『親分はイエス様』:2001、日本&韓国
山政会と別組織との手打ち式に、中森組の鉄砲玉・アキラたちが乱入した。山政会若頭補佐の木原勇次と子分は、アキラたちを殺害する。アキラの姉で中森組若頭補佐・島俊夫の愛人でもある美加は、パチンコ店支配人の梅津学に抱かれる。それを知った島は、梅津を殺す。山政会と中森組の抗争は、激しくなっていく。
木原に暴力を振るわれた韓国人妻・盛愛は、娘のハンナを連れて日の出町教会に出向き、金牧師に会う。盛愛は瑛姫という女性と親しくなるが、彼女の夫は島だった。やがて木原は島のいる賭場に乗り込み、それぞれの兄貴分が死亡する。しかし木原は島に拳銃を向けたものの、引き金を引くことが出来なかった。
木原は大阪へ身を隠すが、半年後にはドラッグに溺れてボロボロになっていた。空腹の彼は妻を思い出して教会に迷い込み、田村孝弘牧師にラーメンを恵んでもらった。木原は久しぶりに家に戻り、妻と再会した。一方、島も組から見捨てられ、川平悟によって車ごと海に沈められる。しかし彼は死んでおらず、自力で海から這い上がった。
日の出町教会に足を向けた木原は、そこでヤクザの志田徹也によるスピーチを聞いた。彼は刑務所に入っている時、牧師に出会ったという。志田は罪滅ぼしのために十字架を背負って歩きたいが、実行は出来ていないと語る。スピーチを終えた後、彼は警察官に連行された。木原は、十字架を背負って歩いてみようかと考える。
木原は仲間の白木武によって、組から破門状が出されたことを聞かされる。山政会と中森組では、それぞれ木原と島に責任を被せて手打ちにする計画が進んでいたのだ。そこへ美加が現れて木原を狙撃し、怪我を負わせる。しかし島が姿を現し、美加を撃った。さらに島は白木を射殺し、そこから立ち去った。
木原は妻と娘を連れて、故郷の鹿児島へ戻った。彼は木村達夫牧師に用意してもらった材料を使い、十字架を作る。彼は妻と娘を残し、日本縦断リバイバル十字架行進を始める。十字架を背負って歩きながら行く先々で人々に罪を告白し、神を信じるよう訴えるのだ。やがて木原の行進には、民宿の主人・玉城やトラック運転手の桑原といった面々が加わる。だが、中森組への復讐を果たした島が、木原との勝負を付けるために姿を現した…。監督は斎藤耕一、原作はミッション・バラバ、脚本は松山善三&斎藤耕一、製作は中島哲夫&成澤章&高橋松男、プロデューサーは高田信一&趙俊相&萩原正夫&霜村裕、プロデューサー補は速水真吾、製作統括は高橋雅宏、企画協力は原口一、ミッションプロデューサーは野辺忠彦&尾川匠、撮影は長沼六男、編集は井上治、録音は山田均、照明は吉角荘介、美術は山崎輝、音楽は宮川泰、歌はKang Da Hyun『mother sky』。
出演は渡瀬恒彦、奥田瑛二、ナ・ヨンヒ、ユン・ユソン、渡辺裕之、中村嘉葎雄、ミッキー・カーチス、渡辺哲、ガッツ石松、夏樹陽子、ジョン・ヨンスク、ジョン・ウク、イ・ジョンマン、増田惠子、岡崎二朗、誠直也、辰巳佳太、金山太一、永井杏、片桐竜次、木村栄、岡崎礼、小林勝彦、石井光三、鹿内孝、栗原みなみ、チャン・ミラ、ジョージー・ホー、牧田圭史、佐原健二、杜澤奉文、霞涼二、殺陣剛太、山口剛、武蔵拳、星野晃、坂井勝博、佐藤紀子、神代みゆき、坂井朋子、石山雄大、大久保運、伊達弘、深作覚、城春樹、佐藤晟也ら。
元ヤクザによる伝道グループ“ミッション・バラバ”のノンフィクション『刺青クリスチャン』を元にした作品。
ただし冒頭に紹介されるミッション・バラバの面々と同名の人物は劇中に登場しないので、映画は「彼らをモデルにしたフィクション」というスタンスで製作されているのだろう。イエス・キリスト生誕2000年記念作品だそうだ。
木原を渡瀬恒彦、島を奥田瑛二、盛愛(ソンエイ)をナ・ヨンヒ、瑛姫(ヨンヒ)をユン・ユソン、志田を渡辺裕之、木村牧師を中村嘉葎雄、田村牧師をミッキー・カーチス、玉城を渡辺哲、桑原をガッツ石松、玉城の妻を夏樹陽子、盛愛の母親をジョン・ヨンスク、金牧師をジョン・ウク、盛愛の父親をイ・ジョンマン、美加を増田惠子が演じている。最初はヤクザ映画としての色があるのだが、そこから既に失敗は始まっている。何が失敗かというと、「そこで何が起きているのか」ということがボンヤリしているのだ。
手打ち式をしているのは、どこの組織なのか。なぜ中森組が妨害したのか。出てくる奴らは、何という名前なのか。どういう人間関係なのか。
