『いのちの停車場』:2021、日本
城北医科大学の救急救命センターで働く白石咲和子は、交通事故で搬送されて来た患者の対応に当たった。そこへ事務員の野呂聖二が少女を抱えて現れ、近くで車にはねられたので連れて来たと説明した。咲和子は患者を部下たちに任せて少女を診察し、点滴の準備をさせた。しかし先程の急患が心停止になったと知らされ、そちらの処置に戻った。苦しむ少女を見ていられなくなった野呂は、医師免許が無いにも関わらず、独断で点滴針を刺した。この問題が医局会で問題視され、野呂は呼び出しを受けた。咲和子は野呂を擁護し、自分が責任を取ると告げて城北医科大学の救命医を辞めた。
咲和子は故郷である金沢の井原台へ戻り、父の達郎と再会した。達郎は趣味で絵を描いており、その中には亡き妻の肖像画もある。しかし顔はハッキリと描いておらず、達郎は妻の顔が良く思い出せないと語る。咲和子は在宅医として働くため、まほろば診療所を訪れた。院長の仙川徹は交通事故に遭い、車椅子で生活していた。診療所で働いているのは仙川の他に、若い看護師の星野麻世だけだった。診療所で抱えている患者は、わずかに6名だけだった。
40歳の寺田智恵子は末期の肺癌を患う芸者で、治療を拒否していた。彼女は煙草を吸っており、「一日中ベッドに寝て食事だけ取るのは、生きてることじゃない」と長生きに興味を示さなかった。80歳の並木シズは脳出血で入院後、本人の強い意志で自宅に戻っていた。彼女は夫の徳三郎と2人暮らしで、自宅はゴミ屋敷と化していた。咲和子がヘルパーを雇うよう勧めると、徳三郎は「こいつはシモの世話を他人に任せるようなことはしたくねえんだ」と拒んだ。咲和子は智恵子とシズに対して何の治療もせず、その場を後にした。麻世が姉の息子を幼稚園へ向かうに行くと言い出したので、咲和子は驚いた。
野呂が高級車でまほろば診療所を訪問し、咲和子に城北医科大学を辞めたことを話す。3回連続で医師国家試験に落ちた彼は親のコネで事務員になっており、以前から風当たりが強かったのだと言う。「罪滅ぼしとして咲和子先生の下で働きたいんです。何でもします」と彼が頭を下げると、仙川は歓迎した。仙川は近くのモンゴル食堂「STATION」に咲和子と野呂と麻世を連れて行き、食事会を開いた。麻世は咲和子と野呂に手伝ってもらい、並木家を掃除してゴミを片付けた。シズが亡くなり、徳三郎は嗚咽を漏らした。
38歳の江ノ原一誠は趣味のトライアスロン中の事故で脊髄を損傷し、妻の静香が身の回りの世話をしていた。江ノ原は年商300億を稼ぐIT会社「ワン・ファクト」の社長で、「私がいないと会社は3日で潰れる」と咲和子に語る。江ノ原は入院を拒否し、最先端医療を求めた。咲和子が「残念ながら在宅医療では、最先端医療は」と困惑すると、彼は「決め付けるな。それじゃあ進歩が無い。国の医療制度を見れば、病院と在宅で出来ることの差はほとんど無い。出来るのにやろうとしない。在宅医に勇気と知識が無いだけだろ」と述べた。
咲和子は知人の協力も得て情報を集め、肝細胞治療を提案した。自由診療なので高額な治療費が必要になるが、江ノ原は承諾した。咲和子は加賀大学医学部教授の紹介で、富山の再生医療クリニックに通院して診療を受ける手筈を整えた。10歳まで隣に住んでいた囲碁棋士の中川朋子が咲和子を訪ね、前の病院での資料を見せた。朋子は5年前に胃癌の手術を受けて治ったが、再発して肺と腰に転移していた。咲和子は仙川に相談し、「最新医療にトライする価値はあると思うんです」と語った。
