『板尾創路の脱獄王』:2009、日本

北陸中央刑務所に収監されている鈴木雅之は、見回りに来た竜崎刑務官たちの隙を見て特殊鎮静房を抜け出した。竜崎たちは脱獄に気付き、警報が鳴らされる。しかし鈴木は軽やかな身のこなしで、壁を乗り越えた。12年前、拘置所から2度の脱獄をしている鈴木が、信州第二刑務所へ移送されてきた。身体検査を担当した臼井刑務官は、鈴木の胸にある逆さ富士の刺青に気付いた。看守長の金村は飯塚刑務官と共に、鈴木を独房へ連行した。しかし独房へ入れた直後、鈴木は窓から脱獄した。
所長は金村の失態を叱責した直後、鈴木が線路沿いで身柄を確保されたという連絡を受けた。その夜、鈴木は布団から顔を出して寝る規則を守ろうとせず、注意した刑務官に無言で手錠を外すよう要求した。刑務官は激昂し、鈴木を殴り付けた。次の日、金村は身分帳を確認し、鈴木が無銭飲食で逮捕されていること、以前の2度の早々も線路脇で身柄を確保されていることを知った。その夜も鈴木は、布団から顔を出さずに就寝していた。刑務官が布団を剥がすと、彼は手錠を外していた。
次の夜も、また鈴木は手錠を簡単に外した。金村は鈴木を暴行する部下を制止し、「明日から毎日、身体検査を行う。それと、明日一日、飯を抜け」と命じた。身体検査を始めてからは、鈴木は手錠を外すことが無くなった。金村は出世の辞令を受け取るが、信州第二刑務所に残ることを希望した。金村が短い休暇で帰郷した夜、鈴木は隠し持っていた針金で独房の鍵を開けた。彼は刑務所の屋根を突き破り、外へ出た。連絡を受けて戻った金村は、鈴木が1年前と同じ線路沿いを逃げていると確信した。
金村は刑務官たちを連れて線路を張り込み、現れた鈴木の身柄を確保した。彼は出世の辞令を受け、信州第二刑務所を去った。彼は司法省行刑局へ異動し、上羅小五郎の下で働き始めた。その後も鈴木は脱獄を繰り返し、その度に線路で捕まった。鈴木の脱獄回数は二桁になり、「脱獄王」として漫画に描かれて子供たちの人気を集めるようになった。鈴木の懲役年数は脱獄を重ねることでどんどん膨れ上がり、ついには無期懲役刑が下された。
そして12年後、鈴木は北陸中央刑務所に移送された。金村は上羅から、各所の監獄状況を視察するよう命じられた。鈴木は手錠を外し、食事を運んで来た刑務官を拘束した。すぐに刑務官は笛を吹き、竜崎たちが駆け付けた。竜崎は手錠を外した方法を尋ねるが、鈴木は何も話そうとしなかった。鈴木は竜崎に掴み掛かり、刑務官たちから暴行を受けた。竜崎は今までより頑丈な手錠を鈴木に使用し、小窓を板で塞いだ。暴行を受けた鈴木は刑務官に反抗し、さらに激しく殴られた。
竜崎たちは鈴木の体を鎖で繋ぎ、独房の天井から吊るした。鈴木の髪と髭は伸び放題になり、拘束された手首からはウジ虫が湧いた。金村が視察に来る直前になって、竜崎たちは鈴木の鎖を外した。所長の案内を受けていた金村は、特殊鎮静房が気になった。中を覗き込んだ彼は、衰弱している鈴木を目にした。金村が去った夜、鈴木は特殊鎮静房を抜け出し、幼少時代を回想した。鈴木の母親は女囚で出産直後に亡くなった。孤児院で育った鈴木は、胸に富士山の刺青がある男と出会った。だが、男は警官隊に追われ、すぐに逃げ出した。その男は、鈴木の父親だった。そして、それが父親に会った最後だった…。

