『おかあさんの木』:2015、日本

雪が積もる田舎の地へ、県職員の大野が農水省職員の河辺を連れてやってきた。大野は7本の桐の木が生えている場所に河辺を案内し、「放っておけば数年で腐るとは思いますが」と言う。その地域は整備事業の対象になっているが、木が生えている空き地だけは個人の所有だった。そのため、20メートルはある古い木を伐採するには所有者の許可が必要だった。2人は土地所有者の坂井サユリと会うため、有料老人ホーム「悠寿の家 ひだまり」へ赴いた。彼らは介護士から、サユリが初期の認知症だと教えられた。サユリは大野と河辺に「あの木を切ってはならん。あれは、おかあさんの木じゃ」と告げ、ある女性について語り始めた。
1915年(大正4年)秋。小山ミツという娘が、郵便配達員である田村謙次郎と結婚するため上畑村を訪れた。ミツは初めて見た時から、謙次郎に思いを寄せていた。そして謙次郎もミツに恋心を抱き、手紙を送って気持ちを告白したのだった。式の最中、ミツは嬉しくて涙を流した。やがてミツは妊娠し、産婆である村山ヨネが無事に赤ん坊の一郎を取り上げた。2年後に二郎が産まれ、三郎、四郎、五郎とミツは次々に子供を授かった。
6人目も男児だったが、ミツは姉夫婦から養子に貰えないかと頼まれる。どうしても子供が出来ない姉夫婦に頭を下げられてミツは承諾し、その子供は誠と名付けられた。そのため、ミツが7人目を産んだ時は六郎という名前を付けた。謙次郎は同僚の坂井昌平と共に、郵便局での仕事を続けていた。坂井にはサユリという娘がいて、郵便局へ来ることもあった。坂井は男手一つで娘を育てており、サユリが五郎を将来の結婚相手に決めていることを謙次郎に話した。その直後、配達に出掛けた謙次郎は突然の心臓発作で亡くなった。悲しみに暮れるミツは、彼の父親である徳兵衛から励まされる。女手一つで子供たちを育てることになったミツを、6人の息子が支えた。
1936年(昭和11年)春。一郎は徴兵検査で合格し、役場の兵事係である鈴木が召集令状を持って来た。校長が万歳三唱の号令を掛け、一郎は汽車に乗って出征した。ミツは一郎の代わりとして、桐の苗木を庭に植えた。続いて二郎も甲種に合格して出征するが、目の悪い三郎は乙種での合格となった。二郎の出征を見送ったミツは、また桐の苗木を植えた。嵐の夜、一郎の戦死を知らせる電報がミツの元へ届いた。遺族を支援する団体の面々がミツの家を訪れ、会長の村上は恩給の入った封筒を差し出した。
1941年(昭和16年)12月、ついに新聞が「帝国米英に宣戦を布告す」という記事を掲載した。三郎は郵便局の仕事を手伝い、四郎は家を出て楽器工場で働き、五郎は商業学校へ通っている。やがて四郎にも召集令状が届き、半年後には三郎も出征した。ミツは2人のために、また苗木を植えた。三郎の戦死が伝えられた後、六郎は工業専門学校へ行きたい旨をミツに伝えた。工業専門学校なら戦争へ行かなくて済むため、ミツは六郎の希望を受け入れた。
五郎は卒業後、郵便局で勤務するようになった。女学生になったサユリは、相変わらず五郎への恋心を抱いていた。四郎はガダルカナルで戦死し、現地の砂だけがミツの元へ届いた。ミツは「軍神の母」と称賛され、婦人雑誌の記者までが取材に来た。志願して出征を決めた誠は養母に促され、ミツの元へ別れの挨拶にやって来た。深々と頭を下げて感謝の言葉を語った誠を見て、ミツは目に涙を浮かべた。誠は養母からミツが実の母だと告白されていたが、それを彼女には言わなかった。ミツは彼のためにも、苗木を植えた。
二郎の居場所が気になったミツは、県庁を訪れた。すると小林哲也という男が声を掛け、担当の部署へ案内した。憲兵に見つかった小林は、反戦を訴えるビラを撒いて逃亡した。小林は反戦家であり、県庁に挑発的な落書きを残していた。結局、二郎の安否は分からなかった。しかし後日、二郎からの手紙が届き、文盲のミツはサユリに代読してもらう。二郎は中国本土で幹部候補生に昇進したが、上官の吉岡から「君は生きて帰れ」と言われて驚いた。吉岡が友人の矢野に誘われて食事へ出掛けることになり、二郎は警護で食堂まで同行した。そこで働く中国娘と、二郎は互いに惹かれ合う。神奈川の軍需工場で働くことになったサユリは、涙を堪えて五郎に別れの挨拶をした。その時のことを思い出した現在のサユリは、懐かしい歌を口ずさんで号泣した…。