咲和子は朋子から「あとどれぐらい生きられますか?」と質問され、「ずっとよ。永遠に」と答えた。彼女は朋子を「STATION」へ連れて行き、仙川や店主の柳瀬尚也たちに会わせた。朋子は咲和子に「もう一回、頑張ってみます」と言い、最先端医療の治験をやってみないかと誘われていることを明かした。咲和子は喜び、彼女を応援した。しかし朋子は亡くなり、咲和子は野呂と共に遺体安置所へ赴いた。朋子の娘は咲和子に、治験の後で急に体調が悪化して意識が無くなったことを説明した。
実家に戻った咲和子は、達郎から「ああいう終わり方は嫌だな」と言われる。達郎は妻が意識の無くなった後も点滴に繋がれていたことを語り、「約束してくれ。俺をあんな風には死なせないでくれ」と頼んだ。正月、達郎は雪で足を滑らせて転倒し、右の大腿骨を骨折した。手術は成功したが、医師は高齢なのでリハビリに時間が掛かると咲和子に説明した。8歳の若林萌は小児癌で入退院を繰り返し、3度目の抗癌剤治療を受けることになった。母の祐子は萌に、「頑張って抗癌剤を打てば、今度こそ良くなるわ」と言う。萌は野呂に懐き、「パパもママも頑張れって。でも何を頑張ればいいんだろう」と問い掛けた。
57歳の宮嶋一義は膵臓癌の末期で前職は高級官僚だった。無駄に国民の社会保障費を使うべきではないと考え、自宅で最期を迎えることを望んで金沢へ帰って来た。咲和子は「外出していいですか」と問われ、「もちろん。やりたいことをなさって下さい」と答えた。宮嶋がいつ急変してもおかしくない状態になり、咲和子は妻の友里恵に「息子さんは?」と尋ねた。友里恵は高校卒業後から会っていないこと、息子が宮嶋に反発して家を出たこと、東京の小さな工場で働いていることを語った。
宮嶋は今まで、自分から息子に帰って来いと言ったことは無かった。彼の臨終が迫り、友里恵は息子に電話を掛けるが連絡が付かなかった。そこへ野呂が来ると、咲和子は「息子さんが見えましたよ」と宮嶋に呼び掛けた。野呂は困惑しながらも咲和子に話しを合わせ、息子として宮嶋に言葉を掛けた。宮嶋は笑顔を浮かべ、息を引き取った。咲和子は祐子から「病院が萌に新薬を使わない」と不満を吐露されると、「4度目の抗癌剤治療は命を縮めることになる」と説明した。しかし祐子は納得できず、「ようするに病院に見捨てられたんですよ」と泣いた。麻世は姉の息子である翼とラーメンを食べに行く時、野呂を誘った。彼女は医師になるべきだと野呂に言い、不器用なので向いていると告げた…。監督は成島出、原作は南杏子『いのちの停車場』(幻冬舎文庫)、脚本は平松恵美子、製作総指揮は岡田裕介、製作統括は早河洋、企画は木下直哉、製作は手塚治&亀山慶二&吉崎圭一&原口宰&山口寿一&渡辺雅隆&與田尚志&渡辺章仁&温井伸&能田剛志&吉村和文&丸山伸一&野中雅志、エグゼクティブプロデューサーは村松秀信&西新、アソシエイトプロデューサーは木村光仁&三輪祐見子、プロデューサーは冨永理生子、キャスティングプロデューサーは福岡康裕、撮影は相馬大輔、美術は福澤勝広、照明は佐藤浩太、録音は藤本賢一、編集は大畑英亮、音楽は安川午朗、音楽プロデューサーは津島玄一、エンディングテーマは村治佳織。
出演は吉永小百合、松坂桃李、広瀬すず、西田敏行、田中泯、石田ゆり子、小池栄子、柳葉敏郎、南野陽子、泉谷しげる、みなみらんぼう、伊勢谷友介、森口瑤子、西村まさ彦、中山忍、菅原大吉、松金よね子、国広富之、 小林綾子、笠兼三、金子昇、中島亜梨沙、佐々木みゆ、鈴木乃伊留、須山りく、北島美香、羽野敦子、酒井康行、西田貴晃、吉川依吹、山口岳彦、南杏子、原口宰、鶴岡優子、鶴岡浩樹、鶴岡太朗、森岡研介、桃太郎、千寿、結、すず七ら。
南杏子の同名小説を基にした作品。
監督は『ちょっと今から仕事やめてくる』『グッドバイ〜嘘からはじまる人生喜劇〜』の成島出。脚本は『家族はつらいよ』『旅猫リポート』の平松恵美子。