監督は板尾創路、脚本は増本庄一郎&板尾創路&山口雄大、企画は板尾創路、クリエイティブディレクターは山口雄大、プロデューサーは片岡秀介&仲良平&田島雄一&菊井徳明&小西啓介&鳥澤晋、チーフプロデューサーは水谷暢宏&岡本昭彦、エグゼクティブプロデューサーは橋爪健康&水上晴司、製作統括は白岩久弥、製作代表は吉野伊佐男&大崎洋&井上泰一、撮影は岡雅一、照明は松隈信一、美術は福田宣、衣裳は宮本まさ江、VFXスーパーバイザーは鹿角剛司、録音は久連石由文、特殊メイク・特殊造型は西村喜廣、アクションコーディネーターはカラサワイワオ、編集は山口雄大、音楽は めいなCo.。
エンディング曲『La Douce Vie(Amai Seikatsu)』/Towa Tei、作詞:Y Konishi/Towa Tei、作曲:Towa Tei/Nokko、Vocal:Maki Nomiya。
出演は國村隼、石坂浩二、オール巨人、阿藤快、木下ほうか、増本庄一郎、金橋良樹、榎木兵衛、川下大洋、津田寛治、宮迫博之、千原せいじ、ぼんちおさむ、笑福亭松之助、TERU、ジジ・ぶぅ、福田転球、カートヤング、明樂哲典、山田将之、笠原紳司、中野公美子、海原やすよ ともこ、長澤つぐみ、長浜利久也、小山颯、季聖、庫士郎、酒井彩悠美、冨永みーな、宮本まさ江、新井義幸、ユウキロック、北条ふとし、くまだまさし、堤太輝、中山逸紀、吉田大吾、 綾部祐二、大西ライオン、佐藤大、長澤喜稔、しあつ野郎、おにぎり、高須賀浩司、井元英志、蛭川慎太郎、三須友博、網本賢治、はらっすん、岩佐諭、川崎場外、ドサ健、三浦二郎、若頭、井野こけし、五十嵐ヤング、佐々木良和、ブラックマン、草刈純輝、津島陽介ら。


お笑い芸人だったはずなのに、いつの間にか俳優としての活動がメインになった板尾創路の長編監督デビュー作。
鈴木を板尾創路、金村を國村隼、上羅を石坂浩二、北陸中央刑務所・所長をオール巨人、信州第二刑務所・所長を阿藤快、飯塚を木下ほうか、竜崎を木村祐一、臼井を宮迫博之、ケロイドのある北陸中央刑務所の囚人を千原せいじ、監獄島刑務所・所長をぼんちおさむが演じている。
脚本担当の増本庄一郎&板尾創路&山口雄大は、『魁!!クロマティ高校 THE★MOVIE』で一緒に仕事をした顔触れだ。

最初に北陸中央刑務所から鈴木が脱走を試みる様子を描き、タイトル表記を挟んで12年前の回想に入って行くという構成になっている。
だが、そういう回想形式にしている意味が全く無い。
これは鈴木と金村の関係が軸になる話のはずなんだし、それを考えても、鈴木が信州第二刑務所へ移送されてくるシーンから時系列順に構成した方がいい。
少なくとも、回想形式にしていることによる効果は何も無い。

で、35分ほど経過して再び12年後のシーンに戻ると、今度は北陸中央刑務所に移送されてきた時の様子から始めるが、これまた意味が無い。
12年後に戻ったら、すぐに冒頭シーンを再び描く形にすべきだ。
もはや鈴木が「何があっても絶対に脱獄する」という脱獄の達人であることは明白になっており、「金村が出世した後も脱獄を繰り返した」というのはダイジェスト処理されているんだから、今さら「鈴木が時間を掛けて脱獄のための計画を進める」というのを丁寧に描く意味が無いのだ。

そもそも、この映画に「脱獄劇」としての面白さなど全く無いのだ。
鈴木が「計画を練り、準備を進めて実行する」という風に脱獄までの過程を丁寧に描く手順が何度か用意されているのだが、そこには「成功するのか、途中でバレたりしないのか」という緊張感も無ければ、「刑務官を出し抜いたり騙したりして、見事に脱獄を成功させる」という高揚感も無い。
「必要な道具を用意する」とか「脱獄に向けて少しずつ準備を進めて行く」といった描写にも、ワクワクするような気持ちを湧き立たせるモノは無い。
メリハリが無くて淡々と進めていることもあって、早い段階で退屈になってしまう。

