『オペレッタ狸御殿』:2005、日本
がらさ城の城主である安土桃山は、びるぜん婆々に「生きとしで生ける者で、一番美しいのは誰だ?」と尋ねた。切支丹の予言者である婆々に「貴方様でございます」と言われ、桃山は高笑いを浮かべる。だが、直後に婆々は顔を引きつらせ、「一番美しい御方が変わろうとしております。やがては貴方様の御子息、雨千代君が」と告げる。激怒した桃山が雨千代を葬り去ろうと考えると、婆々は「奥方様と同じ御処置がよろしいかと」と提案する。かつて桃山は、自分に従わなかった妻を快羅須山に放逐していた。まだ雨千代は幼かったため、彼は母の顔も知らずに育ったのだった。
快羅須山は迷い込んだら最後、誰一人として生きては帰れない魔境である。婆々は桃山の配下である駝鳥道士に、雨千代を山へ捨てる役目を命じた。駝鳥道士は雨千代を薬で眠らせ、快羅須山へ向かう。途中の狸ヶ森で駝鳥道士を昏倒させた雨千代だが、猟師の弥助が仕掛けた狸捕りの罠に足を挟まれて気を失った。そこに美しい娘が現れ、彼を助けた。雨千代は名前を尋ねて自己紹介するが、娘は城の嫡男だという彼の言葉を信用しなかった。彼女は「私、お姫様」と言うが、雨千代は冗談だと思って笑った。
女が聞き覚えの無い言葉を口にしたので、雨千代は困惑する。しかし不思議なことに、その意味が彼には理解できた。そこへ一人の若侍が現れ、女に向かって「狸姫様」と呼び掛けた。彼は雨千代に向かって、「この御方こそ、狸ヶ森の狸御殿の主、狸姫様にあらせられるぞ」と告げた。狸姫は若侍団三郎狸たちと共に、狸御殿へ戻った。一方、何かが足りないと感じていた安土桃山は、快羅須山を征服して城を建てようと考えた。
びるぜん婆々は桃山に、快羅須山を征服するには狸御殿を滅ぼす必要があると告げた。軽く考えている桃山に、婆々は「狸姫の血を浴びた者には恐ろしい祟りがあると申します」と告げる。しかし桃山は余裕の態度で、「狸汁にして食ろうてくれるわ」と口にした。同じ頃、駝鳥道士は狸と間違えられ、弥助と女房のコメに捕まっていた。狸御殿に近付こうとした雨千代は捕まって牢に入れられ、次郎狸に引き渡された。お萩の局は「人は狸御殿を滅ぼす病」と考えており、外に出て人間と接触した狸姫を叱責した。
狸姫の「お誕生日ではない日を祝う宴」が開かれ、各地から訪れた狸たちが土産を持参する。しかし、狸姫は退屈そうな様子を見せた。次郎狸は雨千代に、狸姫の誕生日以外は祝宴が毎晩続くのだと教えた。聞き覚えの無い言葉を話したことについて雨千代が質問すると、彼は「唐の言葉じゃ」と言う。「あの御方は理由あって、この狸御殿が唐の国からお招きした狸姫様なのじゃ」と彼は告げるが、その理由については話そうとしなかった。
次郎狸は雨千代が狸姫に惚れていることを見抜くが、実らぬ恋だから諦めろと諭した。だが、きなこ、もなか、かのこ、すあまという女中の4人は、「その恋、私たちの手で実らせましょう」と協力を約束した。牢を抜け出した雨千代は狸姫と2人の時間を過ごすが、びるぜん婆々が現れて2人を捕まえる。お萩の局も捕まり、雨千代の素性を婆々から聞かされる。桃山の目的を知ったお萩の局は驚愕し、婆々と戦う。婆々はお萩の局に敗れ、華々しく散った。
雨千代は狸御殿に留まり、狸姫との愛を育もうとする。お萩の局は雨千代に、桃山が彼を殺そうとしていること、妻を捨てたことを教えた。「貴方様の不幸はやがて、狸姫様の身に降り掛かるのです。雨千代君を愛してしまった狸姫様は、雨千代君と同じくもっとも美しい者になってしまったのです」と言われ、雨千代は衝撃を受けた。雨千代は狸御殿を出て行き、追い掛けようとする狸姫をお萩の局が制止した。しかし狸姫は彼女を振り切り、狸御殿を後にした。
