『一命』:2011、日本

井伊掃部頭直孝が当主を務める江戸の上屋敷に、津雲半四郎という浪人がやって来た。彼は家中の人間に、用があるので取り次いでほしいと告げた。報告を受けた家老の斎藤勧解由は「またか」と顔をしかめ、家臣の田尻は「性懲りも無く」と吐き捨てた。家臣の沢潟彦九郎が出仕していると知った勧解由は、田尻に「通せ、ワシが直々に話をする」と述べた。半四郎は仕えていた福島家の改易で生活が困窮していること、生き恥をさらすより武士らしく死にたいと考えたことを話し、玄関先を借りて切腹したいと申し入れた。
勧解由は半四郎に、千々岩求女という男を知っているかと問い掛けた。「存じませんが」と半四郎が答えると、勧解由は求女が福島藩の家臣だったこと、秋口に当家を訪ねて来たことを話す。寛永11年10月20日、求女は半四郎と同様、玄関先での切腹を所望した。家臣の沢潟と松崎隼人正、川辺右馬助の3人は、対処の方法について話し合う。川辺は「即刻、斬り捨てて参ろうか」と言うが、松崎は面倒なことになる前に金を渡して追い払った方が良いのでないかと言う。
沢潟は勧解由に、巷で流行っている狂言切腹に相違ないと報告する。ある浪人が藤島家を訪れて切腹を申し入れた際、心情に胸を打たれた家臣が雇い入れるという出来事があった。その噂が広まり、同じ行動を取る浪士が続出した。ある者は雇われ、そうでない者も幾ばくかの金子を与えられた。沢潟は二度と同じ真似をする浪士が出ないよう、望み通りに切腹させることにした。家中の者が直孝に面会できると求女に告げ、湯殿へ案内した。その間に沢潟たちは求女の刀を調べ、それが竹光だと知った。
切腹させられると知った求女は狼狽し、猶予が欲しいと沢潟に頼む。しかし既に用意が整っていると告げられ、今さら狂言だと言い出すことは出来なかった。勧解由を筆頭に家中の面々が包囲する中、求女は沢潟の解釈で腹を切ることを求められる。求女は一日だけ猶予が欲しいと訴えるが、それは許されなかった。彼は「病に伏せている妻子を医者に見せたい」と語り、三両を所望して頭を下げる。「最後の望みがそれか。情けない奴め」と沢潟は言い、求女は竹光を何度も腹に突き刺した。
話を聞いた半四郎は、「哀れな話でござりまするな」と口にした。勧解由は切腹を思い留まるよう説くが、「武士に二言はござらぬ」と半四郎は言う。勧解由が死に装束に着替えさせようとすると、半四郎は今の着物のまま切腹したいと申し入れた。庭先へ移動した半四郎は、解釈人を沢潟に頼みたいと告げる。勧解由は沢潟が出仕していないことを話し、別の人間を勧める。しかし半四郎が最後の願いを叶えてほしいと頼むので、勧解由は田尻に指示を出した。
田尻は家中の者に、沢潟が昨夜から戻っていないことを知らされる。半四郎は勧解由に、沢潟が無理なら松崎か川辺に頼みたいと告げる。だが、その2人も昨晩から役宅に戻っていなかった。勧解由は半四郎が何か企んでいると感じ、立ち上がって「何しに参られた」と声を荒らげる。家来たちが一斉に刀へ手を掛けると、半四郎は話を一通り聞いてもらえれば斬られても構わないと言う。勧解由が承知すると、半四郎は求女との関係について話し始めた。
元和3年6月、福島藩では大雨で崩れた城の修理に取り掛かろうとするが、幕府の許可が出ていなかった。普請奉行の千々岩甚内は半年前に普請届を出したが、その返事が来ていなかった。家臣たちが「本丸だけは取り掛かろう」と言って仕事を始めたので、心労が募った甚内は倒れてしまった。半四郎は幼い娘の美穂を連れ、見舞いに訪れた。幕府が藩の取り潰しを狙っているのではないかと彼が言うと、「滅多なことを言うではない」と甚内は告げた。もちろん美穂も、甚内の息子である求女も、大人たちの気苦労など全く知らなかった。そして元和5年6月、福島藩は幕府から改易を命じられた。甚内は病に倒れ、求女を半四郎に託して息を引き取った。
元和6年6月、江戸。半四郎は長屋で美穂と求女の面倒を見ながら、傘張りの仕事をして生計を立てていた。しかし稼ぎは少なく、貧乏暮らしが続いた。寛永7年5月、甲州屋から美穂に縁談の話が何度も持ち込まれる。大家の宗祐たちは受けるべきだと考えるが、半四郎は断り続けていた。求女は和尚にボロ屋を借りて寺子屋の先生となり、子供たちに読み書きを教えていた。半四郎は求女に、「美穂を貰ってくれぬか」と告げた。求女は美穂と惹かれ合う関係だったが、「未だ浪々の身。そのようなことがお受け出来る身分ではございません」と断る。しかし半四郎は求女の気持ちを確認し、2人を結婚させた。
やがて美穂は男児の金吾を産み、半四郎は祝福に鯛を用意した。求女は生活費を工面するため、書物を少しずつ売り払っていた。体の丈夫でなかった美穂が吐血して病に倒れたため、求女は書物を売って薬や卵を購入した。半四郎も番傘を売り、稼いだ金を美穂に渡す。しかし美穂は病弱の状態が続き、そんな中で金吾が高熱を出してしまう。医者に診てもらおうにも、三両の金が無ければ駄目だと断られた。求女は何かを決意した様子で半四郎に「心当たりがあります」と言い、昼過ぎには戻るので妻子を見てほしいと頼んで外出した。しかし夜になっても求女は戻らず、金吾は体調が悪化して死亡した。そこへ井伊家の使者が訪れ、求女の切腹を半四郎と美穂に伝えた…。

