『姑獲鳥(うぶめ)の夏』:2005、日本
妻の雪絵と暮らす小説家の関口巽は、幻覚を見た後で外出する。歩いている途中で立ちくらみがして、彼は向こうから歩いて来た傷痍軍人とぶつかる。傷痍軍人は『百鬼夜行』という本を落とすが、気付かずに歩き去った。本を拾った関口は、そこに「姑獲鳥」という妖怪が描かれているのを目にした。昭和27年夏。関口は古書店を営む友人の京極堂を訪ね、「20ヶ月もの間、赤ん坊を身籠っているなんて不思議なことがあるんだろうか」と口にした。すると京極堂は、「この世に不思議なことなんて何も無いのだよ」と述べた。
昭和27年7月13日。そんな話を吹き込んだのは誰なのかと京極堂に問われ、関口は「君の妹だよ」と答える。京極堂の妹である敦子は、雑誌『稀譚月報』の編集者である。彼女は関口が雑誌社を訪れた時、雑司ケ谷の鬼子母神近くで産婦人科を営む一族の不気味な噂を語った。病院長の娘は妊娠20ヶ月を迎えても出産せず、その夫は1年半前に失踪しているというのだ。しかも単なる行方不明ではなく、鍵の掛かった部屋から消え失せたという。それ以外にも、一族には様々な噂があった。
京極堂は、その産婦人科が久遠寺医院であり、婿養子の名前が牧朗だと知っていた。牧朗は京極堂と関口にとって、旧制高校時代の一年先輩だった。京極堂は「これは僕の出番ではない」と言い、他人の記憶を見ることが出来る私立探偵の榎木津礼二郎に依頼するよう促した。榎木津は戦争で受けた照明弾のせいで左目の視力を失い、その代わりに透視する力を得た。関口は「ろくなことないだろ、榎さん巻き込むと」と反対するが、京極堂は「ああ見えて、意外に役に立つ男だ。と言う。
関口は薔薇十字探偵社へ出向くが、榎木津は仕事で不在だった。関口が待っていると、久遠寺医院の長女である涼子が仕事の依頼にやって来た。驚いた関口に、涼子は妹の梗子が妊娠20ヶ月を迎えたこと、牧朗が失踪したことを認めた。牧朗の生死と失踪の理由が知りたくて、彼女は榎木津を訪ねたのだ。そこへ榎木津が来て、「貴方は嘘をついていますね」と指摘した。以前から関口のことを知っているのではないかと言われた彼女は、「存じ上げません。人違いではないですか」と否定した。
涼子が帰った後、榎木津は関口に、牧朗は死んでいるだろうと告げた。同じ頃、刑事の木場修太郎はアパートで女性の死体が発見された事件の現場検証に訪れていた。監察医の里村は、死因は新種の薬物だと述べ、「死体の状況も解せないしねえ」と言う。関口は京極堂から、榎木津が「涼子の記憶に君を見たんだろう」と聞かされる。しかし関口は、彼女に見覚えが無かった。「その女性に特別な感情でも持っているのか」と訊かれた関口は、図星だったので動揺した。
7月18日。木場は部下の青木文蔵から、池袋東警察署で被害者の身許について報告を受ける。アパートで死んでいた女性は戸田澄江という名で、久遠寺医院の元看護婦だった。関口と榎木津は敦子を伴い、久遠寺医院を訪れた。すると涼子と梗子の母である菊乃が現れ、梗子は床に臥せっているので引き取って欲しいと告げる。「私の子供を返せ」と喚いて包丁を振り回す女が職員に取り押さえられ、外へ連れ出された。院長の嘉親は関口たちに、「取り込み中でな。死産だったと申しておるのに」と笑顔で告げた。
嘉親は彼らに、牧朗が初めて梗子との結婚を求めて来たのが戦前であること、その時は医師免除を取ってから来るよう告げて拒んだこと、牧朗が戦後にドイツ留学で医者になったので結婚を認めたことを明るく話す。その隣で菊乃は、静かな口調で「あの男は呪っています。今もこの久遠寺の家を」と述べた。嘉親は関口たちに、涼子は生まれ付き体が弱いので医院を継ぐのは梗子しかいないと語る。榎木津は嘉親の記憶から、箱根の仙石楼という老舗旅館を読み取った。