雨千代を捜して浜辺へ出た狸姫は、安土桃山に襲われる。そこに雨千代が駆け付けると、桃山は2人まとめて殺害しようとする。桃山は刀を突き出し、雨千代を庇った狸姫が刺された。雨千代は逃げた桃山を追い掛けようとするが、狸姫を狸御殿を運ぶよう指示するお萩の局の声が届いた。お萩の局は雨千代が医局へ立ち入ることを禁じ、彼への怒りを燃やした。御殿医狸も狸姫を救うことは出来ず、家老狸は「極楽蛙の鳴き声を聞けば助かる」と言う。しかし快羅須山にいる極楽蛙を捕まえるのは危険な仕事であり、誰も名乗り出ない。そこで雨千代は、その役目を引き受けて快羅須山へ向かった…。監督は鈴木清順、原案は木村恵吾、脚本は浦沢義雄、製作は森隆一&荒井善清&坂上直行&久松猛朗&中川滋弘、企画は遠谷信幸、プロデューサーは小椋悟&片嶋一貴、共同プロデューサーは小穴勝幸&柴田一成&雨宮有三郎&船江正隆&峰岸美加&溝口靖&神田裕司、撮影は前田米造、照明は矢部一男、視覚効果は石井教雄、録音は山方浩、美術は安宅紀史、衣装デザインは伊藤佐智子、ビューティーディレクターは柘植伊佐夫、振付は滝沢充子、編集は伊藤伸行、特別協力は荒戸源次郎、プロダクションデザイナーは木村威夫、音楽は大島ミチル&白井良明、音楽プロデューサーは北原京子。
出演はチャン・ツィイー、オダギリジョー、平幹二朗、由紀さおり、薬師丸ひろ子、高橋元太郎、山本太郎、篠井英介、市川実和子、パパイヤ鈴木、尾上紫、椎名法子、下石奈緒美、浦嶋りんこ、石川伸一郎、南州太郎、山崎樹範、山本東、一木有海、南川ある、永嶌花音、則松徹、本間剛、西長鈴、佐久間成悟、田島健吾、中曽根康太、宇夫方康夫、小川マサ、廣田朋菜、加藤瑠美、柴田義之、須永千重、前田剛、永瀬正敏、白井良明、谷中敦(東京スカパラダイスオーケストラ)、スティーヴ・エトウ、田中要次、シモゼット(IN-HI)、ハブマシーン(IN-HI)、ズケジャン(IN-HI)他。
『夢二』『ピストルオペラ』の鈴木清順が監督を務めた作品。
TVアニメ『ルパン三世』や映画『ルパン三世 バビロンの黄金伝説』で彼と組んだ浦沢義雄が脚本を手掛けている。
狸姫をチャン・ツィイー、雨千代をオダギリジョー、安土桃山を平幹二朗、びるぜん婆々を由紀さおり、お萩の局を薬師丸ひろ子、家老狸を高橋元太郎、駝鳥道士を山本太郎、弥助を篠井英介、コメを市川実和子、次郎狸をパパイヤ鈴木、きなこを尾上紫、もなかを椎名法子、かのこを下石奈緒美、すあまを浦嶋りんこ、三郎狸を石川伸一郎が出演している。
光の女人役として、亡くなった美空ひばりの映像が使用されている。題名に「狸御殿」と付く映画は、時代劇映画が全盛だった頃に何本も製作されている。生みの親は木村恵吾監督で、1939年に新興キネマで『狸御殿』を撮って以降、『歌ふ狸御殿』(1942年)、『花くらべ狸御殿』(1949年)、『初春狸御殿』(1959年)を手掛けた(後の3作は全て大映)。
このシリーズには、「人間に化ける狸たちの登場するオペレッタ時代劇」という共通点がある。タイトルに「狸御殿」は付かないが、他に『春爛漫狸祭』(1948年)、『狸穴町0番地』(1965年)というオペレッタ映画も撮っている。
木村恵吾監督の「狸御殿」シリーズが好評だったので、大映では1950年には加戸敏監督が『狸銀座を歩く』、1961年には田中徳三監督が『花くらべ狸道中』という狸オペレッタを手掛けている。また、他の映画会社でも、1946年には松竹の『満月城の歌合戦』、1954年には東映の『満月狸ばやし』、1955年には新東宝の『歌まつり満月狸合戦』と松竹の『七変化狸御殿』、1958年には東宝の『大当り狸御殿』が製作されている。
