『おはん』:1984、日本
幸吉は芸者のおかよと深い仲になり、家を出て一緒に暮らすことにした。妻のおはんは恨み言の一つも言わず、夫が帰るのを待つつもりだった。しかし母と弟の平太から実家へ戻って来るよう言われたので、従うことにした。実家へ戻る際、彼女は幸吉に抱き締められて涙を流した。それから七年が経過した。幸吉は古物商の「加納屋」を営んでいるが、開店休業と言ってもいい状態だ。おかよは幸吉を自分の家で住まわせ、懸命に働いている。
おとよの家には抱え妓のお蝶ときわ子がいて、客が来ると二階の座敷を使うことになる。普段は二階の座敷で生活している幸吉だが、その時は狭い玄関で寝ることになる。幸吉は全く気にしていないが、おかよは座敷の隣に新しい部屋を作りたいと考えている。彼女は仕事が忙しくなったため、姉の娘であるお仙を呼んで手伝ってもらうことにした。町に出た幸吉は、おはんを見掛けた。彼は後を追って声を掛け、息子が産まれたことに触れる。おはんは悟と名付けたこと、学校に通い始める年であることを語った。幸吉は古物商をやっていると語り、会いに来てほしいと告げて別れた。
幸吉はおかよと人形浄瑠璃の見物に出掛けるが、まるで真剣に鑑賞しなかった。おはんが店に来たので、幸吉は軒先を貸してもらっている安本に家を使わせてほしいた頼んだ。安本は快諾し、自分は店番を引き受けた。幸吉はおはんに欲情し、すぐに抱こうとする。おはんは嫌がるが、幸吉が強引に押し倒すと「嬉しい」と受け入れた。安本は店におかよが来たので、幸吉は外出中だと嘘をついた。おはんは情事が終わると、「こないなことして、アンタの家を壊すかと思うと、それが恐ろしゅうて」と言う。彼女は「もう気にしまへん」と幸吉に告げ、逃げるように去った。
幸吉が帰宅すると、おとよはおせんが来ると決まったことを伝えた。おせんは16歳で、おとよは磨いて座敷に出すつもりだと告げた。彼女の家には大工の棟梁が来ており、2階の作業を終えて去った。数日後、幸吉が加納屋にいると、少年がやって来た。ゴム毬を欲しがっている少年に、幸吉は置いていないことを話した。おはんは幸吉の元に足繁く通い、情事を重ねた。少年が来店したことを聞いた彼女は特徴を尋ね、息子の悟だと確信した。おはんは幸吉に、悟には「お父はんは遠い所へ旅に出ている」と説明していることを話した。
おはんの実家は酒店を営んでおり、弟の平太は妻の良子と共に母の仕事を手伝っていた。おはんは母から問屋の一番番頭である片岡との縁談を勧められているが、曖昧な返答ではぐらかしている。幸吉は学校を出て来る悟を待ち伏せしてゴム毬を渡し、また店に来るよう誘う。讃岐から上京したお仙はおかよの家を訪れ、幸吉は「お父はん」と挨拶されて困惑した。幸吉はおはんに、家を借り悟と三人で暮らそうと持ち掛けた。おはんが「堪忍して。このままでいてます」と遠慮すると、彼は「おかのことはええねん。お仙に夢中やねん。いわば子供が出来たんや。これでこっちの心の重荷も軽うなって、あの家を出られるんや」と語った。
それでもおはんが一緒に暮らすのを拒むので、幸吉は「俺と一緒に暮らすんが、そんなに嫌なんか」と怒鳴った。おはんは彼に抱き付き、「何を言うてんの。思てもなんだことや。嬉しすぎて」と泣いた。幸吉は彼女を抱き寄せ、「俺はな、己の真の子供の口から、お父はんと呼ばれたいんや」と告げた。帰路に就いた幸吉は、座敷が早く終わったおかよが迎えに来ていたので慌てて取り繕った。お仙に踊りの稽古を付けたおかよは、大工の伊之助が彼女に惚れていることを知った。
幸吉は店に悟が来ると、自分を好きになってくれていると感じて喜んだ。お披露目を控えるお仙は、芸妓になって男を騙し、金持ちになると幸吉に語った。彼女は幸吉に、伊之助がおはんの近所に住んでいること、最近のおはんが綺麗になったと言っていたことを話した。幸吉とおはんは安本の紹介で、人里離れた場所にある家を借りられることになった。おはんは素直に喜ぶが、予想外に早く決まったので幸吉は戸惑いを隠せなかった。