住み込みの医療助手である内藤は、牧朗が失踪した時の状況を説明した。梗子夫妻が住む離れの寝室に入った榎木津は、牧朗の血痕を発見した。彼は関口たちに、自分から隣の書庫に入って扉を閉めたことを教える。「事務所で何が見えたんだ?」と関口に問われた彼は、「蛙の顔をした赤ん坊だ」と答える。一方、森に迷い込んだ木場は、牧朗の名を書いた無数の札が木に釘で打ち付けられているのを目撃した。梗子が閉じ篭もっている書庫に入ろうとした榎木津は、読み取った記憶に「薄気味の悪い」と告げて倒れ込んだ。
関口が涼子の案内で書庫に入ると、梗子がベッドで歌っていた。「ずっとこうなんです。牧朗さんが消えた晩から」と涼子は言う。その時、関口は梗子に恋文を渡した学生時代のことを思い出した。関口がそのことを告げると、梗子は「知らないわよ、恋文なんて」と感情的に言う。関口は部屋を飛び出すと、榎木津は「お前、気付かなかったのか?見えなかったのか、床」と言う。関口は自分に言い聞かせるように、「おかしくなんかない」と繰り返した。
関口が牧朗の日記を読むと、昭和15年に彼から梗子宛ての恋文を託されていたことが記されていた。しかし関口には、そんな記憶が全く無かった。敦子は関口に、書庫には奥の小部屋へ抜ける第二の扉があること、第三の扉は外から施錠する形式であること、その鍵を持ったまま元小児科医の菅野が行方不明になっていることを語る。彼女は書庫が開かずの間になっていることを説明するが、関口は上の空だった。榎木津は既に帰っており、敦子は苛立った。関口は涼子から、「私を助けて下さい」と告げられた。
7月25日。木場はお潤がマダムを務めるバーへ行き、常連客である原澤伍一に接触した。原澤は「今更何しに来やがったんだよ。何度も何度も訴えたのに、相手にしてくれなかったじゃねえかよ。浮かばれねえよ。俺の子供は」と漏らす。牧朗が書いた昭和25年7月2日の日記には、「例の件、つひに妻へ問いただす。しかし、まったく覚えがないと云ふ。おかしい」と記されていた。26年1月8日の日記には、研究が完成したので妻に朗報をもたらすと書かれていた。それが最後の日記だった。
関口から「知ってたのか。僕が牧朗の」と問われた京極堂は、「もちろんさ。恋文を書くよう勧めたのは僕だ。恋文を届けた後、君は半月も部屋に閉じ篭もっていた。うつ病が治るまで、一年近く掛かったあのことを君が忘れているらしいと気付いた時は、さすがに僕も我が目を疑ったことだ。心の傷を認めたくなくて、記憶を閉ざしたのかもしれない」と言う。京極堂は昭和15年12月31日に牧朗が書いた日記を読み、彼と梗子に子供が出来たことを暗示しているのではないかと告げた。
木場は京極堂を訪ね、「本当にあるのか、憑き物筋ってやつは」と質問する。久遠寺医院では去年の夏から暮れに掛けて、赤ん坊が3人消えていた。事件は死産として揉み消されたが、原澤は信用せずに澄江と接触した。そして彼は澄江から、久遠寺の娘がさらって赤ん坊を殺したという証言を得ていた。御上に訴えても無視されたため、原澤はカストリ雑誌にネタを売った。木場は記事を書いた鳥口を締め上げ、久遠寺家が「オショボ憑き」の家だという情報を得た。
改めて憑き物筋について木場が訊くと、京極堂は「憑き物を操る家系という意味だ」と説明した。木場の捜査メモにあった「まじない師、村八分、水子の霊」という言葉を知った京極堂は、オショボが子供の妖怪であること、久遠寺家が死んだ子供を呪いの道具にしていることを解説した。木場は久遠寺家を辞めた使用人の澤田富子から、「蛙の顔」という言葉を聞き出していた。なかなか彼女が喋らなかったため、木場は榎木津を引っ張り出していた。
