『小川の辺(ほとり)』:2011、日本

ある夜、海坂藩士の戌井朔之助は、月番家老を務める助川権之丞から呼び出された。助川は朔之助に、佐久間森衛を討ち取るよう藩命を受けた中丸徳十郎が江戸から戻ったことを話した。しかし中丸は病気で帰って来たのであり、藩命を果たしたわけではなかった。佐久間の居所に関しては、おおよそは掴めていた。だが、中丸は刀も振れないほど衰弱しており、任務続行は不可能だった。佐久間の脱藩は死罪であり、助川は新たな討ち手が朔之助に決まったことを告げた。
朔之助は名誉であることは認めた上で、「受けかねまする」と断った。しかし助川は事情を考えてほしいと語り、藩内で佐久間に勝てる者が他にいないのだと告げた。1人で駄目なら3人を差し向けてはどうかと朔之助が提案すると、助川は佐久間の女房が朔之助と同じ直心流の使い手であることを指摘する。もし3人を差し向ければ女房も手向かうはずで、修羅場になる恐れがあるというのだ。あくまでも佐久間だけを討ち取るのが藩命であり、朔之助が行けば女房は助かるだろうというのが家老たちの考えだった。佐久間の妻である田鶴は、朔之助の妹だった。
家に戻った朔之助は、妻の幾久、父の忠左衛門、母の以瀬に藩命を伝えた。そして一度は拒否したものの、引き受けねば戌井家の立場が悪くなると言われて引き受けたと説明した。佐久間の脱藩に田鶴も同行しており、本来なら戌井家も咎めを受ける立場だ。しかし藩主は、戌井家には咎めを下していない。ここで藩命を辞退しては、藩主の寛大さにも限りがあると助川が語ったことを朔之助は話す。朔之助は田鶴を連れ帰るつもりだったが、「もし斬り掛かって来た場合は、どうしますか」と以瀬は問い掛ける。
朔之助が答えに詰まっていると、忠左衛門は「その時は、斬れ」と告げた。しかし朔之助は「斬りは致しませぬ。私にお任せ下さい」と述べた。朔之助は奉公人の新蔵から、旅に同行したいと言われる。「お一人ではご苦労でございましょう」などと新蔵は言うが、朔之助は「田鶴が心配か?」と心を見透かしたように問い掛ける。朔之助は「手向かって来ても、田鶴を斬ったりはせん。だが心配なら、連れて行ってもいいぞ」と告げた。
翌朝、朔之助は新蔵を伴い、田鶴の目撃情報があった下総の行徳という宿場町を目指して出発する。新蔵は朔之助に、佐久間の咎めは脱藩しなければならないほど重いものだったのかと尋ねる。朔之助は「このようなことになるとは、誰も思っていなかった」と言い、2ヶ月前の出来事を語る。2年前の大凶作以来、稲の作柄は回復せず、領内の田畑は荒れ果てていた。そこで佐久間は、18項目に渡る農政の改革案を記した意見書を作成した。だが、こともあろうに佐久間は、それを藩主に提出したのだ。
改革案は理に適ったものだったが、裏を返せば手直し策を講じて来た藩主と側近である主侍医の鹿沢尭白に対する手厳しい批判となった。尭白は藩主に、放置しておけば威光に関わる無礼な書状と告げた。彼は執政を集め、佐久間への処置を講じるよう促した。尭白は主侍医でありながら政治面でも大きな権力を持つようになっており、これまでの手直し案は全て彼の意見が反映されていた。佐久間が意見書を藩主に提出した真の理由は尭白を退けることにあったのだろうと、朔之助は推測していた。
そのままで終わっていれば、大事にせずに収めることも出来た。しかし、佐久間の行動は、それで終わらなかった。藩主に呼び出された際、佐久間は農政の失策を手厳しく批判した。無礼ではないかと指摘されても佐久間は言葉を止めず、身分をわきまえぬ侍医の言葉など取り上げぬよう藩主に求めた。数日後、執政の面々は佐久間の上書を基に農村の窮状を調べ直し、藩主に改革を訴え出た。藩主も過ちに気付き、尭白の出仕差し止めを決定した。しかし藩主の上書に対する怒りは消えず、謹慎中の佐久間に対する重い処分が新たに下されることも予想されたと朔之助は新蔵に語った。
船で利根川を下る途中、朔之助は河原で遊ぶ子供たちの姿を眺め、幼少時代の出来事を思い出した。幼い朔之助は釣りに興じていた時、嵐の接近を察した。川で遊ぶ田鶴と新蔵に岸へ上がれと指示した。新蔵は岸に上がるが、田鶴が従わなかったので朔之助は「水が多くなってきている。溺れてしまうぞ」と注意する。田鶴が拒絶したため、朔之助は平手打ちを浴びせて放置した。すると新蔵が田鶴の元へ行き、水流が激しくなる中で岸まで連れて来た。朔之助が助けに行こうとすると、田鶴は睨み付けて拒んだ。「みっともないぞ」と朔之助が叱責すると、田鶴は泣き出してしまった。
朔之助と新蔵が茶店で休憩を取っていると、太田左門と志麻という若い兄妹が秋山又十郎という浪人の前に名乗り出た。兄妹は父の仇討ちを果たすため、秋山を捜して旅を続けていたのだ。兄妹が勝負を要求すると、「やめておけ、無駄に命を捨てるだけだ」と秋山は告げる。兄妹が襲い掛かっても、秋山は刀を抜こうとしない。何とか戦わずに済まそうとしていた秋山だが、脇差が竹光であることが露呈した。逃げ出す秋山を兄妹が追い掛ける様子を見て見物人たちは大笑いし、「ありゃ当分、仇討ちは無理だなあ」と口にした。
宿に泊まった夜、新蔵は朔之助に、もし佐久間の居所を見つけても田鶴を斬り合いに関わらせたくないと話す。朔之助が「それが出来れば良いのだが、田鶴は追っ手が兄と知って、おとなしく夫を討たせるような女ではない」と言うと、新蔵は田鶴の留守を狙ってはどうかと持ち掛けた。朔之助と佐久間の斬り合いを見せたくないので、自分に任せてほしいと新蔵は申し入れた。朔之助は「もう良い、休め」と指示した後、「そのために付いて来たのか」と問い掛けた。新蔵は何も答えず、自分の部屋へ戻った。
いよいよ朔之助と新蔵は、行徳の宿場に入った。朔之助は旅籠で待機し、新蔵は町を歩いて佐久間や田鶴を捜索する。初日は発見できず、次の日も新蔵は町を歩き回る。小間物問屋の前を通り掛かった彼は町娘の簪を見て、田鶴との出来事を回想する。田鶴と新蔵は、共に好意を抱く仲だった。しかし新蔵は身分の違いを考え、田鶴と佐久間の縁談が決まっても気持ちを押し殺した。嫁入りの前日、田鶴は「私が嫁に行ったら寂しくないの?」と彼に迫った。「寂しいと言って」と求められ、新蔵は「はい。寂ししゅうございます」と答えた。田鶴は涙目で「新蔵の嫁には、なれないのね」と漏らし、着物を脱いで新蔵に体を寄せた…。