監督・脚本は磯村一路、原作は大川悦生「おかあさんの木」(ポプラ社刊)、製作は須藤泰司&木下直哉&平城隆司&間宮登良松&風間健治&吉村和文&沖中進&浅井賢二&加藤雅巳&宮田謙一&広田勝己&樋泉実&笹栗哲朗&香月純一&大辻茂&両角晃一、企画は須藤泰司、プロデューサーは岡田真&栗生一馬&堀川慎太郎&土本貴生、キャスティングプロデューサーは福岡康裕、製作統括は木次谷良助&桝井省志、撮影は喜久村徳章、照明は豊見山明長、録音は郡弘道、美術は磯田典宏、編集は菊池純一、音楽プロデューサーは津島玄一、音楽は渡辺俊幸。
出演は鈴木京香、志田未来、三浦貴大、奈良岡朋子、平岳大、田辺誠一、木場勝己、大杉漣、菅原大吉、波岡一喜、市川知宏、下元史朗、松金よね子、有薗芳記、石井貴就、細山田隆人、大鶴佐助、大橋昌広、西山潤、安藤瑠一、森田彩華、林マヤ、手塚真生、北島美香、松永玲子、土屋祐一(現・土屋佑壱)、神戸浩、森下能幸、大石継太、本田大輔、加藤聡志、笠兼三、望月章男、志野リュウ、吉村界人、高畑裕太、松田優佑、永峯海大、溝口太陽、工藤大空飛、阿部大輝、高木煌大、加藤瑛斗、戸塚世那、竹内天音、竹内恵美、大越弥生、新山育子、横山歩、兎本有紀、中園侑奈、藤井亜紀ら。


以前は小学校の国語の教科書でも採用されていた、大川悦生の同名児童文学を基にした作品。
監督&脚本は『雨鱒の川』『瞬 またたき』の磯村一路。
ミツを鈴木京香、サユリを志田未来、二郎を三浦貴大、現代のサユリを奈良岡朋子、謙次郎を平岳大、昌平を田辺誠一、徳兵衛を木場勝己、校長を大杉漣、大野を菅原大吉、小林を波岡一喜、河辺を市川知宏、ヨネを松金よね子、鈴木を有薗芳記、五郎を石井貴就、一郎を細山田隆人、三郎を大鶴佐助、四郎を大橋昌広、六郎を西山潤、誠を安藤瑠一が演じている。

タイトルにもなっているぐらいだから、この映画にとって「おかあさんの木」は重要な存在だ。
劇中では時間経過に従って少しずつ成長していくわけだが、それを実際の木で表現するのは不可能に近い。しかも1本じゃなくて、7本も用意しなきゃいけないしね。
そこで、本作品はCGによって桐の木を表現している。そして、それが本作品における最大の欠点となっている。
何しろ、いかにも「作り物でござい」という見え方になっているのだ。

まるで本物には見えないので、どれだけミツが子供たちへの思いを込めながら葉っぱを集めても、心に響くモノが何も無い。
何しろ、その葉っぱは全て青々としており、形も整っている。全てが真っ直ぐに育ち、虫に食われるとか、枯れるとか、そういうことも無い。
しかも、作り物にしか見えないってのは、そこだけではない。
桐の木は最も目立つが、この映画は他の部分でも「作り物感」に溢れている。
例えば、畑で栽培されている野菜も、収穫した野菜も、全て綺麗に形が整っている。

四郎が好きだったラッパをミツは苗木の横に置くが、長きに渡って雨風にさらされても全く錆びない。
っていうか、四郎の死が伝えられた直後のシーンではラッパが違う物に変わっているんだが、どういうことなのかサッパリ分からないし。
貰った恩給で新しいラッパを買ったということなのか。だとしても全く伝わらないし、そもそも意味が無いわ。
根本的な問題として、三郎がいなくなったことやミツの悲しみを示すためのアイテムとして、ラッパが全く機能していないし。

二郎が出征する時の「汽車の窓から見える風景」は、ハメ込み合成なのがバレバレだ。
もちろん実際に当時の汽車を走らせることなんて不可能だから、合成に頼るのは仕方がないだろう。だけど、「だから合成がバレバレでも構わない」ってことにはならないぞ。
その合成の安っぽさは、まるでバラエティー番組やコント番組のレベルなのだ。
そんな低品質になってしまうぐらいなら、外の景色が写らないような映像だけで構成すれば良かったんじゃないのか。

戦争が長く続く中で、どんどん庶民の生活は苦しくなっているはずなのに、そういう気配も全く感じられない。
「サユリがおはぎを作る時に砂糖が少ししか使えない」ってのは、わずかに「生活が苦しくなっている」ってのを感じさせる描写ではあるが、まあ申し訳程度だよね。
おまけに、サユリのおはぎは五郎への恋心を現す重要な道具なのに、重箱が風呂敷に包まれている状態しか写さず、肝心のおはぎは一度も画面に登場しないという雑な処理だし。
残り30分ぐらいになって、ようやく「寺の鐘や馬まで国に差し出される」という描写があるが、それがミツの生活には影響を与えていないし。

