『イノセンス』:2004、日本

近未来。ガイノイドが所有者を殺害し、潜伏現場の路地でも警官2名を殺す事件が発生した。現場に到着した公安9課の刑事バトーは、 単独で路地へ入っていく。ガイノイドは「助けて」の声を漏らし、機能を停止した。今週に入って、ガイノイドによる殺人は8件も発生 している。いずれのケースでも、所有者を殺害後に自害し、電脳は初期化されている。殺人を犯したガイノイドはロクス・ソルス社の タイプ2052“ハダリ”という新型で、契約モニターに無料で貸し出されていたが、現在は全て回収されている。
バトーは荒巻部長の指示を受け、トグサとコンビを組んで捜査を開始した。2人は警察へ行き、鑑識担当のハラウェイに会った。バトーが 遭遇したハダリは、撃たれる前に自殺しようとしていた。ハラウェイによると、ロボットは自ら故障することによって人間を攻撃する許可 を作り出すのだという。ハダリは、メイドタイプには不要な器官が装備されていた。セクサロイドだったのだ。
バトーとトグサは、ハダリが所有者を殺したボートハウスへ赴き、同僚のイシカワと合流した。被害者はロクス・ソルス社の出荷検査部長 で、5日前に休暇届を出したまま失踪していた。ボートハウスの冷蔵庫には、被害者の内臓が区分けして保管されていた。現場近くに 停めてあった車の所有者を洗った結果、指定暴力団“紅塵会”が事件の背後に浮かび上がった。紅塵会組長の井上はハダリに殺され、現在 は代貸の若林が仕切っている。
公安9課は、紅塵会が組長を殺された報復で出荷検査部長を殺したのではないかと推測した。バトーはトグサと共に紅塵会の事務所へと 乗り込み、襲ってくる組員達を蹴散らした。バトーは出荷検査部長を殺したカニバサミを持つサイボークを倒し、若林を追い詰めた。若林 は、検査部長の居所を教えることでロクス・ソルス社と手打ちにしたことを白状した。
事務所を去ったバトーは、いつものように食料品店で飼い犬のエサを飼おうとする。だが、電脳に侵入されて自分の腕に5発の弾丸を 撃ち込み、店長を殺そうとする。荒巻の命令で密かに監視していたイシカワが駆け付け、バトーを止めた。イシカワは、バトーをハック した敵の目的がスキャンダルだと確信した。ヤクザの事務所で十数名を相手に大暴れし、その日の内に食料品店で銃を乱射したとなれば、 頭がイカれたと思われても仕方が無い。
イシカワはバトーとトグサに、荒巻からの伝言を告げた。捜査は続行するが、今後は物証が出ない限り公式の組織的支援は無いという。 バトーとトグサは択捉へ飛び、ロクス・ソルス社の本社へ乗り込んだ。キムというハッカーの情報を得た2人は、彼の隠れ家へ向かった。 キムはトグサの電脳をハックするが、バトーは守護天使である草薙素子の助けを得て罠を見破った。キムの電脳は、ロクス・ソルス社 警備主任の電脳と繋がっていた。それを利用したバトーとトグサは、ハダリの製造船に侵入する…。

脚本&監督は押井守、原作は士郎正宗、プロデューサーは石川光久&鈴木敏夫、演出は西久保利彦&楠美直子、 キャラクターデザイナー&作画監督は沖浦啓之、メカニックデザイナー&レイアウトは竹内敦志、プロダクションデザイナーは種田陽平、 レイアウトは渡部隆、作画監督は黄瀬和哉&西尾鉄也、美術監督は平田秀一、録音監督は若林和弘、整音は井上秀司、 サウンドデザイナーはランディー・トム、音楽は川井憲次。
声の出演は大塚明夫、田中敦子、山寺宏一、大木民夫、仲野裕、榊原良子、武藤純美、竹中直人、堀勝之祐、平田広明、寺杣昌紀、 藤本譲、亀山助清、仲木隆司、立木文彦、木下浩之、平野稔、山内菜々(現・日向ななみ)、 青羽剛、岸田修治、保村真、朝倉栄介、原田正夫、仁古泰、望月健一、福笑子、木川絵理子、杉本ゆう、渡辺明乃、Rubyら。


『GHOST IN THE SHELL 〜攻殻機動隊〜』の続編。
しかしタイトルからは続編と分からないし、公開当時も続編としては宣伝されなかった。
元々は『攻殻機動隊2』として製作が進んでいたが、プロデューサーに就任した鈴木敏夫が「それでは客が入らない」と考え、別物の如く に見せ掛けて公開する戦略を取った。
彼は客を呼ぶため、素子役に前作の田中敦子ではなく女優の山口智子を起用することも考えたが、これは押井監督らが大反対した上、 山口智子にもオファーを断られて実現しなかった。

「『GHOST IN THE SHELL 〜攻殻機動隊〜』の続編」として宣伝するのと、「『GHOST IN THE SHELL 〜攻殻機動隊〜』を作った監督の 新作」として宣伝するのと、どちらの方が一般の観客に対する訴求力があるのかと考えれば、そりゃあ後者だろう。
だから商業的なことだけで言えば、続編として宣伝しなかったのは、戦略として正しいことだ。
すげえ卑怯で不誠実な手口だけどね。
スタジオ・ジブリにおける鈴木プロデューサーの仕事は、あまり好きではないが、この映画に関しては、それほど強く批判する気に なれない。
鈴木プロデューサーが「この映画で多くの観客を呼び込むために」ということで考えた戦略を、消極的ながらも支持するし、何よりも同情 するよ。
彼の宣伝戦略が無かったら、この映画、たぶんボロコケしていただろうから。