監督は篠原哲雄、原作は藤沢周平『海坂藩大全』(文藝春秋刊)『闇の穴』(新潮文庫刊)、脚本は長谷川康夫&飯田健三郎、製作は黒澤洋介&川城和実&園部稔(実は間違い)&遠藤茂行&岡正和&福原英行&谷徳彦&木下直哉&阿部和夫&大芝賢二&高橋文夫&鈴木道男&吉村和文&小滝祥平、企画は河野聡&中村和俊&白石剛&日達長夫、プロデューサーは鴫原徹也&武部由実子&山中一浩&斉藤和哉&杉浦敬&森谷晁育、アソシエイトプロデューサーは小林美帆子&永倉敦子、特別協力は遠藤展子&遠藤崇寿、撮影は柴主高秀、照明は長田達也、録音は武進、美術は金田克美、編集は奥原好幸、殺陣指導は高瀬将嗣、音楽は武部聡志。
出演は東山紀之、菊地凛子、勝地涼、片岡愛之助、尾野真千子、藤竜也、西岡徳馬、松原智恵子、笹野高史、西沢利明、堀内正美、寺泉憲、並樹史朗、池内万作、綱島郷太郎、服部妙子、二階堂高嗣、田中祐希、綾田俊樹、山田幸伸、重松収、山西惇、森聖二、池田和歌子、鴻明、大出菜々子、松田章、河原健二、管勇毅、永峰あや、桐原大輝、藤岡洋介、奈良木未羽、吉村美栄子、市川昭男、渋谷雄司、相磯舞、熊谷瞳、渡部有、佐々木萌美、鈴木淳予、笛岡俊也、吉田翔、遠藤由実、関口篤、大月秀幸、中台あきお、濱田真和、松澤仁晶、鬼界浩巳、河田義市、芹澤興人、田村直子、二瓶美江、安彦有菜ら。