また、登場人物に目を向けても、鈴木京香は「昭和初期の農村で苦労を重ねた母親」には全く見えない。あまりにも見た目が綺麗すぎる。
それは容姿という意味じゃなくて、「泥やら何やらで汚れる描写が全く無い」ってことだ。
百姓仕事をしているんだし、あかぎれとかシミとか、そういうことで皮膚が痛むことだってあるはずだ。だけど頭髪も常に整っているし、痛んでいる様子は無い。
警察の尋問を受けるシーンで初めて頭髪が乱れるが、そこまでが綺麗に整い過ぎているから、それも含めて嘘臭いことになってしまう。
着ている服や被っている手ぬぐいも、まるで汚れたり痛んだりしない。
とにかく、全てがファンタジーの世界で繰り広げられているかのような状態に陥っているのだ。しかもファンタジーだとしても、相当に質の低いファンタジーだし。

戦時中の物語だからと言って、必ずしもリアリティー至上主義である必要は無い。むしろ寓話性を高めることによって、逆に戦争の悲哀が伝わる可能性だってあるだろう。
しかし、この映画の場合、そこのスタンスが中途半端なのだ。
ある箇所ではリアリティーの色が濃くなり、ある箇所ではファンタジーの色が濃くなるといった風に、ちっとも定まらない。まだら模様になっているのだ。
リアルな桐の木を再現できなかったのなら、もっと徹底してファンタジックな味付けを施し、御伽噺のように仕上げた方が良かったのではないか。

「リアリティーとファンタジー」という問題以外にも、この映画には欠陥がある。
それは、「やたらと喋り過ぎる」ということだ。必要性が感じられない言葉や、他の表現方法を採用すべき言葉を、登場人物が競うようにしてクドクドクドクドと喋りまくるのだ。
必要性が無い言葉ってのは、映像を見ていれば分かることなのに、わさわざ台詞で説明してしまうってことだ。
他の表現方法を採用すべき言葉ってのは、登場人物が心で思っていることを、わざわざ口に出しているってことだ。

原作は短編なので、そのままで長編映画に仕立て上げるのは難しい。ちょっと表現は悪いかもしれないが、尺を稼ぐための作業が必要になる。
原作にあるエピソードを膨らませるのもいいだろうし、オリジナルのエピソードを付け加えるのもいいだろう。そこの作業が、この映画では軽視されている(としか思えない)。
まず「大野と河辺は伐採の許可を貰うために訪れただけなのに、サユリから昔の話を長々と聞かされ、途中で切り上げようともしなければ話題を変えようともしない」ってのは、俯瞰で捉えるとヘンテコさもあるが、まあ良くある手法なので受け入れておこう。そんなトコで引っ掛かっていたら、この映画は見ていられなくなるしね。
で、そこを甘受したとしても、それ以降の部分で粗さを感じるトコが目白押しなのだ。

序盤から「ミツが結婚し、次々に子供が産まれ、謙次郎が急死する」という経緯が、かなり慌ただしいペースで片付けられる。
そりゃあ、そんなトコで長く時間を割いている余裕なんて無いだろうから、ある程度は仕方がないだろう。
ただし、ナレーションベースでバタバタと片付けられるので、「ミツと子供たちの絆が全く感じられない」「謙次郎が急死しても悲劇を感じない」「そもそも幸せな日々の描写が薄いから、悲しみへの落差も感じない」など、幾つものマイナスが生じている。

「息子が出征する」→「ミツが苗木を植えて語り掛ける」ってのが順番に繰り返されるため、ワンパターンを誤魔化すために周囲の飾りで変化を付けようとしている。
繰り返しパターンの中では、一郎や二郎の時は苗木に向かって「お国のために頑張っておくれや」「村のために手柄を立ててくれや」と語り掛けていたミツが、三郎が出征した時には「手柄なんて立てんでいいんで。きっと生きて帰って来い」と語り掛けるという変化が生じている。
しかしミツの心情表現が乏しく、メリハリが無いまま淡々と(っていうかダラダラと)進められているため、ちっとも効果的に作用しない。

二郎が戦地にいる様子を何度か挿入しているが、そういうのも全く要らない。なんで中途半端に戦闘シーンなんて入れるかなあ。
むしろ、そういうのを排除した中でドラマを進めてこそ、この物語の意味があるんじゃないのか。「戦争を直接的に描かず、戦地から遠い場所にいながらも戦争に翻弄される人々」の姿を描くことに、この作品の価値があるんじゃないのか。
だから終盤に用意されている「ミツが桐の木がある場所で空襲を受ける」というシーンも、まるで要らんよ。
っていうか、そんな場所を空襲する意味が分からんし。

二郎が中国娘と出会って云々ってのも、話を広げたかったのかもしれないけど、余計なトコへ目を向けちゃったなあという印象しか無いよ。
なんでミツの周囲だけで話を進めなかったのか。ミツが関与しないトコでのエピソードを挿入しても、話が散らばるだけだわ。
要らないと言えば、小林が登場するエピソードも何のために盛り込まれているのか分からない。
反戦映画としての色合いを濃くしたかったのかもしれないけど、濃くなったのは陳腐な色だけだわ。

(観賞日:2016年12月22日)

 

*ポンコツ映画愛護協会