幸吉はおはんからおかよは許してくれているのかと確認の質問をされると、納得したと嘘をついた。幸吉とおはんが借家へ引っ越すのと同じ日、悟は親族の富五郎に誘われてオモチャ市へ行くことになった。その前夜、おはんは幸吉が父親だと悟に告白した。翌朝早くに家を出たおはんは借家の場所を悟に教え、後から来るよう告げて別れた。おはんは加納屋で幸吉と合流し、荷車で借家へ荷物を運んだ。借家に着いた二人は、すぐに情事を始めた。一方、悟は富五郎が目を離した隙に走り去り、雨の中で借家へ向かった。だが、危険な山道で足を滑らせ、崖から川へ転落した…。監督は市川崑、原作は宇野千代 中央公論社刊 中公文庫版、脚本は市川崑&日高真也、製作は田中友幸&市川崑、企画は馬場和夫、衣裳監修は斉藤寛、録音は大橋鉄矢、撮影は五十畑幸勇、美術は村木忍、照明は望月英樹、編集は長田千鶴子、音楽は大川新之助&朝川朋之、主題歌『おはん』唄は五木ひろし。
出演は吉永小百合、大原麗子、石坂浩二、ミヤコ蝶々、香川三千、上原由佳理、伊藤公子、浜村純、常田富士男、横山道代(横山道乃)、長谷川歩、桂小米朝(3代目。5代目・桂米團治)、音羽久米子、早田文次、大原穣子、宮内優子、相原巨典ら。
池波正太郎の同名小説を基にした作品。
監督は前年の『雲霧仁左衛門』に続いて池波作品を手掛けることになった五社英雄。
脚本も同じく『雲霧仁左衛門』の池上金男(後の池宮彰一郎)だが、今回は「北沢直人」という変名を使っている。
その理由は、原作を無視して壊した『雲霧仁左衛門』に不満を覚えた池波正太郎が、松竹に脚本家の交代を要求したから。
松竹としては池上金男を続投させたかったので、変名で別人に見せ掛けたのだ。宇野千代の同名小説を基にした作品。
監督は『幸福』『細雪』の市川崑。脚本も同じく『幸福』『細雪』の日高真也と、市川崑監督による共同。
おはんを吉永小百合、おかよを大原麗子、幸吉を石坂浩二、加納を間借りさせている女性をミヤコ蝶々、お仙を香川三千、お蝶を上原由佳理、きわ子を伊藤公子、大工の棟梁を浜村純、富五郎を常田富士男、半月庵の女将を横山道代、悟を長谷川歩、伊之助を桂小米朝(3代目。現・5代目桂米團治)、おはんの母を音羽久米子、平太を早田文次が演じている。
香川三千は子供時代、「山添三千代」としてTVドラマ『少年探偵団 (BD7) 』や『フルーツケンちゃん』などに出演していた。その後、競艇選手を目指すが資格を取れずに、この映画で役者復帰した。その際、彼女を呼び戻した市川崑が「香川三千」の芸名を付けている。冒頭、家財道具を整理して家を出るシーンで、幸吉はおはんに「おまえに飽きて別れるいうんやないさかいな。俺におかよというおなごが出来たから、行ってやらんなん。許したってや」と話す。
一応は罪悪感を抱いている様子も見せるが、そんなのは口先だけで実際は微塵も悪いと思っていない。
ところが、おはんは「ここであんさんを待つのんが筋なんやけど、堪忍しておくれやし」と、自分が悪いかのように詫びの言葉を口にするのだ。幸吉は「その内、俺も目が覚めると思うわ。ちいとの間だけは待っといたってや。それにしても、別れるいうんは辛いことやな。人は何と言おうと、お前は俺の女房や」と強く抱き締め、おはんは涙を流す。
幸吉は何の後ろめたさも持ち合わせていないので、七年後のシーンでおはんを見つけると笑顔で声を掛ける。
息子が産まれたことについて、「一緒にいる間に生まれてたら、迷わんかった」と堂々と言う。
いけしゃあしゃあと、そういうことを平気で口にするのだ。
その辺りからも、罪悪感ゼロってのがハッキリと分かる。女が一途に一人の男を愛する姿を美しく描く一方で、男は浮気しても二股しても「男の甲斐性」として全く断罪されない。
そういう世界観なので、幸吉は最後まで反省も改心もしないままだ。耐え忍ぶのは常に女で、辛い思いをするのは常に女だ。