あと、信州第二刑務所のシーンに関しては、「そもそも本気で脱獄しようとしているのか」という疑問さえ感じる描写が多い。
彼は手錠を外して刑務官の手に掛けたり、尖らせた歯で刑務官を突き刺したりしているけど、それは脱獄に繋がる行動ではない。
なぜなら、刑務官を手錠で拘束したり怪我を負わせたりしても、扉が開いているわけではないし、すぐに同僚が駆け付けるからだ。
それらの鈴木の行動は、「独房の扉を開ける」とか「独房から逃亡する」といった行動に繋がらないのだ。

さて、この映画は、10分程度のコント、もしくは短編映画で済むような内容である。そして、10分程度のコント、もしくは短編映画の方が合う内容である。
それを強引に長編作品の体裁に仕立て上げているが、コントや短編映画と同じ感覚で作っているので(としか思えない)、長編映画としての面白さや質が伴っていない。
というのも、この映画、ラストのオチだけで勝負しているのだ。
そして、そこまでの物語は、全てオチのための前フリでしかないのだ。

「オチだけの一発勝負」という作品だから、10分程度のコントや短編映画で済むし、そっちの方が企画としては合っている。
もちろん、長編映画であっても、終盤にオチ(ドンデン返しとか、ミステリーの種明かしでもいい)を用意しているケースは幾らでも存在する。
だが、そういった作品は、オチに至るまでの部分でも観客を引き付けるための作業を行っている。決してオチだけに頼っているわけではない。ちゃんと観客を引き付けるための仕掛けを用意している。
そして、それが無い映画は駄作や凡作ってことになる。

オチに至るまでの展開は、徹底してシリアスなテイストで描かれている。
逆さ富士の刺青を見た臼井が馬鹿にしたような笑みをチラッと浮かべる様子はあるし、実際、その逆さ富士はシリアスなテイストの中で明らかに浮いている。
だから、誰かにツッコミを入れさせたりすれば、それを「笑いのポイント」として示すことは可能だ。
しかし、明らかに滑稽であるにも関わらず、そこに笑いを作ろうとはしない。あくまでも真面目に描写する。

それ以外でも、例えば「鈴木が軽々と手錠を外してしまう」というシーンだって、その気になれば喜劇的に描写することは可能だ。
「何度も脱獄を繰り返す」とか、「その度に線路で捕まる」とか、「漫画の主人公になって人気を集める」とか、そういった辺りも、やり方次第では喜劇に転化させられる。
しかし、ちょっとした笑いの匂いさえ持ち込まず、一貫してシリアスな雰囲気を漂わせ続ける。
ようするに、オチだけが勝負なので、そこまでは笑いの雰囲気を一切入れないってことなのだ。

「そこまでの物語が、オチのためのネタ振りでしかない」という問題は、とりあえず置いておくとして、「オチで笑いを取るために、そこまでは徹底してシリアスに描く」というのは、笑いの作り方としては間違っていない。
「緊張と緩和」という落差を付けることで、笑いを生むことが出来るからだ。
ただし、そういう狙いでやっているはずなのだから、逆さ富士が滑稽な印象を与えてしまうというのは大きな失敗だろう。
真面目に描くなら、逆さ富士で「これは笑うポイントなのか?」と中途半端に思わせることは絶対に避けるべきだ。

ところが、中盤、北陸中央刑務所で暴行を受けて吊るされた鈴木が、唐突に中村雅俊の『ふれあい』を画面に向かって歌い出すシーンが用意されている。アカペラではなく、ちゃんと伴奏も付いての歌唱になる。
この演出は、どういう気持ちで受け止めればいいのかサッパリ分からない。
少なくともマジなテイストではないから、たぶん喜劇としての仕掛けだと捉えるべきなんだろう。だが、「あまりにも唐突」という印象が強すぎて、笑いには繋がらない。
しかも、前述したように、オチに向けたネタ振りとして長い緊張を続けてきたはずなので、そこで笑いにもならない中途半端な緩和を入れるのはマイナスでしかない。
それに、そういう緩和を入れるのなら、もっと頻繁に入れれば良かったのだ。そこまではシリアス一辺倒なのに、そのタイミングで1つだけ変な緩和を入れても、プラスは何も無い。