咲和子を吉永小百合、野呂を松坂桃李、麻世を広瀬すず、仙川を西田敏行、達郎を田中泯、朋子を石田ゆり子、智恵子を小池栄子、宮嶋を柳葉敏郎、祐子を南野陽子、徳三郎を泉谷しげる、柳瀬をみなみらんぼう、江ノ原を伊勢谷友介、友里恵を森口瑤子、萌を佐々木みゆ、翼を鈴木乃伊留、朋子の娘を須山りくが演じている。
吉永小百合の主演作では毎度お馴染みの光景だが、今回も彼女は「何歳の設定なのか」と言いたくなるキャラクターを演じている。
父親役の田中泯とは同い年で、ってことは咲和子は50代ぐらいの設定だったりするのかな。構図が最初から最後まで一貫して狭いってのが、ものすごく気になる。
大半のシーンが登場人物を近くから捉える映像で構成されており、屋内外に関わらず「引き」のショットが著しく少ない。
たまに景色をロングで撮ることはあっても、なぜか頑なにカメラが空へパンすることは無い。空を大きく画角に入れたショットも見当たらない。
そんなに派手さや動きを求められるタイプの物語ではないけど、それにしても映像がものずこく平坦で、とてもノッペりした印象になっている。冒頭、トンネルでの事故が描かれる。
急に車線を飛び出した車が、スピードを上げて前の車を追い抜く。そのまま車はスピードを上げるが、急ブレーキで前の車列に突っ込んで爆発が起きる。
でも、どういう状況なのかサッパリ分からない。
その突っ込んだ車が急にスピードを上げて、強引に前の車を追い越した理由は何なのか。追い越した後の運転は不安定だが、居眠りしていたりラリってしたりってことなら、急ブレーキも掛けないだろう。
後から何か説明があるかと思ったら、何も無いのよね。あと、その車が突っ込む車列も、良く分かんないのよ。
どっちの車線も車が停止しているので、渋滞が起きているようにも見える。だけど良く見ると、そのトンネルは二車線なんだけど、どっちの車線の車も画面側に背中を向けている。
つまり、進行方向が二車線とも「こっちから向こう」なのだ。
ってことは、一方通行のトンネルってことなのか。向こうからこっちに通り抜けるのは出来ないトンネルなのか。
なんかね、無駄で無意味に謎が多すぎる事故シーンなのよ。しかも、そんな謎だらけの事故シーンを冒頭で描く意味があるのかというと、「絶対に無い」と断言できるのよ。
いきなり病院のシーンから初めて、「咲和子が患者の対応に追われている」というのを描いても全く問題は無い。
どうしても「交通事故が起きて患者が運ばれてきた」という状況を示したいのなら、誰かに台詞で軽く説明させれば済む。
その交通事故が後のストーリー展開に大きく関わって来るならともかく、そんなことは何も無いんだからさ。トンネルでは爆発が起きているんだし大規模な事故のはずだが、城北医科大学に搬送されてきた急患は3人。
しかも慌ただしさは皆無で、咲和子はゆっくりと廊下を歩いて来るし、オペ室はやたらと静寂に満ちている。
咲和子は静かに指示を出しているが、それは「冷静で落ち着いている」ってことじゃなくて、ただ切迫感に乏しいだけだと感じる。
吉永小百合の芝居に危機感が足りないってことはあるが、全体の演出としても「重症の急患が大勢いて早急な処置が求められる緊迫した状況」の表現が弱い。咲和子は医局会で野呂が糾弾される現場に来て、「女の子を連れて来て何とかしようと思った野呂くんは、人間として間違っていなかったと思います」と主張する。
野呂を擁護するのは別に構わない。状況を考えれば、苦しむ少女を見て何とかしてあげたいと思うのは充分に理解できるし、同情も出来る。
ただ、「野呂くんに罪はありません」という咲和子の主張は違うだろ。
医師免許を持たない人間が医療行為を行ったんだから、罪はあるのよ。自分で勝手に点滴針を刺す前に、咲和子の元へ行って「早く女の子を何とかしてあげてほしい」と頼むことだって出来たはずだし。咲和子は智恵子とシズのを訪ねた帰り、「私、今日は何の治療もしてないわ」と麻世に話す。