そんな「古き良き時代」の狸オペレッタを久々に復活させたのが、この映画である。そういう流れを考えると、この映画は「まずキャスティングが弱い」という問題を抱えている。
「チャン・ツィイーがヒロインで相手役はオダギリジョーなのに、どこが弱いのか」と思うかもしれない。しかし、むしろ脇を固めるメンツの方が重要だ。
例えば『歌ふ狸御殿』では、宝塚歌劇団出身の宮城千賀子と藤原歌劇団所属の草笛美子、楠木繁夫や豆千代、伊藤久男、三原純子、美ち奴、日本橋きみ栄という歌手の面々、OSSKのスターだった雲井八重子が顔を揃えていた。
正月映画として公開された『初春狸御殿』では、当時の大映でスターだった市川雷蔵、若尾文子、勝新太郎の他に中村玉緒、近藤美恵子、仁木多鶴子、金田一敦子、中村鴈治郎といった面々が集まり、歌手の神楽坂浮子、藤本二三代、松尾和子が出演していた。これは正月映画ではなく5月公開の作品だから、オールスターやセミオールスターのように映画界の豪華キャストを揃えろとは言わない。
しかしオペレッタ時代劇であることを考えると、「歌えるメンツ」という部分では、それなりの顔触れを用意すべきだろう。
そりゃあ平幹二朗はミュージカルを多く経験しているし、由紀さおりと薬師丸ひろ子は歌手だけど、その顔触れでは弱い。椎名法子、下石奈緒美、浦嶋りんこは歌手だけど、人気や知名度がそれほど高いわけではない。
やはり、人気歌手や宝塚歌劇団の出身者など、もっと強い名前が欲しいと思ってしまうのだ。そもそも「狸御殿」映画であることを考えると、主演がチャン・ツィイー&オダギリジョーという時点で違うだろう。
この2人は人気も知名度もあるけれど、決して歌う映画スターというわけではない。
「狸御殿」映画に主演するのなら、歌ったり踊ったりすることが得意な人であってほしい。
実は『歌ふ狸御殿』だと主演の高山広子は1曲も歌っていないし、『初春狸御殿』では市川雷蔵の歌声が吹き替えになっていたけど、そういうのは残念だと思ったしね。この映画のチャン・ツィイーとオダギリジョーは、本人が歌っている。
ただし、「本人が歌っているから高評価」というわけにはいかない。
最初の歌唱シーンが平幹二朗であり、力強い歌声で朗々と歌い上げるので、次にオダギリジョーが歌うシーンが来た時に、その差が歴然と出てしまう。音やテンポを大きく外すほどの酷さは無いけど、お世辞にも歌唱力があるとは言えない。
そういう人が最初に歌う曲として、なぜバラードを選択したのだろうか。せめて、テンポの速い曲にして、バックダンサーを率いて踊りながら歌うような形にしておけば、歌唱力の不足を誤魔化せただろうに。チャン・ツィイーにしても、オダギリジョーと同様で、音を外すような酷さは無いけど歌唱力があるとも言えない。それなのに、こちらも登場シーンはソロのバラードだ。
あと、そこまでの3曲全てに共通しているのは、歌が短いってことだ。歌い始めと思ったら、すぐに終了なのだ。
チャン・ツィイーなんて、30秒ぐらいで終わるんだぜ。
後者2人は歌唱力の問題があるから、長く歌わせても見せ場にならないとは思うよ。だけど歌唱力の問題はさておき、オペレッタ映画としては歌が短すぎるわ。その次に用意されている楽曲は由紀さおりと平幹二朗のラップで、ここは長さこそ充分ではあるものの、「そもそもラップは違うだろ」と言いたくなる。
全ての楽曲がそっち系で統一されているならともかく、他は「いかにも昔の時代劇」という匂いの強い楽曲なので、急にラップが入ると違和感しか無い。
その次は「狸御殿はパラダイス」ということで、ようやく明るく陽気な曲が用意されている。
ただし、ここは演奏オンリーで歌もダンスも無いので、やはり不満が多い。狸楽団が「狸姫様にお聞きしたいことが」と言い、チャン・ツィイーが女中4人組に「お好きな髪は?」「お好きな眉は?」などと質問されて答えるというシーンで、ようやく「複数の人間が陽気に歌い踊る」というミュージカルが用意されている。