富子は榎木津と木場に、久遠寺の先祖が讃岐の田舎でまじない師をしていたこと、村外れに住み着いた修験者が評判となったので蛙の毒で殺したこと、修験者が死の間際に「蛙の毒で返してやる。子孫末代まで祟ってやる」と言い残したことを語った。久遠寺家は修験者の巻物を奪って繁栄したが、産まれる男児は呪いによって蛙の顔をしているのだという。榎木津は木場に、「この事件はとっくに終わってる。探偵や刑事の出番じゃない」と告げた。
関口と木場は京極堂の指示を受け、久遠寺医院へ赴く。木場は関口に、京極堂が人に憑いた物の怪を落とす「拝み屋」としての顔も持っていることを話した。病院には赤ん坊殺しを非難する人々が押し掛けており、木場は彼らを取り押さえて関口を先に行かせる。涼子は関口に、「運命から逃れられないのです、憑き物筋の血筋は」と言う。そして彼女は「私も梗子と同じく、牧朗さんが消えた夜、どこにいたのか記憶が定かではないのです」と明かした。彼女は関口に抱き付き、「私の呪いを解いて下さい」と告げる…。監督は実相寺昭雄、原作は京極夏彦(講談社刊『姑獲鳥の夏』より)、脚本は猪爪慎一、脚本協力は阿部能丸、製作は荒井善清&森隆一、企画は遠谷信幸、プロデューサーは小椋悟&神田裕司、共同プロデューサーは辻畑秀生&柴田一成&小穴勝幸&横山真二郎&峰岸美加&小俣明徳、撮影は中堀正夫、照明は牛場賢二、美術は池谷仙克、録音は藤丸和徳、編集は矢船陽介、衣裳デザインは おおさわ千春、音楽は池辺晋一郎。
堤真一、永瀬正敏、阿部寛、宮迫博之、原田知世、田中麗奈、いしだあゆみ、すまけい、清水美砂、篠原涼子、原知佐子、三谷昇、松尾スズキ、恵俊彰、寺島進、京極夏彦、堀内正美、堀部圭亮、荒川良々、鈴木砂羽、マギー、諏訪太朗、三輪ひとみ、小川はるみ、坂本あきら、江本純子、阿部能丸、中田敦夫、山本東、瀧本武、水口助弘、則松徹、柳之内たくま、河野達郎、山崎陽子、森藤秀実、大葉ふゆ、西尾百合子、山田ひとみ、東孝之、田辺日太、成田渡、たんぽぽおさむ、木之村達也、藤木誠人、壱番、小出康統、鮫島満博、吉川廣志、倉田醍樹、佐藤淳史、成島有騎ら。
京極夏彦の百鬼夜行シリーズ第1弾となるデビュー小説を基にした作品。
京極夏彦がファンだった『屋根裏の散歩者』『D坂の殺人事件』の実相寺昭雄が監督を務めている。
脚本は『B』『ブリスター! BLISTER』の猪爪慎一。
京極堂を堤真一、関口を永瀬正敏、榎木津を阿部寛、菊乃をいしだあゆみ、嘉親をすまけい、木場を宮迫博之、涼子&梗子を原田知世、敦子を田中麗奈、京極堂の妻・千鶴子を清水美砂、雪絵を篠原涼子、富子を原知佐子、紙芝居屋を三谷昇、内藤を松尾スズキ、牧朗を恵俊彰、原澤を寺島進が演じている。
原作者の京極夏彦も、傷痍軍人の水木しげる役で1シーンだけ出演している。原作のファンがどう思うのかは分からないけど、原作を読んでいない人間からすると、ミスキャストの嵐に思えてしまう。
まず堤真一は、科学的な見地からオカルトを研究しているとは言え、「あやかしの世界の住人」には見えない。
もっと問題なのは原田知世で、単に「男を虜にする魅力的な令嬢」というだけなら何の問題も無いだろうけど、かなり複雑なキャラクター設定であり、終盤には深い狂気や強烈な凄みも見せなきゃいけないわけで。
好きな女優なので、あまり悪く言いたくないんだけど、この役は明らかにミスキャストだわ。宮迫博之は、芸人の中では演技が上手い部類だが、木場役は違うんじゃないかと感じる。
