『稲村ジェーン』:1990、日本

1960年代の半ば、湘南の稲村ヶ崎。サーファーのヒロシは、病弱の父親の代わりに古美術店「竜宝堂」を仕切っている。そんなヒロシの元を、チンピラのカッチャンが訪れる。壺の取り引きを巡るトラブルで、ヒロシの友人マサシを探しに来たのだ。
ヒロシとマサシが町で拾った売春婦の波子と食事をしていると、再びカッチャンが現れる。4人は壺の持ち主だった鎌倉の男の元に行く。とりあえず壺の問題は解決する。鉄砲玉として大阪へ行くことになったカッチャンが3人に別れの挨拶をするために会いに来たりする。
ヒロシやマサシの行き付けの店「ヴィーナス」のマスターは、いつも20年に一度と言われる伝説の大波“稲村ジェーン”のことを話している。ヒロシは父の見舞いに行くが、そこで稲村ジェーンがやって来る時の予兆現象について聞かされる。
カッチャンが鉄砲玉を怖がって逃げてくる。彼をかくまったため、ヒロシ達は追ってきたヤクザとトラブルになったりする。ある日、稲村ヶ崎に台風が近付いてくる。「ヴィーナス」のマスターは稲村ジェーンが来たことを確信する。ヒロシ達も海を見るために集まるのだが…。

監督&音楽は桑田佳祐、脚本は康珍化、製作は山本久&出口孝臣&横山元一&岩田廣之、プロデューサーは森重晃、製作総指揮は大里幸夫&高山登、撮影は猪瀬雅久、編集は鈴木歓、録音は山田均、照明は丸山文雄、美術は細石照美、衣裳は久保田かおる、音楽監督は小林武史。
出演は加勢大周、金山一彦、的場浩司、清水美砂、尾美としのり、泉谷しげる、トミー・スナイダー、パンタ、草刈正雄、伊武雅刀、伊佐山ひろ子、設楽りさ子、原由子、伊東四朗、古本新之輔、下元史朗、郷田ほづみ、寺島進、嘉門達夫、寺脇康文、野沢秀行、小泉今日子ら。


サザンオールスターズのの桑田佳祐が初監督した作品。
脚本を書いたのは作詞家の康珍化。音楽が話題となった作品だが、インストゥルメンタルの曲は映画の雰囲気に全く合っていないし、シーンの意味を壊そうとしている。音楽とのマッチングにそれほど成功しているわけではない。

これはもはや映画ではない。長尺の音楽プロモーションビデオだ。ストーリーを追っていると腹が立ってくる。マトモなストーリーなど無いからだ。そこでは4人の若者が海の近くでダラダラしている場面が延々と映し出されるだけだ。
無意味なショット、無意味なアップの連続。関連性を欠いた場面が次々と現れ、それを繋げていこうという意図は見えない。そのくせ、ゲスト出演者の小泉今日子が大写しになったりする。もちろん、彼女の出演シーンには何の意味も無い。

それぞれのキャラクターを生かそうとする工夫は無い。4人の結び付きに自然な部分は無い。交わす言葉に魂は無い。伊東四朗は奇妙な屋敷に住んで奇妙な行動を取るが、それに意味は無い。大事な場面は全く描かれないが、おそらく大事な場面など無い。
サーファーや海の物語のはずなのだが、実際にサーフィンをしている場面は全く出てこない。ヒロシが「サーフィンやりに来たんだろ、やんねえのかよ」と言う場面があるが、こっちが言いたい。何もしないのがリアリズムだというのなら、そんなリアリズムは要らない。

途中で桑田佳祐本人がバンドと共に登場し、そして歌い始める。
そこでの映像は、明らかに桑田の歌だけを生かすためのものであり、物語の繋がりなど完全に無視されている。桑田佳祐の歌以外の部分は全てカットして編集しても充分に成立するし、むしろその方がイイかもしれない。

終盤では龍の目が光ったり、坂から滑り落ちたり、やけにスケールの大きい音楽が流れたり、いきなりパンタが登場したり、またも桑田佳祐が登場して歌い始めたり、妙な仮面の連中が踊り始めたり、ホタルに包まれてサーフボートが空に浮かんだりするが、別に意味は無い。

で、肝心の稲村ジェーンはどうやら来たらしい。しかし、その大波を実際に映像で見せることは無い。さらに、稲村ジェーンに挑もうとするサーファーの姿も無い。怖くて乗れないのだ。結局、誰も何もしない内に、映画は終わってしまう。
こんな作品でも、観客動員数350万人を記録している。
映画の世界って恐ろしい。

 

*ポンコツ映画愛護協会