1時間ちょっと経過した頃、鈴木が北陸中央刑務所を脱獄した序盤のシーンが再び描かれ、そこでも冒頭と同様に『板尾創路の脱獄王』というタイトルが表記される。
そこも、たぶん笑いを取ろうという意図があるんだろうけど、前述した『ふれあい』の歌唱シーンと同じく中途半端なモノになってしまっている。
それは「静かに淡々と見せているから」ということではない。むしろ、すました顔で笑いを取りにいくってのは、いかにも板尾創路っぽいし、それは構わない。
問題は、分量が圧倒的に足りないってことだ。笑いを取りに行くのなら、もっと量を増やすべきなのよ。オチを含めて3つだけって、それは無いでしょ。

2度目に『板尾創路の脱獄王』というタイトルが表記された後、女囚が刑務所で出産する様子が描写される。
カメラは産み落とされた男児の視点映像になっており、そこからシーンが切り替わると幼年時の鈴木の様子が写る。
で、少し成長した鈴木が富士山の刺青をした男に声を掛けられて、その男が警官に追われて逃げる様子に被せて「俺が、父親に会った最後だった」という少年のモノローグが入る。
そこで鈴木の過去を挿入しているんだけど、それは構成として不格好だわ。

オチを考えると、「鈴木の父親が富士山の刺青をしていて、警官に追われる身だった」ってのは、どこかで示しておく必要があるだろう。
ただ、その形は無いわ。そこで急に幼い頃の様子を挿入するのは、ギクシャク感がハンパないわ。
そもそも、女囚の息子とか孤児院育ちといった過去なんて、今さら説明されても「だから何なのか」って感じだし。
それが鈴木という人物や物語に深みや厚みを与えることは無い。回想を入れたいのなら、何度にも分けて、短い描写を何度も挿入する形にした方がいい。で、少しずつ鈴木と父親の関係を分からせる形にした方がいい。

ただし、回想を入れて説明するよりも、金村を使って「鈴木に興味を抱いた金村が個人的に調査を進め、父親のことを突き止める」という形にでもした方が、もうちょっとスムーズだったんじゃないかという気がするけどね。
っていうか、終盤、監獄島刑務所を訪れた金村が資料を読み、鈴木の父親について知る展開があるんだよね。
だったら、そこで初めて鈴木の父親について観客にも明かされる形にすれば良かったんじゃないかと。
回想シーンで中途半端に情報を出す必要は無かったんじゃないかと。

この映画は前述したように、オチまでの物語が、前フリとしての機能しか果たしていない。
しかも、この映画に用意されているオチは、あくまでも「コントや短編映画なら成立する」というオチでしかない。長編映画のオチとしては、あまりにも弱すぎる。
完全ネタバレだが、鈴木は何かから逃げるために脱獄を繰り返していたわけではない。監獄島に父親が収監されているので、そこへ移送されることを狙っていたのだ。
そして鈴木は父親と思わしき老人を連れて脱出するが、金村は富士山の刺青がある囚人を見つけて「鈴木……間違ってるぞ」と呟く。
それが本作品のオチだ。

文章で説明しただけでも何となく伝わると思うんだけど、長編映画で、そのオチはキツいでしょ。
94分という上映時間の大半が、そのオチのためのネタ振りでしかないのよ。
他にも笑いを散りばめてた上でのオチならともかく、ほぼラストだけで勝負している映画で、それは弱すぎるわ。「短編でやれよ」と言いたくなる。
むしろ短編映画なら、「良く出来た短編コメディー」という評価になっていたと思うし。

(観賞日:2015年2月22日)

 

*ポンコツ映画愛護協会