しかし、そこにも問題があって、それは「流れが全く無い」ってことだ。
その直前には、お萩の局が「人は狸御殿を滅ぼす病」と歌って狸姫に忠告していたわけで。そこから急に「狸姫様にお聞きしたいことが」という問い掛けで、好きな髪や眉を質問するって、おかしいだろ。
結局、楽しいと感じるミュージカル・シーン、見せ場になるようなレビューのシーンってのは、1つも存在しない。がらさ城や狸ヶ森のシーンは、セット撮影になっている。そして、そのセットは、「いかにも作り物でござい」という見た目にしてある。
これは大正解。
『狸御殿』シリーズは、舞台劇チックな印象が必要不可欠と言ってもいい。作り物としての面白さこそが、このシリーズの醍醐味だ。
『花くらべ狸道中』のようにロケーション撮影を盛り込んだ作品では、それが荒唐無稽な物語と完全にミスマッチを起こしていた。
だから、花畑で雨千代が歌うロケーション撮影のシーンが序盤から登場した時に、「それは違う」と言いたくなる。「虚構としての舞台装置」という部分においては、鈴木清順の持ち味が『狸御殿』シリーズに合っている。
ただし、監督が鈴木清順で良かったと感じるのは、その部分だけだ。むしろ、「なぜ鈴木清順なのか」という疑問、というか違和感の方が遥かに強い。
鈴木清順のメガホンで『狸御殿』シリーズを復活させる企画は1980年代から存在していたそうだから、彼にとっても念願の映画ということになるんだろう。
しかし、企画の内容と監督の持ち味は、絶対に合わないだろうと思ってしまうのだ。鈴木清順は1967年の『殺しの烙印』で当時の日活社長・堀久作に「ワケの分からない映画を作るな」と激怒され、専属契約を打ち切られた。その後、映画界から干されていた彼は1980年に公開された大正浪漫三部作の第1作『ツィゴイネルワイゼン』で巻き起こったブームによって復活するのだが、それは「不条理で前衛的な映画を撮る映像美の人」としての復活だった。
しかし、『狸御殿』シリーズに前衛的な感覚など邪魔なだけだ。むしろ、純然たる娯楽精神が望ましい。
仮に芸術的な志向を示すとしても、それは「レビューを芸術として高める」という意味合いであるべきだ。求められるのは、決して前衛芸術ではない。
鈴木清順は「お祭り騒ぎがしたかった」という気持ちで本作品を撮ったらしいのだが、だとすると彼の考える「お祭り騒ぎ」というのは、どうやら凡庸な一般人の理解を超越しているようだ。雨千代と狸姫が出会うシーンからして、鈴木清順のシュールな美的感覚が弾けている。
最初に狸姫が失神している雨千代を発見し、カットが転換すると川で布を水に濡らしている。次にカットが切り替わるとトラバサミが画面に迫り、狸姫が見えない何かに腕を引っ張られる。すると雨千代の背後に狸姫がいるカットに切り替わり、彼女が絶叫する。
またカットが切り替わると目を覚ました雨千代が川辺にいて、流れて来る花を塞き止めている。そして横たわる狸姫の右足の下に複数の花が敷いてあり、傍らで雨千代がいるカットになる。
まるでワケが分からない。
「狸姫が罠に掛かって、今度は雨千代が助けた」という風にも見えるが、だとしても「なんで狸姫が罠に掛かるのか」という疑問があるし。
そもそも、罠で逆さ吊りになっていたはずの雨千代が横たわって気絶している時点で、辻褄は合ってないし。その後、狸姫が雨千代を乗せて小舟を漕ぎ、雨千代が「何を隠そうこの私、狸ヶ森の奥にある狸御殿の主、狸千代でござる」と芝居じみた口調で告げ、狸姫が「私、ただの百姓。貧しい娘。父と母、重い病。精のある物、食べさせたい。狸千代が一番」と言う。