監督は三池崇史、原作は滝口康彦「異聞浪人記」、脚本は山岸きくみ、エグゼクティブプロデューサーは中沢敏明&ジェレミー・トーマス、製作は服部洋&野田助嗣&入江祥雄&奥野敏聡&野口明美子&野口英一&畠中達郎&町田智子&喜多埜裕明、プロデュースは白石統一郎&関根真吾&服部徹、共同プロデュースは厨子健介&内田康史&横山真二郎、プロデューサーは坂美佐子&前田茂司、撮影は北信康、照明は渡部嘉、録音は中村淳、美術は林田裕至、編集は山下健治、殺陣は辻井啓伺、衣装デザインは黒澤和子、共同プロデューサーは今井朝幸&小松俊喜、美術プロデューサーは竹村寧人、協力プロデューサーは小柳憲子、アソシエイトプロデューサーは藤村哲哉、音楽は坂本龍一。
出演は市川海老蔵(十一代目)、瑛太(現・永山瑛太)、役所広司、満島ひかり、竹中直人、中村梅雀(二代目)、笹野高史、大門伍朗、平岳大、青木崇高、新井浩文、波岡一喜、天野義久、高橋一平、斎藤歩、西沢仁太、仁科貴、望月章男、市瀬秀和、澁谷武尊、三宅朱皓、松井克之、吉原伸一、金子栄章、橋田雄一郎、西村匡生、杉山幸晴(章晴は間違い)、浜田隆広、大橋正幸、入江毅、山田永二、柴田善行、やまだ慎弥、驚尾直彦、中島ボイル、柴田裕司、山本道俊、多井一晃、伊達康浩、田畑利治、名村克良、要冷蔵、森本邦彦、東康平、上村厚文、勝野賢三、野間斗晴、近藤那由汰、小笠原弘晃、高山祥吾、上田友貴、野間仁雄、中山撞真、河井心絆、奥平あかね、今井しゃー、澤村ちび他。