この映画は、前作を見ていなければ、絶対に分からない内容だ。
前作を見ていなければ、バトーたちが言う「少佐」が誰なのかも分からない。バトーが戦っている敵が何なのかも良く分からない。それが 何のための行動なのかも分からない。
前作を見ていても、内容が分かるとは限らない。
ガイノイドって何やねんと。前作にも、そんな用語は出て来なかったはずだぞ。
ロクスソルス社の本社へ乗り込んだはずのバトーたちが、いきなりキムの元へ赴いているのも理解不能。
その間に何があったのかと。

「いちげんさん、お断り」という敷居の高さは、前作でも感じられた。
しかし今回は、それを遥かに凌ぐ。
全国公開して大勢の観客に来てもらおうとするならば、少佐とは誰なのか、世界観はどうなっているのか、前作でバトーと少佐はどんな 関係だったのか、前作で少佐に何が起きたのかといったことを、冒頭で説明しておくべきだろう。

セリフは前作よりも、さらに難解さを増している。旧約聖書やらミルトンやら、箴言からの引用が多い。
そして、その膨大なダイアローグは、ほとんど対話になっていない。
表面上は対話の形式を取っていても、実質的には対話として成立していない。
その大半は、他者とコミュニケーションを取るためのセリフではなく、小難しいことを主張したいだけだ。
コミュニケーションの不在は、監督と観客の間にも感じられる。
押井監督が、観客に分かってもらおうとしている意識が、微塵も感じられない。

かつて押井守監督は、『うる星やつら2  ビューティフル・ドリーマー』において、「るーみっくワールド」という世界に暮らす住人を 揶揄するようなメッセージを発信した。
だが、そんな監督本人も、それからずっと変わらず、自分の世界に閉じ篭もって仕事をしている。
プライドが高いから、ずっと閉じた世界に居座り、外に目を向けようとしない。
自分のコアなファンだけが見て、楽しめればいいという作品しか作らない。
一般の映画ファン、アニメオタク以外の人々に見てもらおうという意識は、全く感じない。

ところが恐ろしいのは、これでも押井監督がエンターテインメントをやっているつもりだということだ。
あるインタビューにおいて、彼は「作品をエンターテイメントだと思って作らなかったことは一度もない」と公言しているのだ。
今まで私は、押井監督が娯楽性を度外視し、「自分のやりたいことだけやれたらいい」と開き直っているのかと思っていたよ。
根本的に間違えているのだが、自覚が無いだけタチが悪い。故意犯より確信犯の方が、根は深い。独りよがりな主張ばかりを並べ立て、 話を分かりやすくする作業もせず、物語に入り込ませようともせず、キャラに感情移入させる意識も無い。
そんな映画を作り上げておいて、それでもエンターテインメントだと本気で確信しているのなら、今すぐに商業映画の監督を廃業した方が いい。
よく「日本のアニメはクオリティーが高い」と言われるけど、こんなアニメを高く評価していたら、日本アニメの未来は暗い。

前作にしろ今作にしろ、映像が高く評価されることも多いようだが、個人的には、映像に対する魅力は全く感じなかった。
2Dアニメから3DCGが浮き上がっているのに、それを分かっていながら放置している辺りからしても、押井監督は映像へのこだわりが 薄いのだろう。
これで「こだわっている」というのなら、そもそもセンスに乏しいということになるから、そっちの方が問題だし。
一枚絵にせよ、アニメーションとしての動きにせよ、押井監督の絵作りに対する関心は薄いものと思われる。
ヤクザの事務所でバトーが戦うシーンでの、双方の動かなさ、アクション演出のつまらなさと言ったら。
全体を通しても、映像的に印象に残るような場面は無い。
それが、押井監督が宮崎駿監督になれない所以だろう。まあ本人は、なりたいとも思っていないだろうが。

じゃあ押井監督が関心を示している事柄は何なのかというと、それは「キャラクターの口を借りて、哲学的なメッセージを主張すること」 だ。
昔から基本的に、そういう意識は変わっていない。
今回は「なぜ人間は、自分たちにそっくりな人形を作るのか」というクエスチョンを提示している。そして、そのことを通じて身体論を 語り尽くそうとしている。
押井監督は、どうやら人間を信じていないし、愛してもいないようだ。
その証拠に、映画の終盤、助かるために人形を利用した被害者の少女に対して、バトーが「人形に悪いと思わなかったのか」と罵声を 浴びせる。
それは押井監督の主張を代弁した言葉だ。人形を人間以上の存在として見ているのだ。
「子造りは人造人間を作りたいという願望の代替物だ」というハロウェイの言葉もある。
人造人間が子供の代替物ではなく、監督の中では逆なのだ。
さすが、閉じた世界の住人である。

(観賞日:2008年8月14日)

 

*ポンコツ映画愛護協会