藤沢周平の同名短編小説を基にした作品。
監督は『山桜』『真夏のオリオン』の篠原哲雄、脚本は『山桜』『花のあと』の長谷川康夫&飯田健三郎。
朔之助を東山紀之、田鶴を菊地凛子、新蔵を勝地涼、佐久間を片岡愛之助、幾久を尾野真千子、忠左衛門を藤竜也、尭白を西岡徳馬、以瀬を松原智恵子、助川を笹野高史、執政を西沢利明&堀内正美&寺泉憲&並樹史朗、藩主を池内万作が演じている。

まず最初に感じるのは、朔之助がクールすぎるってことだ。
朔之助は中丸が戻ったと聞けば、まずは「佐久間が討ち取られた」と感じるはずだが、そこには何の動揺も見られない。中丸の代役として佐久間を討ち取る仕事を命じられても、やはり驚きや動揺は見せず、無表情で「誠に名誉な申し付けでござりまするが、受けかねまする」と言うだけ。
朔之助にとって佐久間ってのは、ものすごく近しい間柄だ。それにしては、「親友であり、妹の夫でもある男が死んだかもしれない」「そいつを殺す役目を自分が任された」ということを、すんげえ淡々と受け入れているんだよな。
そこに人間らしさが全く見えないのだ。

もっと根本的なことを言ってしまうと、「いきなり藩命を受けるシーンから始めたのは失敗じゃないか」と感じる。
そのシーンが描かれる段階では、まだ朔之助と佐久間の関係性は全く分からない。シーンの終わりになって、ようやく「佐久間の妻は朔之助の妹」ということが分かるだけだ。佐久間の関係を示す情報が皆無ってことは、仮に朔之助が苦悩や動揺を示しても、その理由が伝わらないってことになる。
前述したように、もちろん朔之助の心情を表現すべきだとは思うのだが、そのためには佐久間との関係性を伝えておかないと充分な効果が得られないのだ。
で、そういうことを考えると、「佐久間との関係性を説明していないんだから、朔之助をクールに振る舞わせても構わないんじゃないか」と思うかもしれないけど、それは違うからね。後から佐久間との関係性は明らかになるわけで、そうなった時に「だったら冒頭における彼の冷たすぎる態度は何だったのか」と感じることに繋がるわけで。
つまり、どっちにしても、中丸が戻ったと聞いたり、佐久間を討ち取る藩命を受け取りした時に、無表情でクールに対応するのはマイナスでしかないってことよ。

朔之助は感情の乏しい男ではなく、「心情の変化はあるけど態度に出さず、抑制している」ってことなんだろうとは思う。で、例えば以瀬なんかは感情をハッキリと分かりやすい形で表現するけど、それと同じような反応を見せろってことではない。感情表現を抑え、落ち着きや静けさの中で心の内が滲み出てくるという形にするのは構わない。
問題は、まるで滲み出て来ないってことなのだ。本音の部分を押し殺しているのではなく、ホントに体温が低いだけにしか見えないのだ。
そして、それが東山紀之の演技力不足に起因するものであることは、藤竜也と比較すれば歴然だ。
ただし、もっとハッキリと分かりやすく動揺や苦悩といった感情を表に出すキャラクターにしておけば、そんな事態を招かずに済んだはずで。役者の技量を理解した上で芝居を付けるってのも、監督の手腕だと思うのよね。
そういう意味では、監督にも全く責任が無いわけではない。

東山紀之には演技力の問題があるが、菊地凛子に関しては「顔がデカすぎやしねえか」という問題がある。
いや、「デカすぎやしねえか」と書いたけど、もうね、ハッキリとデカいのよ。
朔之助を演じる東山紀之にしろ、新蔵を演じる勝地涼にしろ、顔が小さい役者なので、余計に顔のデカさが目立つ。
片岡愛之助との関係だけなら、それほど目立たなかったかもしれない。
しかし片岡愛之助と一緒にいるシーンは、ほとんど無いのだ。

これが例えばチンピラとか山賊のようなキャラだったら、まだ分からんでもないのよ。でも、主人公の妹であり、第一ヒロインである人物の顔がデカく見えるってのは、どう受け止めればいいのか困ってしまう。
たぶんホントにデカいというより、たぶんカツラのせいでデカく見えるんだろうとは思うのよ。
ただし、そもそも菊地凛子が本作品のヒロインとして明らかにミスキャストという問題は、確実に存在する。
せめて「直心流の使い手」という部分だけでも説得力を示してくれれば救いになるんだけど、そこもイマイチだし。

