『R100』:2013、日本

都内の有名家具店に勤務する片山貴文には、マゾヒストの性癖がある。大光ビルヂングという古いビルには、片山が入会した秘密クラブ「ボンデージ」の店舗がある。ボンデージは店内ではなく、日常生活の中でSMプレーを楽しんでもらうシステムになっている。契約は1年間で、状況に応じて様々な女王様が現れる。途中入会は認められず、客から女王様への接触も禁じられている。片山の性癖も、秘密クラブに入会したことも、義父や息子の嵐には内緒だ。
勤務を終えた片山は寿司屋に入り、カウンターに座ってビールを飲む。そこへ女王様が現れ、片山が食べようとしていた寿司を思い切り叩き潰した。片山が黙って寿司を食べると、女王様は次に主人が出した寿司も叩き潰した。その後も出される寿司を女王様が叩き潰し、片山が無言で食べるという作業が続いた。片山が公園で佇んでいると、噴水の中に潜んでいた女王様が現れた。女王様は片山を噴水に引き落とし、頭を水中に突っ込ませた。
片山は嵐から、「ママって、もうおウチに帰ってこないの?」と訊かれる。動揺を隠して「そんなことないよ」と片山が答えると、嵐は「あとどれぐらい?春休みには帰って来る?」と尋ねる。「それくらいには帰って来る」と片山は答えるが、真っ赤な嘘だった。妻の節子は意識障害で入院になっており、回復の見込みは無かった。妻の見舞いに出掛けた帰り、片山は待機していた車の中で女王様とのプレーに興じた。仕事の帰りに建設現場や公園の遊具へ入り、そこでプレーをすることもあった。
片山がボウリング場で女王様を待っていた時は、いつまで経っても現れなかった。ボウリング場が閉館したので片山が「ボンデージ」に電話すると、支配人は「沈黙と放置もプレーの内でございます」と説明した。「女王様は常に貴方の傍にいますよ」と支配人が言った直後、片山のいる電話ボックスの周囲を女王様が駆け回った。片山の義父は節子の主治医から、昏睡状態に変化が無いことを聞かされる。新薬を電気刺激治療と併用する方針を主治医が語ると、義父は「本当に治るんですか」と激しい苛立ちを示した。
病院を訪れた片山は、義父が節子に話し掛けて尊厳死を選ぼうとしている様子を目撃し、気付かれないように身を隠した。その帰り道、コロッケを買って歩いていた片山は、女王様に何度も蹴りを入れられた。片山が会社のトイレで用を足していると女王様が現れ、鞭で打った。「こんな所まで来るなんて何を考えてるんだ。お前の店に電話しようと思ったところだ。契約を解除したい。帰ってくれ」と片山は言うが、女王様は彼を罵りながら何度も鞭で打つ。個室から出て来た上司は、無言で手を洗い、トイレを出て行った。
岸谷という客がベッドのことで女性店員に難癖を付けたので、片山は応対を交代した。すると岸谷は片山に、アンタ、ヤバいクラブに手を出してるだろう」と告げる。片山が動揺すると、彼は「隠したって無駄だよ。俺は全部知ってるんだ」と言う。「何が目的なんだ」と片山が尋ねると、岸谷は「忠告しに来たんだよ。大切な家族まで巻き込まれてしまうんだぞ。早めに手を引かないと、大変なことになるぞ。嵐君がどうなってもいいのか」と語る。しかし片山が少し目を話した隙に、片山は姿を消した。
片山が帰宅すると、縄で縛られた男性の人形が置いてあった。嵐が「学校の帰りに黒い服を着たおばさんに貰った」と言うので、片山は「ボンデージ」に電話を掛ける。「息子には関係ないだろ」と彼が怒鳴ると、支配人は「でも、興奮しませんでしたか」と告げる。片山は「それと、職場に変なのが来た。やり過ぎだ、ルールを守ってくれ」と声を荒らげた。片山が節子の見舞いに行くと、病室に女王様が来た。彼女は片山の両手を縛って目隠しをさせ、熱した蝋を体に垂らす。節子の責める声が聞こえたので、片山は慌てて弁明しようとする。だが、それは女王様が節子の声色を出していただけだった。
映画の試写室から出て来たプロデューサーたちは、沈んだ表情を浮かべていた。片山の物語は、老いた映画監督の手掛けた作品だった。彼らは全員、映画の内容に満足していなかった。映画の続きに戻ると、片山は警察署を訪れて「ボンデージ」のことを相談していた。だが、自ら望んで店に行ったこと、大きな怪我を負っていないことから、どうにもならないと言われてしまう。片山が帰宅すると声の女王様が待ち受けており、彼に目隠しさせて縛り付けた。鞭で打たれていると嵐の声が聞こえるので、片山は女王様の声色だと考える。しかし、目隠しを外されると、そこには嵐が立っていた。
声の女王様は嵐を縛って部屋の隅に吊るし、「今日はもっと楽しませてあげるよ」と片山に言う。唾液の女王様が大きな箱を持って現れ、片山に唾液を浴びせた。声の女王様が義父や節子、上司や警察官の声色で片山に話し掛け、唾液の女王様が彼に唾液を浴びせるプレーが行われた。声の女王様が去った後、唾液の女王様は箱を開いてレコードを掛けた。トマトジュースや擦り下ろした山芋を用意した彼女は、それを口に含んでから片山に唾液を浴びせた。勢いを付けようとした彼女は、体重を掛けた階段の手すりが壊れて転落死する…。