ただし彼に取って幸いだったのは、お笑い芸人の世界から参加した2人目の人物が強烈な異分子として存在しているせいで、そことの比較で違和感が薄まっているのだ。
その強烈な異分子とは恵俊彰のことだが、京極堂が学生時代の牧朗の写真を関口に見せるシーンで彼の顔が写し出された途端、滑稽さしか感じない。
不安を煽るBGMを流して雰囲気を作ろうとしているのに、真面目な表情を作っている恵の顔はギャグにしか思えないのだ。田中麗奈に関しては、ミスキャストか否かという問題ではなく、「そもそも彼女の役って必要なのか」と思ってしまう。
敦子って原作では重要な役回りを担当するのかもしれないけど、映画版だと存在意義が乏しい。
清水美砂や篠原涼子のように出番が少なく、明らかに「特別ゲスト的な扱い」ということなら別にいいのよ。
でも主要キャストとして扱われており、それなりに出番もあるのに、必要性が無いんだよな。京極堂は登場した途端、「また謎か。不思議か。それとも怪奇かね。いいかね、関口君。僕たちはこの現実世界の中にいるわけだが、現実そのものを見聞きし、視覚しているわけではない。僕たちが見て、聞いて、嗅いで、触っていると思っているこの世界は、全てこの脳の中で形作られた物だ。そこにある物がそのまま、ここにあるわけでも、ここに伝わるわけでもない」と長い講義をする。
とは言え、その程度で終わっていれば、まるで気にならなかっただろう。
しかし京極堂の講義は、そこで終わらない。京極堂は言葉をつづけ、「僕は君の好きな心理学の話をしているわけじゃないんだよ。あれは科学と言うより、文学だからね。僕が話しているのは極めて単純明快な、つまり科学的な話だ。宗教がかった話でも、精神論でもない」と語る。
そこで少し間を取り、「例えばだ。君は今、僕を見て、僕の声を聞いてるが、それだって僕の姿そのものでも、僕の声そのものでもない。視覚も聴覚も嗅覚も、あらゆる知覚は信号として脳に送られるだけだ。脳は送られた信号を組み合わせることで、現実らしき物を頭の中に再構成するわけだ。再構成された物が知覚であり、知覚しているということを認識することこそが意識なんだ」と語る。まだまだ京極堂の講義は終わらない。
「僕たちが知ることの出来る世界は、全て脳という卸し問屋が専売で卸した断片的情報によって組み上げられた物に過ぎないんだよ。だが、その卸し問屋が、まがい物の情報を売り付けて来たとしよう。さて僕らは、それを偽物だと判別することが出来るだろうか。絶対に見分けは付かないのだよ。脳の他に内なる世界の構成要素を販売してくれる問屋は無いのだ。本物だろうが偽物だろうが、僕ら自身に判定することは出来ないんだ。仮装か現実か。現実もまた、仮装なのだからね。主観において、嘘と真の区別は無いのさ」と喋る。
さらに講義は続く。
「体験も記憶も当てになりはしない。だから僕らは外部記憶に頼って、それを判定しようとする。つまり、客観的な観測と記録だな。しかしだ、例えば量子力学という新しい学問がある。この学問によると、微細な世界では観測者が観測した時点で、観測対象は変化してしまうのだそうだ。これは、客観は成り立たないということだよ。当たり前と言えば当たり前のことだが。量子力学が予想させる、ある結論というのはこうだ。この世界は過去も含めて、観測者が観測した時点で、遡って生成された」と話す。ようやく終わったかと思いきや、まだ続く。
「君の言いたいことは概ね察しが付く。そんな微細で特殊な話ではないというのだろう。ところが、これは同じなんだ。じゃあ聞くがね。君は徳川家康の存在を信じるかい。信じるんだね。しかし君は、家康に会ったことは無いはずだぞ。では何故、君が家康を知っているのか。それは記録が残っているからだ。じゃあ、この本に出ているような妖怪変化の存在も、君は信じるのか」と喋り続ける。
