『おしん』:2013、日本

明治40年早春。7歳の谷村しんは、妊娠中の母・ふじ、父・作造、祖母・なか、兄・庄治たちと暮らしていた。ある夜、おしんは作造から、材木問屋へ奉公に出るよう告げられる。もう少しで学校へ上がるので行きたくないと訴えるおしんだが、庄治は「俺たち小作は米が取れても半分は地主様に納めねばなんねえ。米取れねえと食うモン無くなる」と述べた。作造はおしんに、「もう、おめえさ食わせる米ねえんだ」と打ち明けた。おしんが頑なに嫌がるので作造が激昂して殴り掛かろうとすると、ふじが制止した。
翌日、ふじはお腹の子を堕ろす目的で冷たい川に入るが、見つけた近所の人々が慌てて引っ張り上げた。その様子を見たおしんは、奉公に出ることを決めた。中川材木店の手代である定次は、一年の奉公の給金として米一俵を前渡した。おしんは家族と別れ、筏で川を下った。中川材木店に到着したおしんは、まだ外が暗い早朝から叩き起こされた。彼女は厳しい使用人・つねの指示を受け、朝食の準備を手伝った。店の男たちが朝食を取る時間になっても、おしんは掃除を命じられた。
ようやくおしんが食事を許された時には、ほとんど飯が残っていなかった。同年代の子供たちが学校に行く様子を横目で見ながら、おしんは赤ん坊の世話をした。朝食の後も、おしんは休む暇も無く働かされた。幼い彼女にとっては過酷な労働だったが、つねは容赦しなかった。労働の日々が続くが、おしんは女主人・きんから「雪解けたら、おしんも年季が明けるんだな」と言われて笑顔を見せた。そんな中、つねの持っていた財布から50銭銀貨が無くなり、彼女はおしんを犯人と決め付けた。
おんは潔白を訴えるが、つねは「やましいことしてねえなら着物脱げ」と要求する。着物を脱がしても金が見つからないので、つねはおしんが母から預かったお守りを外させる。お守りの中には、なかがおしんに渡した50銭銀貨が入っていた。しかし、つねはおしんの説明を嘘だと決め付け、平手打ちを浴びせた。つねは銀貨を奪い取り、きんもおしんを泥棒だと思い込んで非難した。おしんは材木店を飛び出し、吹雪の中で倒れ込んだ。
そこへ俊作という青年が通り掛かり、おしんを炭焼き小屋に運び込んで介抱した。俊作は炭焼き職人の松造と一緒に暮らしていた。おしんの体調が回復した頃、材木店では定次が使用人を使いに出す時に50銭を借りたことが判明していた。雪が止んだので、松造は里へ下りるようおしんに促した。おしんは奉公先から逃げて来たことを語り、帰る場所など無いと告げる。松造は炭焼き小屋でおしんを住まわせることに難色を示すが、俊作が「いいさ、居ろ」と告げたので驚いた。松造がおしんを住まわせることを嫌ったのは、俊作が隠れて暮らす身の上だったからだ。
俊作は松造に、「あの子も逃げて来たんだ、ほっとけないよ。松爺だってこの山に居させてくれてるだろ、逃げて来た俺を」と述べた。狩りから戻った俊作が高熱で倒れ込んだ時、松造は「まだ体の中さ鉄砲玉残ってっから、無理してしまうと、こだらことになるんだ」と言いながら彼の汗を拭いた。おしんが弾丸のことを尋ねると、松造は日露戦争で俊作が傷を負ったことを教えた。おしんは川で水を汲み、俊作を夜通し看病した。その甲斐あって、俊作の熱は下がった。
俊作はおしんに本を読んでやり、読み書きを教えた。おしんが与謝野晶子の詩『君死にたまふことなかれ』を読むと、俊作は意味を説明した。おしんが俊作の怪我を「名誉の負傷でねえのか」と表現すると、彼は険しい表情で「名誉でも何でもない。戦争っていうのは人を余計に殺した方が勝つんだ。そんなことが立派だと言えるか?」と口にした。「あんちゃんも人を殺したのか」と問われた俊作は、少し間を置いてから「だから軍人は辞めたんだ」と述べた。
俊作はハーモニカを演奏し、おしんに聴かせた。正月が来ると、おしんは松造、俊作と一緒に餅つきをした。春が訪れると、松造はおしんは山を下りるよう促した。おしんは俊作に、「帰りたくない。ここさ置いてけろ。何でもするから。おら、ここが好きだ」と訴える。俊作は「お前にはこれからやらなきゃいけないことが、たくさんある。いつまでも、こんなとこにいちゃ駄目なんだ」と説き、餞別代わりにハーモニカを渡した。
俊作はおしんを背負って、山を下りた。村へ向かおうとすると憲兵隊が通り掛かり、2人に不審を抱いて質問した。俊作は「この子を村の知り合いに預けに行く」と言うが、憲兵隊は彼を脱走兵と睨んで連行しようとする。俊作はおしんに「力一杯生きるんだぞ」と言い残し、逃走を図って銃殺された。おしんは一人で雪道を歩き、実家へ戻りった。ふじは喜んで抱き締めるが、作造は平手打ちを浴びせた。
作造が「おめえのおかげで、どっだ酷え目に遭ったか知ってんのか。給金の米ば取られて、顔ば潰されて」とおしんに殴り掛かろうとすると、ふじが必死で止めた。ふじがおしんが家に入れようとすると、作造は「奉公の辛抱も出来ねえような奴は、もう親でも子でもねえ。さっさと出てけ」と怒鳴り付けた。おしんは納屋で一夜を過ごし、ハーモニカを握り締めた。再び実家で暮らし始めたおしんは、まだ赤ん坊の妹・すみが口減らしのために貰われていくのを目にした。
明治41年冬。おしんは新たな奉公先である加賀屋へ赴いた。加賀屋は酒田の米問屋で、八代清太郎という男が営んでいる。しかし実質的に店を取り仕切っているのは清太郎の支配的な母・くにであり、彼は言いなりになっている。おしんは子守として雇われたはずだったが、くにから「雇った覚えは無い」と言われる。番頭から帰るよう言われたおしんが困っていると、清太郎には妻・みのが「村の世話人が勝手に決めてしまったようだ」と告げた。
みのは「この話は無かったことにしてほしい」と告げ、宿賃と船賃を渡した。しかし、おしんは「おら、帰らねえ。どんなに辛いことがあっても辛抱するつもりで来たんだ」と告げる。おしんが「家族にひもじい思いをさせたくないので働かせてほしい」という思いを必死に訴え頭を下げているとと、くにが来て「おみの、そのわらし、ウチさ置いてやれ」と告げる。彼女はおしんに、「俺はのう、おめえの心根を買ったなだ」と述べた。おしんは朝から元気に働き、他の奉公人からも受け入れられた。
みのにはおしんと同年代の娘・加代がおり、奉公人・うめを伴って学校に通っていた。おしんが話し掛けても、加代は冷たい態度を取った。おしんは八代家の赤ん坊・小夜の子守をしている時、加代の部屋にある本が気になった。おしんは加代の留守中に部屋へ上がり、本を呼んだ。仕事が残っていたため、おしんは本を持ったまま部屋を出てしまった。本を捜す加代の声を聞き、おしんは慌てて本を返した。おしんは盗む気など無かったと釈明したが、みのや加代には信じてもらえなかった。
清太郎はおしんを泥棒扱いし、奉公人を辞めさせようと考える。おしんが「どうしても本読みたくて」と言うので、りくは本を読ませて見た。字が読めると知ったりくは、加代に「おしんに本を貸してやれ」と告げた。りくから扱き下ろされた加代は、おしんに強い憎しみを抱いた。おしんがハーモニカを吹いていると、加代は自分の物にしようとした。おしんは加代を突き飛ばし、ハーモニカを奪い返した。その際、転倒した加代が石に頭をぶつけて怪我を負う。りくから理由を問われたおしんは、「おらが悪かった」と詫びるだけだった…。