滝口康彦の小説『異聞浪人記』を基にした作品。
監督は『ヤッターマン』『十三人の刺客』の三池崇史、脚本は『カタクリ家の幸福』『座頭市 THE LAST』の山岸きくみ。
半四郎を市川海老蔵(十一代目)、求女を瑛太、勧解由を役所広司、美穂を満島ひかり、田尻を竹中直人、甚内を中村梅雀(二代目)、宗祐を笹野高史、和尚を大門伍朗、直孝を平岳大、沢潟を青木崇高、松崎を新井浩文、川辺を波岡一喜、佐々木を天野義久が演じている。

原作の『異聞浪人記』が映画化されるのは、これで初めてではない。
1962年に松竹が『切腹』というタイトルで映画化している。脚本は橋本忍、監督は小林正樹で、半四郎を仲代達矢、勘解由を三國連太郎が演じた。カンヌ映画祭に出品され、審査員特別賞を受賞している。
本作品は、そんな『切腹』のリメイクとは謳っていない。
あくまでも『異聞浪人記』の再映画化というのが、製作サイドの主張だ。

だが、今回の映画は明らかに、「原作小説の再映画化」ではなく『切腹』のリメイクだ。
原作は短編小説であり、『切腹』では橋本忍が大幅に内容を書き加えて脚色していた。その『切腹』と内容が酷似しているのだから、それはリメイクだろう。
英語タイトルにしても、『切腹』は「Harakiri」、この映画は「Hara-kiri:Death of a Samurai」だし。
しかしスタッフ表記には「原案:橋本忍」の名前が無い。
つまり、まるで山岸きくみが『異聞浪人記』を一から脚本化したようになっているのだが、その嘘はダメだろ。

この映画、観賞する前の段階で、1つの驚きを与えてくれる。それは、3D版が製作されているってことだ。
「時代劇映画で初の3D」というのが、一応はセールスポイントになっているらしい。でも、「アホか」と言いたくなる。
これが派手なチャンバラを売りにする類の娯楽映画なら、まだ3Dってのも分からないではないのよ。だけど終盤に立ち回りがあるものの、基本的には重厚なドラマとして作られている映画なのよ。それを3Dって、どういうつもりなのかと。
実際、観賞しても、3D版を作る意味が全く分からなかったし。
この映画で3D版を作るのは、AKB48の曲でレコードを作るのと同じぐらい無意味だわ。

まず配役の時点で、この映画には大いに無理がある。市川海老蔵の娘が満島ひかり、娘婿が瑛太って、メチャクチャなキャスティングだろ。それぞれの誕生年は1977年、1985年、1982年だぞ。どんな親子だよ。
いや、そりゃあ「でもオリジナル版の仲代達矢は、市川海老蔵より年下だったんだぞ」と言われたら、その通りなのよ。だけど『切腹』の仲代達矢って、「中年の侍」としての説得力があったのよ。
それに比べると市川海老蔵って、老けて見えるわけじゃないし、老けて見えるようなメイクを施しているわけでもないのよ。だから若い食い詰め浪人にしか見えない。
だったら、半四郎の妹が美穂で、その婿が求女という設定にでも変更すれば良かったんじゃないかと。

原作小説は読んだことが無いが、過去に『切腹』は観賞している。
つまらない面目にこだわる武家社会を痛烈に批判する映画であり、重厚な人間ドラマだった。終盤には立ち回りもあるが、それが無くても構わないんじゃないかと思うぐらい、巧みなストーリーテリングに引き込む力があった。
それに比べてリメイク版は、主人公の情念も、主張する内容の説得力も、悪役の冷徹さも、メッセージの深みも、雰囲気の重厚さも、ミステリー的な面白味も、全てが足りない。
足りないっていうか、「無い」と言った方がいいモノもある。