カットが切り替わると雨千代は雪の森で狼狽しており、追って来る狸姫から逃げる。
そして狸姫が韓国語を喋り、雨千代は晴れ渡る草原に倒れ込み、狸姫は持っていた櫓を捨てる。
この辺りも、無駄にゴチャゴチャしていて、娯楽映画としての分かりやすさに欠けている。桜の木の下で雨千代が「聞き覚えの無い言葉だ」と困惑していると、狸姫は櫓で枝を叩く。
カットが切り替わると2人は場所を移動しており、草原の上で櫓り両端を持って押し合いをしながら喋っている。
その向こうにはカラフルな幕が張ってあり、伴天連2人が立っている。そして音楽が流れ、狸姫と雨千代が踊り出す。 だが、変にシュールな映像美や飛躍する編集にしてあるせいで、踊り出した時に浮き浮きした気持ちが芽生えない。
それにダンスのシーン自体、楽曲も踊りも楽しくないし。狸姫の正体が判明すると、悲劇的な曲が流れ出す。
だが、相手が狸姫だと分かっただけで「悲劇」としての色を強くアピールするのは、演出過剰で先走っていると感じる。
っていうか、なんで悲劇モードに入らなきゃいけないのか。ショックは受けたとしても、もっと明るく楽しい雰囲気で進めればいいんじゃないかと。
「お祭り騒ぎがしたかった」と言っている割には、お祭り騒ぎの高揚感を醸し出すための雰囲気作りから離れよう、離れようとしているとしか思えないぞ。で、その曲が流れ出すと、桜の木の近くで狸姫がポツンと立っているカットが入り、彼女と雨千代と三郎狸と伴天連2人が丘を走る。
この時点で「なぜ走っているのか」「一緒に付いて来る伴天連は何者なのか」という疑問が生じているが、その程度で鈴木清順は終わらせない。
きなこ、もなか、かのこ、すあまが現れて薙刀を構え、いつの間にか橋の近くにいた伴天連2人を追い詰め、伴天連2人が逃げると橋の上で雨千代が4人と対峙する。カットが切り替わると、狸姫は森で車に乗っている。
何がどうなったんだか、サッパリ分からない。雨千代が狸ヶ森に来て捕まるってことは、女中4人と戦うこともなく、捕まることもなかったってことだろうが、その流れは分からない。
で、牢に入れられた雨千代に女中4人が「その恋、私たちの手で実らせましょう」と言うんだけど、お前らが薙刀で追い掛けていた相手だろうに、何がどうなって応援する気持ちになったのかと。
そんで、そこで次郎狸の持っている鍵が大写しになるから、女中たちが鍵を盗んで牢から出してやったりするのかと思いきや、狸姫が歌い出すと「これほど清らかな狸姫様の歌声が聞こえれば、きっとあの方も牢を抜け出て来るに違いありません」と言う。
テメエたちは何もしねえのかよ。狸姫の歌っていると、ウクレレの上に鍵が置いてあるカットが入る。
カットが切り替わると鍵が雨千代の十字架に変化しており、牢の扉が開いて無人になっている様子が写る。
だが、何がどうなって雨千代が抜け出したのか、サッパリ分からない。
その後も不条理で前衛的な感覚が全編を埋め尽くしており、それが邪魔で「頭を空っぽにして祭りを楽しむ」なんてことは到底出来ない。
単純明快な分かりやすい楽しさなんて、この映画には無い。そもそも、頭を空っぽにしようがしまいが、ちっとも楽しくないんだから。デジタル合成で登場させた美空ひばりも死者への冒涜にしか思えないし、ホントに酷い映画だ。
ただし、それは『狸御殿』シリーズとして見た場合、オペレッタ映画として見た場合の感想である。
「鈴木清順が監督を務めた作品」として捉えれば、この仕上がりは当然の結果と言ってもいいのだし、鈴木清順の熱烈なファンなら満足できるはずだ。
鈴木清順らしさだけは、充分すぎるほど発揮されているんだから。(観賞日:2015年4月11日)
2005年度 文春きいちご賞:第5位