監督は冨樫森、原作は橋田壽賀子、脚本は山田耕大、脚本協力は五十嵐愛、企画は中沢敏明&丸山典由喜、製作は遠谷信幸&岩原貞雄&加藤直次&遠藤茂行&木下直哉&ご宏亮&古賀誠一&宮田一幸&町田智子&浅井敬&宇生雅明&加藤徹&谷徳彦&坂井宏先&寒河江浩二&園部稔&吉村和文&松浦隆一&岡正和&鈴木謙司 エグゼクティブプロデューサーは千野毅彦&田代秀樹、チーフプロデューサーは厨子健介&谷澤伸幸&岡田有正、プロデューサーは古賀俊輔&湊谷恭史、プロデューサー補は楠本直樹、アソシエイトプロデューサーは津田悠子、共同プロデューサー(中国)は仲偉江、撮影は鈴木周一郎、照明は佐藤浩太、美術は中川理仁、美術監修は丸尾知行、録音は岩丸恒、編集は西尾光男、音楽は めいなCo.、音楽プロデューサーは津島玄一、主題歌 「Belief〜春を待つ君へ〜」はflumpool×MayDay。
出演は濱田ここね、上戸彩、泉ピン子、稲垣吾郎、ガッツ石松、吉村実子、岸本加世子、井頭愛海、小林綾子、満島真之介、乃木涼介、小林きな子、菜葉菜、久野雅弘、広田亮平、齋藤絵美、佐久間としひこ(佐久間利彦)、・岡田悟、夢実子(今田由美子)、泉口梨音、阿部琉奈、長谷川瑠音、滝野こまち、杉山実愛、武藤令子、大滝勝則、小鷹信太郎、村山聖来、吉田拓央、阿部心和、齋藤羽琉也、門脇登、升野道人、田村健太郎、豊田茂美、宮崎実、小林雅空、齋藤百華、齋藤杏華、菅原さくら、菅原鳳祥、菅原光貴、豊田侑志、中村百花、本間海人、穂上まどか、佐久間正明、齋藤裕樹、梅津一生、本間敦人ら。