そこからは姑獲鳥の解説に入り、「記録に残っているという意味では、この化け物どもだって家康に引けを取らないぜ。これは姑獲鳥だ。古くは今昔物語集から最近の文学学文献に至るまで、こいつは頻繁に記録されている。これは柳の下に現れて、子供を抱いてくれとせがむ女の化け物だ」「一般には産む女と記すんだがね。当て読みだよ。姑獲鳥というのは、中国の魔物だよ。鳥と化して、赤ん坊をさらいに来る」「我が国の姑獲鳥は預ける。正反対なんだが、どういうわけか混同されてしまった」などと話す。
その後も講釈が少し続くが、もう面倒なので割愛しよう。ともかく、のっけから京極堂は、観客に対して長々と授業を行ってくれるわけだ。
「ワシは映画を見始めたはずなのに、なぜ延々と講釈を聞かされているんだろう」という気分になる。
ただ、私は未読だが、どうやら原作では京極堂がウンチクを語るってのが特徴であり、作品の魅力になっているらしい。ってことは、そうやって長々と喋るのは、原作の持ち味を大切にしていると捉えるべきなんだろう。
でもね、そうだとしても、長いモンは長いし、すんげえ退屈だわ。
その講釈の段階で、気持ち的には本作品から脱落してしまう。そして、一度脱落してしまうと、気持ちを復活させるのは大変だ。
その後も幻想的な映像と不気味な雰囲気だけは伝わるものの、物語やドラマ、登場人物に引き込む力が感じられず、だから冒頭で離れた気持ちが復活しないまま映画を見続ける羽目になる。中盤辺りで、榎木津は木場に「この事件はとっくに終わってる。探偵や刑事の出番じゃない」と言う。そして京極堂は関口に、「久遠寺の事件なら、とっくに終わってる」と告げる。
つまり我々は、とっくに終わっている事件を見せられているのだ。
とっくに終わっているので、もちろん「次の犠牲者が」といった新たな展開など無い。
そもそも、京極堂や榎木津が面倒そうな様子で「とっくに終わってる」と言うように、「とっくに終わっているけど解決していないから、ちゃんと真相を解き明かして解決しなきゃいけない」という事件でもない。
探偵や刑事の出番じゃないってことは、解き明かすべき謎、解決すべき問題など存在しないのだ。後半、京極堂は2時間サスペンスの探偵や刑事と同じように、関係者一同を集めて事件の真相について説明する。
そこで語られることは、全て「後出しジャンケン」みたいな内容だ。観客には手掛かりやヒントなど、ほとんど与えないまま解決篇に突入している。
だから真相を説明されても、一応、「あの時のアレは、そういう意味だった」とか「あの時のアレは、そういう出来事だった」という説明が入るけど、伏線としての距離が遠すぎて、そこには「謎が解けた」という爽快感が感じられない。
しかも、「多重人格による共同殺人」とか「死体を見ていたのに、死体など無いという仮想現実を脳が作り出した」「想像妊娠」とか、そういう事件の肝になる部分に関しては、「それで成立するなら何でも有りじゃん」とも言いたくなるし。ただし、どうやら原作でも、ミステリーとしての面白さは薄いらしい。だから、この映画にミステリーとしての満足度が無いのは、原作を踏襲しているってことなんだろう。
でも、それならそれで、ミステリーに代わる魅力を用意しておくべきだろう。
それが原作だと京極堂の「憑き物落とし」ってことらしいんだけど、映画だとサラッと終わっちゃうし、そこが物語のハイライトとして機能していない。
だから、「雰囲気だけで内容の薄い映画」という感想になってしまう。(観賞日:2015年4月15日)