『狗神』:2001、日本
四国の山奥の村に、小学校教師の奴田原晃がやって来た。途中でバイクが故障した晃は村人の土居誠二に出会い、彼の車で村まで送ってもらった。晃は男を遠ざけながら和紙を作っている坊之宮美希という中年女性に出会い、心を惹かれた。
美希は、この村で先祖祭りを司る坊之宮の家系だ。坊之宮には本家と分家があり、美希は分家の人間だ。分家には美希の他、彼女の母・富枝、道夫と妻の百代、その娘・理香がいる。本家を取り仕切るのは、養子に出された美希の兄・隆直だ。
誠二は理香に惹かれていたが、祖母の克子に反対される。克子は、理香が狗神筋の家系であることを気にしていた。村には、狗神に取り憑かれると食い殺されるという言い伝えがあった。克子は、狗神筋の女が復讐を企んでいると考えていた。
美希は山で晃と出会い、突然の雨を避けるために共に洞穴に入った。美希は晃に、高校時代に好きになってはいけない人を好きになり、妊娠した過去を話した。その子供は、遠くの親戚に預けられたという。その場で美希は晃と肉体関係を持った。
美希と晃は、逢瀬を繰り返すようになった。美希は日に日に若返って行った。2人の関係が深まって行くのと時を同じくして、村では不可解な事件が続発するようになった。村人達は、それが狗神の祟りだと考え、坊之宮家への敵意を露にするようになった。
隆直が坊之宮家の所有地である杉林を売却するという話が持ち上がった。美希は抗議のため、克子に会いに行く。克子は晃や誠二の前で、美希が関係を持った相手が隆直だと暴露した。その直後、克子は発作を起こして死亡する。
克子の死も狗神の祟りだと考えた村人達は、さらに坊之宮家への敵意を強くした。村人達は美希の作業場に乱入し、メチャクチャに壊してしまう。晃は美希に、共に村を出ようと誘う。晃は、自分が美希と隆直の間に生まれた子供だとは知らなかった…。監督&脚本は原田眞人、原作は坂東眞砂子、プロデューサーは鍋島壽夫&井上文雄、アソシエイト・プロデューサーは山田俊輔、エクゼクティブ・プロデューサーは原正人(角川歴彦は間違い)、撮影は藤澤順一、編集は上野聡一、録音は中村淳、照明は金沢正夫、美術は稲垣尚夫、ビジュアルエフェクト(SFXスーパーバイザーは間違い)は松本肇、音楽は村松崇雄。
出演は天海祐希、渡部篤郎、山路和弘、深浦加奈子、藤村志保、矢島健一、淡路恵子、遊人、街田しおん、冨樫真、入江雅人、渡瀬美遊、佐藤京一、浜田寅彦、近内仁子、広岡由里子、光岡湧太郎、猪野学、澤田誠志、安藤岳史、重松収、村井克行、田中沙斗子、榎田淳弘、岡林桂子、加藤満、天光眞弓、大西智子、古本恭一、村野友美、増田未亜、村松秋彦、川島宏知、松田真知子、松崎洋二、井上牧子、小松崎雄大、近藤未歩ら。
坂東眞砂子の小説を基にした作品。
美希を天海祐希、晃を渡部篤郎、隆直を山路和弘、百代を深浦加奈子、富枝を藤村志保、道夫を矢島健一、克子を淡路恵子、誠二を監督の息子・遊人、隆直の妻・園子を街田しおん、理香を渡瀬美遊が演じている。
美希を天海祐希、晃を渡部篤郎というキャスティングは、どうなんだろうか。この2人、後半で親子だということが明らかになるが、それぞれ何歳の設定なんだろう。実際には、天海祐希が1967年生まれ、渡部篤郎が1968年生まれで1歳しか離れていない。晃の役は、明らかに天海より遥かに年下と分かる俳優を配置すべきだったのでは。時代設定を現代にしていることに引っ掛かる。セリフの中でインターネットやらカントリークラブやらとカタカナ用語が出てくるし、パソコンを扱っているシーンもある。だが、そういったモノが、閉鎖的な村を舞台にした話の雰囲気に馴染んでいない。
それと、幾ら閉鎖的な田舎の村だからといって、2001年という時代に「祟りを恐れた村人達が1つの家系を皆殺しにしようとする」というのは、どう頑張っても無理がある。そこに説得力を持たせることは脚本や演出力で可能なのかもしれないが、それは非常に困難な作業だろう。そして実際、説得力を持たせることは出来ていないわけだし。序盤を見て、設定が横溝正史っぽいと感じた。横溝作品の映画化といえば、かつて角川で市川崑監督がメガホンを執ったシリーズがある。作品の出来映えはともかく、話の雰囲気に様式美を重んじる市川監督の持ち味がピタリとハマっていた。それに比べて、原田監督の持ち味は、こういう土着ホラーには全く合っていないようだ。
原田監督は、紙を作る作業行程や、四国の美しい風景などを、丁寧に映し出して行く。しかし、そういう部分でクソ真面目になってしまったせいか、肝心の部分が不鮮明になった。ストーリーが良く分からず、人間関係も今一つ把握できない。おまけに、おどろおどろしい雰囲気、怖さというモノが一向に感じられないまま進んでいく。美希は男を遠ざけて静かに暮らしていたはずだが、晃と関係を持つシーンでは積極的に自分から誘っている。やる気マンマンにしか見えない。そこは晃が積極的に誘い、美希はためらいながらも体を委ねるという受け身の姿勢を見せるべきでは。
不可解な事件が起き、村人達が坊之宮家に対して敵意を見せ始めるが、これが唐突に感じられてしまう。それは、狗神を村人達が恐れているという状況が、それまでに上手く伝わっていないからだ。それに、少しずつ疑心暗鬼が広がって行き、やがて行動に出るという流れも無い。だから、村人達が攻撃的になっても、理解できないし、付いていけない。たぶん怖がらせようとしているのだと思われる個所は幾つかある。しかし、ストーリーが断片的にしか語られていないこともあって、それら全ては「怖さ」ではなく「ワケの分からなさ」に繋がっている。直接的なショッカー描写ではなく、雰囲気でジワジワと怖がらせようとはしているのだろうが、ちっとも怖くないんだから仕方が無い。
原田監督というのは、基本的にハリウッド志向の強い人なのかもしれない。だから、最後にヒーローがヒロインを救い出すというハリウッド的なハッピーエンドを用意したのかもしれない。しかし、この映画で単純なハッピーエンドは要らないだろう。結局のところ、狗神とは何だったのだろうか。
それがヒッチコック言うところのマクガフィンなら、何か分からなくてもいいかもしれないが、そうではない。説明しようとする意識は感じられるが、良く分からない。
この映画で「狗神って何だったの?」と思わせたらダメだろう。天海祐希は『MISTY』と同じく、今回も濡れ場が作品の売りとして公開前から宣伝されていた。そして彼女は『MISTY』と同じく、今回も濡れ場で乳も尻も全く出さない。かなり不自然な形になっても、絶対にオッパイやヒップが見えないようになっている。街田しおんや渡瀬美遊は、それほど必然性が無くても脱いでいるのに。
しかし、そこまで無理してヌードを拒否するぐらいなら、濡れ場の多い役、濡れ場が売りになるような映画出演など引き受けるべきでない。そもそも、この映画の責任者に、この内容(エロスが重要)で、出し惜しみする女優をキャスティングした意味を問いたい。