麻世は「いいじゃないですか、だって在宅なんだから」と言い、「先生が来てくれたことには感謝してます。でも先生の考え方は、仙川先生とはだいぶ違うんですね」と語る。
でも具体的に、どのように、どれぐらい違うのかがボンヤリしている。
そりゃあ推測すれば何となくは分かるけど、そこは重要なポイントのはずなんだから、もっと明確にすべきじゃないのか。そもそも、なぜ咲和子が在宅医として働こうと思ったのかも良く分からない。
そのキャリアを考えると、その気になれば大病院でも仕事はあったはずだ。どうしても故郷に戻らなきゃいけない理由も、戻りたいと思う理由も、特に見当たらないし。
あと、ずっと救急救命の仕事をやって来た人間にとって、在宅医療の仕事を始めるのは大きな変化のはずだ。それなのに、「咲和子がまほろば診療所で働き始める」という展開をヌルッと進めるのも上手くない。
初心者の咲和子を通じて「在宅医療とはどういうものなのか」ってのを描き、観客に説明した方がいいんじゃないのかと。そこを曖昧にしたまま話を進めても、何の得も無いでしょ。咲和子は「私、今日は何の治療もしてないわ」と漏らす時には、在宅医療に対して「これで本当に正しいのか」と疑問を抱いていたはずだ。ところが、そんな彼女はいつの間にか、まほろば診療所のやり方に馴染んでいる。
ろくな治療もしないままシズが亡くなっても、それに関して咲和子が「もっと何か出来たのではないか」と悩むことは無い。
それだけでなく、シズの死を通じて「在宅医療とは、こういうことなのだ」と咲和子が学習し、在宅医として成長する様子が描かれるわけでもない。
シズに対する在宅医療や彼女の死が、咲和子に影響を及ぼす様子は皆無だ。ただ淡々と過ぎ去り、右から左へ受け流しているだけなのだ。江ノ原のエピソードも、ドラマとして色んな手順があっても良さそうなのに、何も無い。咲和子が江ノ原の主張に簡単に迎合し、すぐに情報を集めて通院治療の手筈を整える。
物語を膨らませるための作業や工夫が、ほとんど感じられない。
咲和子に医者としての理念や信念が無く、ただ流されているだけに見える。
野呂に激しく反発させたり意見を主張させたりして、咲和子とのやり取りでドラマを盛り上げる方法もあるだろうが、こいつは基本的に傍観者だ。映画開始から20分辺りで、麻世が咲和子に「姉の子供を幼稚園へ迎えに行く」と話すシーンがある。そこから2分後ぐらいの会食シーンで、麻世の隣に翼が座っている。
彼が姉の息子だろうってのは何となく分かるけど、説明は無い。
映画開始から50分ぐらい経過した辺りの正月のシーンで、麻世が咲和子に「両親を早くに亡くして姉と二人きりだった」と語る。
そこから「ってことは姉も既に死んだのか」ってことは何となく推理できるが、ここも明確に説明することは無い。映画開始から1時間15分辺りの外食シーンで、麻世が野呂に「姉がまほろば診療所で働いていた。3年前にセンターラインを越えて来た車と正面衝突して死亡した。自分は後部座席で翼を抱いていて生き残った」と話す。
ここでようやく、「なぜ麻世がずっと姉の息子の面倒を見ているのか」という疑問が綺麗に解消される。
何らかの意図があって、そこまで引っ張っているわけではない。ただタイミングを完全に逸しているだけだ。
仮に何らかの意図があったとしても、全く効果は出ていないし。もっと根本的な問題として、「姉が交通事故で死亡し、姉の息子を育ててている」「姉がまほろば診療所で働いていて、姉を亡くした後に仙川から誘いを受けて働き始めた」という麻世のキャラ設定が、彼女の人物やドラマに何の厚みももたらしていないったことがある。
冒頭で描かれるのが交通事故なので、そこでの関連付けがあるのかと思ったが、そういうのは特に何も無い。