監督・脚本は松本人志、企画は松本人志、企画協力は高須光聖&長谷川朝二&倉本美津留、プロデューサーは竹本夏絵&小西啓介、撮影は田中一成、照明は吉角荘介、美術デザイナーは愛甲悦子、録音は岡本立洋、衣裳は荒木里江、スタイリスト・bondageデザインは伊賀大介、ヘアメイクは伊藤ハジメ、編集は本田吉孝、VFXスーパーバイザーは西尾健太郎、製作総指揮は白岩久弥、製作代表は岡本昭彦、音楽は坂本秀一、音楽制作は土岐秀一郎。
出演は大森南朋、大地真央、寺島しのぶ、片桐はいり、冨永愛、佐藤江梨子、渡辺直美、リンジー・ヘイワード、渡部篤郎、前田吟、YOU、西本晴紀、松本人志、松尾スズキ、美知枝、奥村佳恵、永池南津子、桑原麻紀、播田美保、護あさな、吉田優華、安藤輪子、小木茂光、北見敏之、高橋昌也、松浦祐也、林田麻里、佐藤恒治、佐藤貢三、日野陽仁、渕上泰史、中村直太郎、野中隆光、小高三良、吉川まりあ、奈之未夜、深谷美歩、群馬茂平、太田順子、佐藤ユウ、中村真綾、川口圭子、荒木誠、杉崎佳穂、石井凛太朗、松田百香、池田愛、新保竜也、藤堂悠紀子、小関靖幸、井上治郎ら。


お笑いコンビ「ダウンタウン」の松本人志が撮った4本目の映画。
今回は監督・脚本・企画を担当した他、警察官の役で出演している。
片山を大森南朋、CEOをリンジー・ヘイワード、岸谷を渡部篤郎、支配人を松尾スズキ、片山の義父を前田吟、節子をYOU、嵐を西本晴紀、片山の上司を小木茂光、節子の主治医を北見敏之、映画監督を高橋昌也が演じている。高橋昌也は、これが遺作となった。
女王様役は、大地真央、寺島しのぶ、片桐はいり、冨永愛、佐藤江梨子、渡辺直美など。

松本人志という人は、とてもプライドが高い。
だから、これまで撮った3作が酷評を浴びていようとも、自分に映画監督としての才能が無いとは決して認めようとしないだろう。優れた作品を撮るために、過去の映画を見て勉強しようとも思わないだろう。
それどころか、「俺は今までに無い映画、映画の概念を破壊するような映画を撮るんだから、過去の映画を見ても意味が無い」ってなことぐらい思っているかもしれない(彼のインタビューからは、そういう意識が感じられる)。
実際、過去の3作にしろ、この映画にしろ、映画の基礎をキッチリと理解した上で撮っているとは感じない。

だが、そもそもダウンタウンの漫才がどのようなモノだったのかと考えてほしい。
ダウンタウンの漫才は革命的だったが、それは先輩である夢路いとし・喜味こいしや中田カウス・ボタン、オール阪神・巨人といった王道を行く漫才を学習し、基礎を理解した上で、それを崩して作り上げたモノだ。基礎を知らず、いきなり生み出されたスタイルではない。
映画だって同じで、基礎を分かった上で崩さないと、ただの素人が作ったデタラメなシロモノでしかない。
そりゃあ、そういう作り方でも、まぐれ当たりは出るかもしれない。しかし所詮は偶然に過ぎないので、何本も続けて傑作を生み出すことは出来ない。
そして松本人志という人は、まぐれ当たりも打っていない。