十一代目海老蔵の演技は、明らかに映画の中で浮き上がっている。いや、沈んでいると言った方がいいかもしれない。
これが「いかにも歌舞伎役者らしい大仰な演技」ってことなら、むしろ方法がある。周囲の演技や映画の雰囲気を、彼に合わせればいいのだ。
だが、彼が「映画である」ってことを意識したのか、監督の指導があったのかは知らないが、むしろ後半に事情が判明して感情を爆発させるまでは、抑制して演じようとしているように見える。そして、その結果が「沈んだ芝居」になっているのだ。
ただし、後半の「怒り爆発」への布石としては、前半で抑制しておくってのは間違った演出ではない。
ってことは、そこが沈んでいるように見えるのは、「映画における説得力」という部分では、やはり十一代目海老蔵は力不足ってことなんだろう。

求女が切腹を要求されるシーンは、井伊家の面々は徹底して上から目線&冷酷であるべきだ。
しかし、「心を落ち着けられたらどうだ。我ら井伊家も、筋を通さねばならん。武士に二言があってはならん」と言う勧解由の言葉は、その口調や表情もあって、「真っ当なことを語っている」としか感じない。
松崎は切腹に消極的なようだが、それが後の展開に全く繋がらないし、単に中途半端だと感じるだけ。
松崎は切腹に反対だったんだから、それなのに半四郎が沢潟や川辺と同じ扱いにするってのは筋が通らなくなっちゃうし。

竹光だと知った勧解由が自分の脇差を貸そうとするのも、温情がある男ってことになってしまう。結局は貸さないが、それは三両を所望されて「やっぱり狂言自殺なのかよ」と思ったからであって。
切腹を見物する際の「冷淡で突き放した視線」も無い。むしろ、どこか不憫に感じているような表情だ。
しかも、なかなか沢潟が介錯せず求女が苦悶していると、自ら解釈してやる男気を見せてしまうのだ。
それは絶対にダメだろ。なんで優しさライセンスを勧解由に持たせちゃうんだよ。

勧解由を人情味のあるキャラ設定にすると、後半に入って半四郎が「武士の情けは無かったのか」と批判した時に、「あったよ」ってことになってしまうのよ。
でもホントなら、そこは「情けは皆無だった」ってことにしておかなきゃダメなのよ。
勧解由が優しさゼロの冷徹な男だからこそ、最終的に半四郎が「面目ばかりを気にする武家社会への復讐」として暴れる展開に理屈が生じるわけで。
それなのに勧解由や松崎の部分で優しさを見せちゃうことで、半四郎の怒りが「単なるタチの悪いクレーマー」になっちゃうのよ。

勧解由や松崎から冷徹さを取り除いたことで、この映画は沢潟と川辺という個人が怒りや憎しみの対象を請け負うべき存在となっている。
だが、それだと話が真っ当に成立しなくなってしまう。
そりゃあ勧解由が冷徹に切腹させたとしても、やはり半四郎の復讐は理不尽なモノだと言える。しかし、それでも井伊家が全体として「武家社会の悪いトコ」を象徴する存在であれば、半四郎の「武家社会への復讐」という道理は成立するのだ。
この映画は、そこを崩しているので、半四郎の行為から説得力が完全に失われているのである。

半四郎が回想を始めると、求女や美穂が幼い頃の出来事から描写されていく。福島藩が改易になった経緯や、半四郎が甚内から求女のことを託された出来事から始めて、成長した求女と美穂の結婚や子供の誕生が描かれ、求女が狂言切腹に追い込まれる事情へと続いて行く。
その辺りを丁寧に描くのも、たぶんオリジナル版を単純に模倣しているんだろうけど、ほとんど要らないと感じる。
福島藩の改易や半四郎と甚内の関係などはバッサリと経緯を削って、求女と美穂の結婚生活から始めれば事足りる。そこまでの経緯を描いていることが、後の展開に全く繋がらないし、ドラマの厚みにも貢献しない。
あえて言うなら、福島藩の改易は明らかに政府の陰謀だから、そこも半四郎の「武家社会への復讐心」ってトコに含まれるという見方も出来なくないけど、かなり遠いし無理がある。しかも、それって井伊家は全く関係の無いことだしね。