1983年4月から1984年3月まで放送されていたNHK連続テレビ小説第31作をリメイクした映画。
監督の冨樫森と脚本の山田耕大は、『ごめん』『鉄人28号』 のコンビ。
おしん役はオーディションで選ばれた濱田ここねが演じている。
くにを演じる泉ピン子、松造を演じるガッツ石松はそれぞれ、ふじと露天商の元締め・中沢健役でTVシリーズに出演していた。
ふじを上戸彩、作造を稲垣吾郎、なかを吉村実子、つねを岸本加世子、加代を井頭愛海、みのを小林綾子、俊作を満島真之介、清太郎を乃木涼介が演じている。

NHK連続テレビ小説は通常なら半年間の放送なのだが、『おしん』はNHKテレビ放送開始30周年記念作品ということで1年間の放送となった。少女期を小林綾子、成年期を田中裕子、中年期を乙羽信子が演じ、おしんの生誕から老年期までを描く一代記だった。
そんなTVシリーズを109分の映画でリメイクしようとしたら、どう考えたって時間が足りない。無理をすれば全ての内容を盛り込むことも出来るだろうが、それは単なるダイジェストであったり、ものすごく駆け足で内容を端折ったりする形にせざるを得ないだろう。
そこで、このリメイク版映画がどういう方法を取ったのかというと、「一部分だけを抽出する」という方法を取った。おしんの少女期だけで1本の映画に仕上げることにしたのだ。
一代記を丸ごと盛り込んでダイジェストになってしまうぐらいなら、人生の一部分だけを切り取ってしまうというのは、悪くない考えだ。例えば「老年のヒロインが人生を回想する」という形にすれば、少女期も成年期も中年期も描くことは出来るだろうが(TV版も老齢のおしんが人生を振り返るという構成だった)、どうしてもエピソードの表面をなぞるだけになる可能性が高くなる。

たぶん、おしんというキャラクターを演じていた女優として多くの人々が抱いているイメージは、小林綾子だろう。前述のように田中裕子と乙羽信子も演じていたのだが、「おしんと言えば小林綾子」というイメージが強い。また、幼いおしんが父親と別れるシーンも、かなり有名だろう。
そういう諸々を考えると、「おしんの人生の中で少女期だけをピックアップする」というのは一見、正しい判断のように思えてしまうかもしれない。
しかし実のところ、それは大きな過ちなのである。
なぜ少女期をピックアップするのが失敗かというと、そこにハッピーエンドが無いからだ。
おしんの人生は苦難の連続なのだが、成長するに従って、少しずつ嬉しい出来事が増えて行く。惚れた男と結婚して子供を授かったり、商才を発揮して店を大きくしたりするのだ。何か幸せな出来事があっても順風満帆には行かず、その後も不幸に見舞われるが、その度に立ち直るのだ。