幸吉は説明不要のクズ男であり、今の感覚だと「有り得ない」と扱き下ろされる対象だろう。しかし、こういう男が「どうしようもない甲斐性無しだけど、愛すべき存在」として容認されていた時代があったのだ。
しかも、これは決して、腐り切ったマチズモによる容認ではない。女性側からも、それなりの賛同を得ていたのだ。
何しろ、原作小説の作者は女性だし。幸吉はおはんに家を借りて家族で暮らすよう持ち掛けた時、「悟をてて無し子(父無し子)にして、それで済む気か」と言う。
だが、悟を父無し子にするような状況を生み出したのは、愛人を作って家を出て行った幸吉だ。自分の責任は棚に上げて、おはんを責めるかのような言葉を平気で口にするわけだ。
そして自分の身勝手で愛人との同棲を始めたくせに、息子がいると分かった途端、今度は愛人の家を出て妻の元へ戻ろうとする。
だからって、おかよと完全に切れるつもりは無い。暮らす家を変えるだけで、二股は続けようとする。
そして、そこに罪悪感は全く無い。幸吉は初めて借家を見に行く時も、「おはんと一緒にいるのを見られたらマズい」ってことで、別々に行く。妻と会うのに、人目を忍んでいるわけだ。
しかも、借家が見つかって喜ぶわけではなく、「いよいよ決心せなあかんのかな」と漏らす。
まだ彼は、おかよの家を出て家族三人で暮らす覚悟を決めていないのだ。自分から「家を借りて一緒に暮らそう」とおはんに言い出し、拒む彼女を怒鳴り付けておいて、その体たらくなのだ。
しかも、おかよには話していないのに、おはんには「納得してもらった」と嘘をつく始末だ。おはんにしろ幸吉にしろ、自分たが幸せになることしか考えていない。「悟のために」と口では言うが、実際には悟のことなど蔑ろにしており、自分たちが借家で同居を始めるための理由として都合良く利用しているだけだ。
ここに関しては幸吉だけでなく、おはんも身勝手さを露骨に見せている。
借家へ移る前夜になって急に「実は父親が遠くにいるというのは嘘で、古具屋の主人が父親」と告白する。そして、その翌日から借家へ移り、一緒に暮らすと言い出す。
息子の気持ちなどお構い無しで、どんどん話を進めるのだ。しかも、おはんは悟を一緒に連れて行くわけではない。オモチャ市へ行かせて、後から借家へ来るよう指示する。
後から迎えに行くこともせず、人里離れた借家まで幼い子供だけで来るよう告げる。
自分で借家へ移動した時に「一歩間違えたら死ぬ危険のある山道」と認識しているはずだが、悟を心配するようなことも皆無。借家に着くとセックスに興じ、呑気に過ごしている。
幸吉がドイヒーなのは言うまでもないが、そこに関しては、おはんも大概だよ。幸吉は借家でおはんとセックスした後、「おかよ、今頃何してるんかなあ」と考える。この一言だけでも、彼の性根が腐っていることは説明不要だろう。そして悟が死ぬと、おはんと同居する意味は無くなり、おかよの元へ戻る。
結局、おはんは自ら身を引き、町を出て行く。「相手がどんな男だろうと耐え忍び、一途に尽くし、時には引き下がる」ってのが、美徳として最後まで徹底されている。
互いに奪い奪われる関係であるおはんとおとよの関係をもっと厚く描けば、かなり印象は違っていたんじゃないかと思う。おはんの性格を考えれば、「五社監督作品もどき」みたいに仕上がる恐れは無さそうだし。
でもまあ、それだと原作から大きく逸脱しちゃうんだろうな。「そういう感覚が当たり前の時代に作られた映画」ってことで男尊女卑丸出しな内容を捉えるにしても、それを甘受しておけば面白いのかというと、さにあらず。
演出も映像も最初から最後までベッタリ&マッタリしていて、物の見事につまんないのよね。
話の内容によっては、市川崑監督の持ち味が「様式美」として上手く映えることもあるだろう。
だけど、この物語だと、メリハリを無くして味を薄めるだけになっている。(観賞日:2023年10月15日)