朔之助は出発して以降、佐久間が脱藩するまでの経緯や田鶴との関係などが、回想劇として挿入される。
後から全てを説明するってのは、もちろん意図的な構成だ。ただ、それが上手いやり方だったとは思えない。
全てを時系列順で描写しろと言いたいわけではない。むしろ回想形式には賛成だ。
ただし前述したように、関係性や事情を示しておかないと、朔之助の心情が伝わらないという問題がある。
だから、どのタイミングで回想劇を入れるか、どの程度の回想劇を入れるかってのは、重要なポイントになってくる。

例えば、朔之助は出発前に「田鶴は手向かって来るだろうな」と口にしている。しかし、その段階で、まだ田鶴は一度も登場していない。
だから観客は彼女がどういう性格なのかサッパリ分からず、そのせいで朔之助の気持ちに同調することも出来ない。
ようするに、朔之助が何かを考えたり感じたりするシーンを用意するのなら、その度に関連する出来事を回想シーンとして挿入した方が適しているってことだ。
それだと「旅の途中で回想シーン」という構成が崩れることになるが、だったら逆に「田鶴は手向かって来るだろうな」と呟くのも旅に出た後にすればいい。いっそのこと、旅をしている様子から始めて、藩命を受けるシーンも回想劇にすればいい。

佐久間が脱藩するまでの経緯は回想シーンとして挿入されるが、朔之助がナレーションで解説する形を取っているのは上手くない。
そういう形を取ると、佐久間の気持ちが見えないからだ。彼が百姓の苦しみに触れ、「何としても農政改革を成し遂げねばならぬ」と熱い気持ちで上申したような様子が見えない。段取りが端的に提示されるだけで、そこに込められた彼の熱情が見えない。
そこにあるのは、全て「朔之助の推測」でしかないのだ。どう考えたって、普通にドラマとして表現した方がいい。
藩主の前で手直し策を批判するシーンは、それなりに「熱」だけは感じられる。
しかし、そこに関しては、「行動がアホすぎる」という問題がある。

この映画は本来なら、「武士の悲哀」が見えて来るべきだと思うのだ。
武士の掟や面目に縛られ、翻弄される者たちが苦悩し、葛藤し、決断を迫られる。そういう様子から見える悲哀ってモノが、こちらの心を打つような内容になっているべきだと思うのだ。
朔之助は武士の掟に縛られ、親友であり妹の夫である男を討たねばならぬ藩命に苦悩する。佐久間は農政を改革すべきという純粋な情熱を持っていたが、つまらぬ武士の面目に翻弄される。そういうモノが描かれているべきだと思うのだ。
しかし前述したように、まず朔之助の苦悩や葛藤は全く見えて来ない。「藩命を果たさねば戌井家が咎めを受ける」という重圧も彼にはあるはずだが、そういう「家を守るため」というモノも見えない。

一方で佐久間に関しては、「そもそも行動がアホすぎる」という部分が引っ掛かってしまい、ちっとも同情心が湧かない。
執政たちは改革案を称賛し、それに基づいた行動を取るべきだと考えていたのだ。それなのに、執政が喋ろうとしたのを遮ってまで、藩主の前で彼の政道を手厳しく批判するのだから、誰が考えたって愚かでしょ。
「結果的に意見が採用されているんだし、改革案は正しいんだから、佐久間の行動は間違っていない」ということではないのよ。どうであれ無礼千万な行為なのは確かなわけで、だから佐久間には全く同情できないのよ。
しかも、無礼だと分かった上で佐久間は藩主を批判しているわけで、だったら「命懸けで」というぐらいの覚悟があるのかというと、そうじゃなくて脱藩して逃げちゃうわけだし。

しかも結局、回想シーンでは佐久間が脱藩した理由が全く分からないままなのだ。
「藩主は気性が激しい」「上書に対する怒りは消えず、謹慎中の佐久間に対する重い処分が新たに下されることも考えられる」ってことを朔之助は語っているが、それは予想に過ぎないし、実際に重い処分が決定したわけでもない。それに、そういう処分を避けるために脱藩して逃げたのかどうかも分からないのだ。
「佐久間は最初から全てを覚悟の上だったのかもしれん」と朔之助は言うけど、ホントに覚悟があったのなら沙汰を受けても甘んじて受けたはずでしょ。
脱藩した時点で、「バカだから藩主を批判したけど、重い処分を受ける覚悟は無かったし、切腹とか嫌だから逃げ出した」としか受け取れないのよ。深く考えずに行動して、後から「ヤベエな」と感じたようにしか思えないのよ。