だが、少女期の物語で終わると、「辛いことが多かったけど、苦労が報われて、ようやく幸せが訪れる」という状況が訪れないのだ。
「貧乏農家の少女が奉公に出ました。色んな苦労がありました。これからも奉公人としのて生活が続きます。おしまい」って、そんな話を、多くの観客が見たいと思うだろうか。そして、それを見た観客が面白いと感じるだろうか。
苦労が報われないまま終わる話を、多くの観客が喜ぶとは到底思えない。加賀屋での奉公生活は幸せそうだけど、それは「苦労が報われた」ってことではないし。
どう考えたって、最後はハッピーエンドにしてあげて、ヒロインの苦労が報われる形にすべきだろうに。
そこは大幅に改変してもいいはずだ。それを原作者の橋田壽賀子が拒否するってことも無いと思うし。

「ヒロインの苦労が報われないまま終わる」というのが本作品の致命的な欠点であることは明らかだが、それ以外にも色々と問題点は多い。
例えば、「ダイジェストになるぐらいなら人生の一部分だけを切り取った方がいい」と前述したが、実際には少女期だけを描いている本作品もダイジェストのような状態になっている。
まあ考えてみれば、TVシリーズだって少女期には33話分の時間を費やしていたわけだから、それだけでも相当なボリュームなのだ。
とは言え、「だから仕方が無い」ということではない。

「谷村家は貧乏な農家」ということは重要な要素のはずだが、冒頭にセリフで軽く触れるだけ。母が冷たい川で中絶しようとするのを見たおしんが「家族のために奉公へ出る」と決意するのだが、それだとヒロインを突き動かす動機としては弱い。
もっと「不作で米が取れず、毎日の食事にも困っている」「何とか飢えを凌ぐために様々なことをやっている」「両親は共に頑張って働いているが、わずかな稼ぎしか無い」といった事柄を丁寧に描写し、「谷村家は追い詰められていて、おしんが働く以外に手は無い」という追い詰められた状況を観客にアピールしておけば、「おしんが奉公に出ると決意する」という部分で心を動かすことも出来ただろう。
おしんが給金の渡しとして届けられた米俵から米粒を取り出し、じっと見つめるシーンがあるが、それは「おしんが白い米なんて全く食べられない状況にある」という状況が伝わっていればこそ「だから白米を愛おしそうに見つめる」ということも認識できるわけで。
そういう前提となる状況の描写が省略されているので、「じっと米粒を見つめる」という描写が単なる表面的なモノになってしまい、その奥にあるヒロインの心情が全く伝わらなくなってしまう。

「時間が足りないから、さっさとヒロインが奉公に出る展開まで持って行きたい」ってことなのか、おしんと家族の関係描写はペラペラになっている。
だから当然のことながら、おしんが奉公に出るシーン、つまり家族と別れるシーンには、心を揺さぶるような要素が何も無い。おしん&ふじが涙で別れの会話を交わしても、こっちの涙腺はピクリとも反応しない。
TV版と同じく、筏で川を下る時に作造が雪の中を走って来るシーンもあるのだが、こっちの心は平坦なままだ。
そこで「ここは泣くシーンですよ」とばかりに流れて来るBGMも、逆に気持ちを冷めさせるぐらいだ。

材木店へ奉公に出た後も、「ダイジェストの時間」は持続する。
両親との別れのシーンの後、おしんが働き始めた初日の様子が描かれる。雪が積もる中、おしんが冷たい川で洗濯をするシーンがあって、そこからカットが切り替わるとセミが鳴いており、風鈴が飾ってある。
つまり、あっという間に季節が夏へ変わっているのだ。
「最初は慣れない仕事に苦労したけど少しずつ順応していく」とか、「材木店の人々との距離が近付く」とか、そういう手順は全く踏んでいない。

廊下を掃除するおしんが、つねから「ここ終わったら台所な」と言われて笑顔で「もう終わったっす」と告げる様子が描かれているので、「ずっと仕事を続けていたので、もう慣れました」という状態へと変化しているわけだ。早いねえ。
しかも、次のカットでは雪が降っているから「どういうこと?」と混乱していると、それに続くカットでは、きんが「雪が解けたら年季が明ける」と言っている。つまり、もう1年が過ぎたってことなのだ。すんげえ駆け足だな。
そんな風に「過酷な労働に慣れるまで」の手順を省略することで、「おしんが辛い目に遭う」「おしんが苦労する」という印象が著しく弱まってしまう。
前述したように「苦労が報われて幸せを掴みました」という着地は無いけど、だからって「苦労の部分を薄めておいた方がいいよね」ってことではないでしょ。それは地面を均して谷も山も無くしているだけだ。話のメリハリや緩急を削っているだけだ。

