGMもヒドい。やたらと音楽が鳴るが、邪魔で仕方が無い。
もちろんBGMがプラスに働く映画もあるが、これは完全に鳴らしすぎが裏目に出ている。もっと静かにしてくれ、抑えてくれと思ってしまう。
特にゲンナリさせられるのが、捨て鉢になる良介に対して、お新が涙を流して「命を無駄にするな」と説くシーン。
そこでフィーチャーする楽器が、なぜトランペットなのかと。