旅の道中は主に、朔之助が佐久間のことを回想するパートと、音楽を流して自然の美しい風景を写し出すパートによって構成される。
通常のロード・ムービーの場合、「主人公が様々な人々と出会ったり、様々な出来事を体験したりして、考えが変化したり人間的に成長したりする」という様子を描くのが王道のパターンだ。
でも本作品の場合は、回想シーンが多く入る形になってもいい。
ただ、それならそれで、徹底して回想シーンを重視すればいいものを、中途半端にロード・ムービーらしさを入れようとしたのか、現在進行性のエピソードも盛り込み、それが欠陥に繋がっている。

旅の道中で盛り込まれる現在進行性のエピソードとは、「若い兄妹が仇討ちしようとする様子を朔之助が目撃する」という出来事だ。
だが、それを見た朔之助が何を感じたのか、それによって考えに影響があったのかは、まるで分からない。
「武士というものは誠に難しいものだなあ」と彼は漏らすが、その言葉から心情を汲み取るのは難しい。
そもそも、そこは「ユーモラスなシーン」として演出されており、仇討ちの虚しさや悲哀を表現する内容には構築されていない。だから、朔之助の藩命に上手くリンクしていない。

しかも、それは後半になって、旅の道中で初めて現在進行形で描かれる、エピソードらしいエピソードなのだ。
他にも幾つかの出来事を朔之助が体験し、何名かの人々と触れ合うのであれば、それはそれでロード・ムービーとしての格好が整うだろう。
しかし実際には、回想のきっかけとして使われる人々や、泊まる宿の主人などは登場するが、交流らしい交流は皆無だ。仇討ち兄妹と秋山又十郎を除くと、道中にはエキストラ的な人々しか出て来ないのである。
だから仇討ち兄妹のエピソードが、むしろ歪なモノになっている。

朔之助が旅をする道中と回想シーンだけでなく、海坂藩に残った家族の様子も何度か挿入される。
だが、こちらも全く効果的なモノとして作用していない。「たまには家族の様子も入れておこうか」という程度の扱いでしかない。
両親や妻の様子を描くことで、兄が妹の夫を討たねばならぬという武家社会の悲しみや虚しさ、愚かしさといったモノが伝わるようなことは皆無だ。
そういうことに限定するわけじゃなくて、何かしらのドラマが見えれば一向に構わないのだが、そういうのが非常に薄っぺらいのだ。

朔之助は冒頭だけじゃなく、最後まで一貫して心情の読めない男だ。
「押し殺していた感情が、何かのきっかけで溢れ出す」とか、「普段は穏やかに振る舞おうと努めているが、たまに苦悩や辛さが漏れる」とか、そういうことは無いのだ。
佐久間の元へ乗り込んで勝負を要求する時も、迷いは全く無い。その前に「迷いを断ち切り、覚悟を決めて」という手順があればともかく、そういうのも無いのだ。
だから、そこに悲劇性が見えて来ない。

最後、佐久間を斬った朔之助は手向かって来る田鶴の刀を奪い、「頭を冷やせ」と怒鳴り付けて川に投げ込む。刀に手を掛けている新蔵に気付いた彼は、微笑で「田鶴を引き上げてやれ」と指示する。
新蔵が歩み寄って優しく呼び掛けると、田鶴は泣いて体を預ける。
朔之助は「田鶴のことは、お前に任せる」と新蔵に告げ、一緒になることを勧めるような言葉を口にして、その場を後にする。
いやいや、それで大団円のつもりだとしたら、ちっとも腑に落ちないぞ。

そりゃあ過去に田鶴と新蔵は恋仲だったけど、田鶴からすると「夫を殺された直後に元カレとくっ付くよう促される」ってことであり、新蔵からすると「旦那を殺された元カノに言い寄る」ってことになるわけで。
ところが、それが朔之助の余計なお世話じゃなくて、2人とも普通に受け入れちゃってるんだよな。
そうなると、佐久間の存在は何だったのかと思っちゃうのよ。
「佐久間が殺されたことで田鶴と新蔵は幸せになりました」って、そのゴールは祝福できねえよ。

(観賞日:2015年9月22日)


第8回(2011年度)蛇いちご賞

・女優賞:菊地凛子

 

*ポンコツ映画愛護協会