そういうことの説明が、ものすごく不親切だ。「とりあえず理不尽な暴力が渦巻いていることを描けばいいんだろ」的な、漠然とした描写になっている。
どうせ細かいことなど必要が無いと思って、手を抜いているのかもしれない。
しかし、どういう意図で、どういう方向に登場人物が動いているのかを不鮮明にしてはいけないだろう。そこは、それだけでヤクザ映画として成立するようなストーリーテリングが必要なはずだ。あるいは、そこに力を入れないにしても、例えばテロップやナレーションを使って説明しても構わないだろう。話が散漫なために、木原がドラッグに溺れて妄想に襲われるほど落ちぶれるという流れにも、伝わってくるモノが無い。刑務所での志田の様子や、出所した直後の彼の様子なども描かれているが、中途半端に見せるぐらいなら無い方がスッキリする。
そういうシーンが無くても、スピーチのシーンだけで彼の存在は成立してしまっているのだし。大阪の教会で牧師に会うことで木原が信仰に目覚めるのかと思ったら、そういうわけではない。そのシーンは、特にどうということもなくスルーしてしまう。しかし、後で金牧師に会う時に木原が「大阪の教会で義理が出来たのでやって来た」と言っているのだから、本来ならば、もっと大切に扱うべきシーンだったはずなのだが。
志田のスピーチを聞いた木原は、それだけで「十字架を担いでみようかな」と言うのだが、ものすごく軽い(まあ志田のスピーチも軽いのだが)。とてもじゃないが、木原が信仰に目覚めたようには思えない。
実際、そんな言葉を口にした後にヤクザを半殺しにしているわけだから、その言葉が軽く聞こえたのは間違いじゃないだろう。行進が始まった後、木原には仲間が増えていくのだが、この扱いが軽い。最初に玉城が仲間になるシーンからして、わずか数分しか一緒にいなかったのに、次のシーンでは「一緒に行きましょう」と簡単に共鳴してしまっている。
前半の抗争シーンをシェイプアップして、仲間と出会うシーンや行進途中での出来事を広げた方がいいんじゃないだろうか。
木原や仲間たちが行く先々で人々に説法するシーンが何度か出てくるが、その言葉も軽くて浅い。それに申し訳ないが、かなり胡散臭い連中に見える。苦難の道、いばらの道を歩いているという感じも受けない。それほど苦労が描かれない内に、マスコミに取り上げられたり親切な人々に会ったりしている。ドラッグでボロボロになっていた木原が、何によって人生をやり直そうと心を変えたのか、それがサッパリ分からない。彼が改心して信仰に全てを捧げようと決意する心の変遷が見えないこともあって、日本縦断が単なるパフォーマンスにしか感じられない。他に生きる目的が無くなって拠り所も無くなった男の、浅い思い付きにしか見えない。
ヤクザから足を洗うにしても、なせ木原が選択した次の行動が日本縦断リバイバル十字架行進だったのか、その動機付けに納得できるだけの何かを感じない。映画を見ている限り、「別に十字架を背負って日本縦断しなくても、妻と娘を大切にして真面目に働くように変わるだけでいいじゃないのか」と思ってしまう。どれだけ好意的に受け取ったとしても、木原の日本縦断はアイデンティティーを確立するための行為として受け取るのが精一杯だ。そして、それは自分のための行為でしかない。信仰による奉仕ではない。
しかも製作者は木原本人に、「神様のためじゃなく、かみさんに誉めてもらいたいから始めた」と言わせてしまっている。
ということは、つまり製作者サイドも最初から、木原が信仰に生きるようになった話として描くつもりが無かったということだ。
しかし、この映画を夫婦愛の物語としてまとめるのは、ポイントがズレてるとしか思えない。だったら、やはり十字架行進は単なるパフォーマンスであり、キリスト教は妻に認めてもらうための道具に過ぎなかったということにさえなってしまうぞ。たぶん監督も脚本家も、キリスト教や信仰について全く興味が無いのだろう。そして、この映画を作るために学ぶという作業も、やっていないのだろう。
もしキリスト教に興味があったり学んだりしていれば、木原に聖書の言葉の1つも語らせようとするはずだ。信仰について語らせようとするはずだ。
しかし、そういう意識はカケラも感じない。
なぜ木原に信仰をアピールさせることから逃げようとするのか、その理由が全く分からない。
ひょっとすると、日本にはキリスト教への馴染みが薄い人が多いので、宗教色の強い映画にすると興行収入に響くとでも考えたのだろうか。
しかし、信仰を描くことから逃げるぐらいなら、こんな題材を最初から扱わなければいいのである。