映画が公開される際、松本人志監督はインタビューの中で「SM映画だとも思っていない」とか「卑怯な映画でもある」といったことを語っている。
しかし、それは「逃げ」でしかない。
前述したように、松本人志という人はプライドが高いので、酷評や興行的な失敗を認めたくない。だが、今までの3作からすると、この映画も酷評を浴びてコケる可能性が考えられる。
だから、それを見越して、先に逃げを打っているだけなのだ。

先に逃げの手を打ってはいるが、結局のところ、これは「単純につまらない映画」である。
映画を破壊しようとして失敗しているとか、実験的なことをやろうとして空回りしているとか、そういうことではない。
破壊も出来ていないし、実験的な内容になっているわけでもない。
ひょっとすると松本人志監督は「今までに無い演出」とか「斬新な仕掛け」と思っているかもしれないが、この映画に盛り込まれていることは全て、先人の監督がやっていることばかりだ。

この映画で最初に「間違っている」と感じるのは、いきなり非日常から始めていることだ。
映画が始まるとレストランのトイレで口紅を直す女(冨永愛)が写し出され、彼女がトイレを出るとテーブルで片山が待っている。
片山が出したクイズの答えを教えてベラベラ喋っていると、女は上段回し蹴りを彼に浴びせる。
店外に出た女は上着を脱いでボンデージ・ルックになり、また片山に蹴りを入れる。
片山は「ボンデージ」へ行き、支配人の説明を受ける。
その後、片山がケーキを買って帰宅する様子が写り、ようやく「日常」になる。

だが、ベースとなる「日常」を描写して、それから「非日常」に移らないと、「非日常」が「非日常」であることが伝わりにくいし、「非日常」としてのインパクトも薄くなってしまう。
先に「平凡なサラリーマンであり、良き父親でもある」という片山の姿を描写して、それから「実はマゾの性癖があり、SMクラブに入会している」という秘密を明かした方がいい。
これがアクション映画やスパイ映画なんかだと、いきなり非日常から入るのも有りだろう。「そんな危険なことをやっている主人公が、普段は全く違うんですよ」という見せ方をすれば、そのギャップが効果的に作用する。
しかし本作品の場合、非日常から入ることの利点は何も無い。
この映画でギャップが効果的に作用するのは、先に「普段の片山」を見せるやり方だ。

「ボンデージ」のシステムは「日常生活の中でSMプレーを楽しんでもらう。
いつ来るか分からない緊張感が客を満足させる」ということになっているけど、SMってのは、そういうことじゃないだろう。
そもそも、基本的にマゾヒストの人間は性癖を隠したいはずなんだから、「日常生活の中で女王様が急に現れてSMプレーが始まる」 ってのは、どう考えたって商売として成立しないだろう。
まあ、その辺りは「リアリティーは無視している」ということなら仕方が無いけど。

それと、ボンデージ衣装の女王様が現れたら周囲の人間は驚いたり困惑したりするはずだし、そこで急にSMプレーが始まったら止めようとする人間だっているだろう。
寿司屋のシーンではカウンターのカップルは寿司を潰す女王様を見て眉をひそめているが、寿司屋の主人が普通に寿司を握って出し続けるのは明らかに変だ。
普通なら、女王様に「やめてくれませんか」と注意したり、「何してるんですか」と言ったりするだろう。
女王様が線路の近くで片山を何度も蹴り付けるシーンがあるが、目撃者がいたら警察に通報するだろう。

監督が「SM映画だとも思っていない」という逃げ口上を打っているので、SM映画として成立してないいことは受け入れよう。
そもそも、SMクラブで行われる「プレーとしてのSM」と、SM映画におけるSMってのは全くの別物だしね。
だが、SM映画じゃないにしても、「だからSMプレーのバリエーションが乏しくても仕方が無い」ってことにはならない。
この映画の女王様は、蹴りを入れる、鞭で打つ、蝋を垂らす、ロープで縛るといった、SMと言えば誰もが思い付くようなプレーばかりを行う。

そうじゃなくて、もっと「一風変わったSMプレー」を、色々と盛り込むべきじゃないかと。
寿司屋の女王様が寿司を叩き潰すのは変則的だけど、それは『ビジュアルバム』の焼き直しなのよね。
唾液の女王様のシーンは、そこだけ急にテイストが変わってコントっぽくなることへの違和感があるし。丸呑みの女王様に関しては、もはや完全に脱線していてSMでも何でもないし。
あと、登場するSM嬢が全て黒のボンデージ衣装ってのも、センスが古いというか、狭いというか。