さらに言うと、仙川が交通事故で車椅子を使っているという設定も、これまた全く意味の無いモノになっている。朋子が登場するエピソードは、「在宅医療」にも「まほろば診療所」にも全く関係ないと言ってもいい。
彼女が最新の治療に対して前向きな気持ちに変化するのは、咲和子との個人的な関係や、ステーションでの食事会がきっかけだ。まほろば診療所で在宅医療を受けた結果ではない。
そして、そこから彼女がまほろば診療所で在宅医療を受けるわけでもない。
しかも、「最新治療を受ける」と言って去った次のシーンでは遺体になっているので、「これは何を観客に伝えたくて用意したエピソードなのか」と言いたくなる。咲和子は朋子から「あとどれぐらい生きられますか?」と訊かれ、「ずっとよ。永遠に」と答える。そんな言葉を堂々と笑顔で言えるのは、とても無神経で不誠実にしか思えない。
永遠に生きられるわけが無いし、朋子の病状を考えると長生きも難しいわけで。何の根拠も無い希望的観測ですらなく、真っ赤な嘘を適当に言っているようにしか見えない。
それと、その後の「STATION」の食事会で低レベルの物真似合戦を始めるのは、どういうつもりなのか(仙川が丹波哲郎、野呂がビートたけし、麻世が井上陽水、朋子が武田鉄矢)。
「朋子が楽しい時間を過ごす」ってのを表現したかったのかもしれないけど、有名俳優たちによる楽屋落ち大会になってるぞ。咲和子が野呂に宮嶋の息子を演じさせて最期を看取るシーンは、感動的な行為として描かれている。だけど一つ間違えば、ものすごく残酷な行為だ。
たまたま宮嶋は意識が混濁していて野呂が偽者だと気付かなかったが、嘘がバレていたらシャレにならんだろ。「偽物が息子を演じて自分を見送った」って、宮嶋の立場になってみると、「なんて死に様だよ」って話だよ。
っていうか、もしかしたら嘘だと気付いていたかもしれないし。
咄嗟の判断ではあるが、かなりモヤッとする。
あと、そのまま「本物の息子」の存在が完全にスルーされているのも、これまた「それでホントにいいのか」と言いたくなるし。粗筋に書いた内容の後、病状の悪化した萌が聖二と麻世に「海に連れて行ってほしい」と頼むシーンがある。その理由について彼女は2人に近付いてもらい、小声で囁く。
なので、この時点では観客に理由は明かされない。
部屋から出て来た聖二と麻世は泣いており、萌の両親に「萌ちゃんの夢を叶えてあげたい」と訴える。そして萌が今度生まれた来る時は人魚になりたいと望んでいること、早く海に行かないと死ぬから手遅れになると語っていたことを涙声で説明する。
観客を泣かせようとしていることは誰の目にも明らかだが、登場人物が感傷的になり過ぎているせいで、逆に気持ちが冷める。その後、萌を海へ連れて行くシーンになると、「麻世は車が怖いけど付いて行く」という要素が乗っかる。
そのせいで、せっかく用意した「萌のお涙頂戴エピソード」を邪魔しているし。
そのくせ、海へ向かう途中で助手席の麻世が不安そうにする様子をチラッと写すだけで片付けているんだよね。
海に到着してからも、麻世は単なる同行者というだけで済ませてしまう。
なので、まるで麻世が簡単に車への恐怖を克服したような状態になっている。咲和子がまほろば診療所での仕事を続ける中で、終末医療への考え方や患者への向き合い方が変化していくという心の動きが全く見えない。
だから、病状の悪化した達郎から殺してほしいと頼まれた咲和子が苦悩する様子を見せられても、何も心に響かない。
それは咲和子に限ったことではなく、他のキャラやエピソードも同様だ。何もかもが点在するだけで、線になっていない。
だから聖二が萌に使う薬の頭金を工面するため車を売却しても、麻世が運転免許を取ると宣言しても、こちらの気持ちはピクリとも動かないのだ。(観賞日:2024年7月8日)