回想劇が終わると、半四郎は「世間では竹光で切腹を申し出た求女を嘲け笑い、切腹させた井伊家をさすが武士と褒めそやす。誰も求女の哀れ潔さを語ることは無い」と批判めいた口調で語る。
それに対して勧解由は、「お気持ちはお察しするが、我らは腹を斬りたいという願いを聞いて、この庭先をお貸ししたまでのこと。まさか斬らせはしまいという甘い目論見が間違いの元。武士が斬ると言ったら斬らねばならん」と語る。
この問答、本来なら半四郎の意見に共感し、勧解由の主張は「金持ち武士の高慢で傲慢な主張」に感じられるようにしておくべきだろう。しかし実際には、「勧解由の意見も分かる」という形になっている。
また、半四郎が「しかし恥を承知で妻子のために金子を頼んだ心中を、誰か哀れとは思わなかったか。我が身に置き換え、思いやる気持ちをお持ちの御方が一人ぐらいおられなかったか」と糾弾することに対しても、前述したように勧解由や松崎が同情心を示しているだけに、「思いやる気持ちがあったからこそ、勧解由は竹光の代わりに日本刀を貸そうとしたし、苦悶しているので自ら介錯してやったんだよ。
そういう出来事を、半四郎は死体を届けた使者から聞かなかったのか」と言いたくなる。

勧解由が「我らは武士として礼を尽くした」と口にすると、半四郎は「思いやる心か。おかしなことを言われる。武士も血の通うた人間であろう」と反論する。それに対して勧解由は、「井伊家がそのような物を見せては示しが付かぬ。人にはそれぞれ面目がなければならん。それを施す心が無ければ、何も守れん」と述べる。
で、ここで「武士の面目などバカバカしい」と感じさせなきゃならんのだけど、前述のように、そこまでに勧解由が人情味のある男ってことが描かれており、その上で武士の面目について語っているので、「面目だけを気にする醜悪な男」とは受け取れないのだ。
その結果、「勧解由にも一理ある」ってことになってしまう。
それじゃダメでしょ。勧解由の論理は、徹底して「容赦の無い強者の論理」であるべきなのよ。

終盤、半四郎が「これをお返し申し上げる」と懐から三両を取り出すと途端に雪が降り出すのは、すんげえチープだ。
そういう演劇的で誇張した演出が映えるケースもあるだろう。だが、そこまでの演出が重厚でケレン味とは無縁だったため、そこで急にファンタジーな演出を持ち込むと、ただ陳腐になるだけだ。
大勢を相手に竹光でのチャンバラを長々と続けるのも同様で、「いや絶対に無理だから。早い段階で竹光が折れるから」と言いたくなる。
もちろん、そんなことは分かった上でファンタジーとして竹光での大立ち回りを用意したんだろうけど、それを受け入れさせるための土壌が全く整っていない。

あえて好意的に捉えるなら、その竹光による大立ち回りに、「武士の面目の象徴である刀を使って大勢の武士が立ち向かって来るのに、竹光の半四郎に敵わない」という描写で痛烈に皮肉るという意味を受け取ることは出来なくも無い。
ところが、しばらくすると半四郎は、その刀でズタズタに斬られて死んでしまうのだ。
これがオリジナル版だと、半四郎は刀で戦っていたが、最後は種子島で撃たれて死亡する。
つまり、そこには「武家社会の象徴である刀など、鉄砲には勝てない。そして武家社会の面目を主張していた井伊家も、鉄砲に頼らざるを得ない」という皮肉があったわけで。 だから仮に皮肉が込められているとしても、やはりリメイク版は半端なのだ。

(観賞日:2015年9月16日)


2011年度 HIHOはくさいアワード:第9位

 

*ポンコツ映画愛護協会