SMプレーの最中に片山の顔がCGで変化して周囲に波紋が出るという描写があり、それによって「恍惚状態」を表現しているんだけど、そんなのは邪魔なだけだ。
そもそも、わざわざ「ここで恍惚を感じました」というのをアピールする必要性さえ無いのだ。
何か大きな意味があって、そういう演出を持ち込んでいるのかと思ったが、そうではなかった。意味が無いなら、ただカッコ悪いだけだ。
ただし、ある種の捉え方をすれば、それも「意味がある」ということになる。それについては後述する。

片山が病院から帰りに待機していた車内へ入ったり、仕事帰りに建設現場や公園の遊具へ入ったりしてSMプレーをするというのは、明らかに設定と矛盾している。
店の支配人は「いつやって来るか分からないという緊張感が、お客様をきっと満足させることでしょう」と説明していたはずだ。それならば、「普通に暮らしていたら、急に女王様が現れてプレーが始まる」という形であるべきだ。
しかし前述したケースだと、片山は「そこに女王様がいる」というのを事前に知っていて、そこに行った途端にプレーが始まったことになる。それはルールがブレてるってことになるでしょ。
実は寿司屋のシーンでも「勤務中の片山が時間を気にしている」というシーンがあるので、きっと寿司屋に来ることを事前に知らされていたんだろう。
寿司屋の場合、「そこで食事をしている間、いつ女王様が来るか分からない」という程度の緊張感は出るかもしれないと思ったら、ボウリング場のシーンで「待ち合わせの時間になっても、なかなか来ないし」と片山は言っているんだよね。つまり女王様が来る時間まで事前に知らされているわけで、そうなると前述したルールと違うでしょうに。

松本人志監督が自ら認めている通り、これは卑怯な映画だ。
前述したように、この映画は単純につまらないのだが、それに対する言い訳を用意しているのだ。
開始から40分ぐらい経過した辺りで画面に『R100』という文字が表記され、進行が中断される。そして、試写室のロビーで暗い顔をしている数名の人物が写し出され、『R100』が劇中劇であることが示される。
ようするに、「ここまでの内容を退屈だ、つまらないと感じていたかもしれませんが、全ては老いぼれ監督の作った駄作という設定なんです」という形にしてあるのだ。

それだけに留まらず、映画プロデューサーが「根本的なことを言うけど、ボンデージという組織の目的が全然分からない」「SMクラブにCEOって何なの」「メリーゴーラウンドやウォーターラウンジなど変な物が出て来るが所在地が分からない」「声の女王様は物真似か。そもそも知らない奥さんの物真似が、なぜ出来るのか」といった指摘を口にする。
観客が不自然に思うであろう箇所を列挙することで、つまらないポイントを具体的に示すのだ。
だが、それはボケに対するツッコミではなく、ただの言い訳だ。

私が前述した幾つかの疑問や指摘も、全て「だって老いぼれ監督の駄作だから」ということで、説明が付いてしまう。恍惚状態の表現についても、「老いぼれ監督のダサいセンスを示している」という捉え方をすれば、意味があるってことになる。
「老いぼれ監督の駄作」という設定によって、つまらない内容を全て有りにしようとしているのだ。
だが、それは単なる逃げ口上に過ぎない。
「監督は、100歳を超えないと、この映画は理解できないだろうとおっしゃっていました」という助監督の台詞も、まさに松本監督の逃げ口上だ。

もちろん松本人志監督は、最初から「誰もが認めるような、どうしようもない駄作を撮ろう」と思っていたわけではないだろう。本人は傑作を作るつもりだったはずだ。
だが、心のどこかで、「つまらないと思われるかもしれない」という不安があったのではないか。だからこそ、「老いぼれ監督の撮った酷い映画」というメタ構造の仕掛けによって、酷評を浴びた時に「だって、つまらない映画という設定なんだから」と言い訳できるような逃げ道を用意したのではないだろうか。
しかし、どれだけ逃げの手を打っても、興行的な惨敗や酷評の嵐という現実は待ち受けているのだ。
そこから逃げようとすれば、もはや現実逃避しか残されていない。

松本人志監督はインタビューの中で「メチャクチャにした責任を被りたくなかった」とコメントしているが、誰がどう考えても責任は彼にある。
役者や企画、スケジュールや製作会社の圧力など、他の部分に大きな問題があって駄作になったのであれば情状酌量の余地はある。
だが、そうではなく、松本人志監督に全ての問題があるんだから。
それにしても、彼が周囲をイエスマンばかりで固めているから残念なことになっているのは確かだろうし、そろそろ誰かが「王様は裸だ」と言ってあげるべきなんじゃないだろうか。

(観賞日:2015年2月6日)


2013年度 HIHOはくさいアワード:4位

 

*ポンコツ映画愛護協会