キャスティングにも大いに難がある。
せっかくヒロイン役には全国オーディションで「おしんにピッタリ」という人材を選んだはずなのに、その両親を演じる上戸彩と稲垣吾郎は「明治40年の山形で暮らす貧しい百姓夫婦」には全く見えない。どう考えたってカッコ良すぎて、そこにリアリティーが全く無い。
そして、そこにリアリティーが欠如すると、この物語には血が通わない。そういう類の作品なのだ。
TVシリーズで両親を演じたのは、泉ピン子と伊東四朗なんだよ。その配役を聞いただけでも、この映画版のキャスティングが間違っていることは明白だろう。
容姿の問題だけでなく、稲垣吾郎に関しては訛りの強い台詞回しが口に馴染んでおらず、違和感が強い。

後半、おしんが2度目の奉公へ行く時に「明治四十一年 冬」というスーパーインポーズが出る。
ボーッと見ているだけだと気にならないだろうけど、私は「んっ?」と引っ掛かってしまった。
最初の奉公に出たのが「明治四十年 早春」だから、2月から3月頃ってことだ。そして、きんが「雪解けたら年季が明ける」と言っているので、もうすぐ1年が経つ頃になっていたと解釈できる。おしんが逃げ出した後、「春の訪れがやって来た」という描写がある。
ってことは、それは明治四十一年の春だよね。
だったら、おしんが2度目の奉公へ行くのが明治四十一年の冬ってのは、どういうことだろう。12月ってことなのか。
いや、確かに12月と捉えると計算は合うんだけど、無駄に引っ掛かっちゃうので、具体的に何月なのかを表記しても良かったんじゃないかと。

おしんは後半に入ると加賀屋での奉公を始めるのだが、そこには「苦労」とか「不幸」の印象が無い。
おしんは元気に明るく働いているし、八代家の人々も奉公人も優しい。中川材木店と比べれば仕事は楽だし、飯も充分に残っている。
本を盗んだと思われた時や、加代に怪我を負わせた時には「奉公人を辞めさせられるかもしれない」という危機が訪れるが、中川材木店で泥棒扱いされた時とは状況が全く異なる。
りくという味方がいるし、そもそも本を持ち出したのも加代を突き飛ばしたのも事実なので、おしんにも落ち度があるし。

加賀屋に舞台が移ると、「りくという理解者との出会い」とか「加代という同年代の少女との交流」ってのを軸に据えたいんだろうという意識は感じられる。
おしんが苦労する要素がすっかり薄まっているという問題は置いておくとして、ともかく前述した部分を厚く描けば、それはそれで物語としての充実には繋がるだろう。
しかし実際のところ、それらの要素も薄っぺらいのだ。
「加賀屋での物語を描くだけでも、映画1本分の時間が必要だろうなあ」と感じるので、少女期だけを抜き取ってボリュームを大幅に減らしても、まだ映画化には無理があったってことなんだろう。

この映画は公開から4週間で打ち切りになったが、それも納得の出来栄えだ。
そもそも『おしん』が高視聴率で大ブームになったのは、高度成長期の放送だったということも大きな要因だと言える。仮に少女期だけをダイジェスト化した本作品のような映画ではなく、一代記を描くTVシリーズを製作したとしても、2013年という時代にヒットするとは思えない。
ただし、「そもそも日本でのヒットは期待していなかったんじゃないか」という気がする。
製作委員会に中国の映画会社が入っているのだが、『おしん』はアジア圏での人気が未だに高いため、その市場での展開を最初から狙っていたんじゃないかと推測される。

実際、中国では第22回金鶏百花映画祭で国際映画部門の最優秀作品賞を受賞しているし、アジアの中でも特に中国という巨大市場でヒットすれば、商売としては成功だと言えるだろう。
ただし、この映画が中国で大ヒットしたという話は聞かない。そもそも中国全土で公開されたという情報も聞かない。
公開されているとしても、ヒットしなかったことは確実だろう。
つまり、日本では完全にコケてしまい、狙っていたアジアの市場でも興行的に失敗したわけだから、目論みは大きく外れたってことだね。

(観賞日:2015年4月29日)

 

*ポンコツ映画愛護協会