『EM/エンバーミング』:1999、日本
進藤由樹という17歳の若者が、ビルの屋上から飛び降りて死亡した。エンバーミングの技術者“エンバーマー”の村上美弥子は、平岡刑事からの連絡で現場に駆け付けた。エンバーミングとは、遺体を生前に近い姿に戻すために施す処置のことだ。
由樹の父親は国民党の国会議員・進藤秀人だった。捜査に当たった平岡は、自殺か事故であり、他殺の可能性は無いと判断した。美弥子は、女子高生の篠原里香が飛び降り現場で泣き崩れる様子を目撃した。美弥子は同僚の久留米清一と共に、EMセンターで作業を始めた。作業の途中、遺体の瞼から1本の針が飛び出した。
10万人もの信者を抱える大徳院の慈恩総帥が、エンバーミングを中止するよう圧力を掛けてきた。 美弥子は、由樹の死に不信を抱き始めた。そんな中、EMセンターに安置されていた処置済みの由樹の遺体から、頭部だけが持ち去られてしまう。
美弥子は久留米から、ドクター・フジという天才的エンバーマーの存在を知らされる。美弥子がドクター・フジに会うと、彼は由樹の遺体にあった瞼の穴のことを知っていた。彼は、頭蓋骨が割れて血が動脈から噴き出し、静脈に入った針が防腐剤に押し流されて瞼を突き破ったのだと語った。そして、それがプロの仕事では無いことも。
美弥子はフジに、村上春子という女性のエンバーミングを行ったかと尋ねた。村上春子は、美弥子の母親だった。20年前、春子は従軍医師だった父親を探しに行ったロスで、爆弾テロに巻き込まれて亡くなった。エンバーミングを施された遺体を見て、美弥子はエンバーマーになったのだ。だが、フジは明確な答えを避けた。
由樹の頭部が持ち去られた事件で、里香が容疑者として浮上した。里香は多重人格者で、通院先の精神病院で由樹と出会った。2人は別の病院に通い始めたが、その病院のオーナーが慈恩だった。慈恩は元医師で、人体実験によって医師会を追放されていた。 そして最近、慈恩は針で精神障害を治すという新たな人体実験を始めていた…。監督は青山真治、原作は雨宮早希、脚本は橋本以蔵&青山真治、脚本協力は本田紀生、企画は田中和彦&坂井洋一、プロデューサーは竹本克明&小椋悟、撮影は西久保維宏、編集は上野聡一&青山真治、録音は湯脇房雄、照明は赤津淳一、美術は塩田仁、美術デザインは奥津徹夫、特殊メイクは中田彰輝、音楽は山田勲生&青山真治。
出演は高島礼子、松重豊、鈴木清順、柴俊夫、本郷功次郎、三輪ひとみ、松尾政寿、早川純一、古島弘美、浅見小四郎、高川裕也、新井康弘、工藤俊作、大川ひろし、吉田朝、永島浩二、島田潤、島田亮、氏家恵、東海林龍、中野寛造、森下亨洋、笠原紳司、山本尚明ら。
ノンフィクション作家の松田美智子が、雨宮早希のペンネームで初めて執筆したフィクションを映画化した作品。DVDタイトルは『エンバーミング/遺体処置』。
ところで映画とは関係無いが、色んな所で「松田美智子は故・松田優作の奥さん」という表記を目にする。それって密かに流行しているギャグなのだろうか(松田優作の奥さんは松田美由紀だ)。青山真治監督は、この映画を撮った時、自分には娯楽映画は向いていないことに気付いていなかったのだろうか。あるいは、気付いていながら、あえて娯楽精神を排除して娯楽作品を撮ったのだろうか。いずれにせよ、これまでの青山監督の作品を考えれば、明らかに娯楽映画にすべき企画を彼に任せたことは間違いだと断言しよう。
エンバーミング、宗教組織、出生の秘密、多重人格、人体実験、双生児、臓器売買。提示される幾つもの要素だけを取れば、この映画はサイコ・サスペンスとして仕上がるべき作品だ。
ところが、この映画はサイコ・サスペンスとして成立していない。サイコ・サスペンスにならなかった理由は明白だ。
青山監督が、サイコ・サスペンスとして作ろうとしていないからだ。
彼には、彼が描きたいテーマがあって、それを優先したということだろう(そのテーマが何なのかは良く分からないが、「永遠」だろうか)。
だから、前述した要素は放り込まれるだけで、それを生かそうとか、上手く絡ませようとか、そういうことには全く興味を示さない。不気味な雰囲気作りや世界観の構築に関しては完全に手抜き状態なので、色々な所で問題が生じている。大徳院や慈恩総帥は、場違いで質の低いギャグにしか見えない。ドクター・フジには、底の見えない不気味な存在感は無く、安っぽい。まあ、底の見えない存在感を見せたければ、そもそも柴俊夫をキャスティングしないだろうが。
刑事が手入れの時にいきなり発砲して人を殺す場面では、パワー不足で無理が通らなくない。由樹のアピールが弱いので、後半に邦昭が登場してもインパクトに欠ける。謎解きの面白さを見せる気は無いらしく、セリフによる説明で簡単に処理してしまう。
ヒロインの出生の秘密は、シリーズ化が確定的ならば伏線としての意味があるだろう。だが、前述したように、そもそも娯楽映画として作られていないのだから、シリーズ化など有り得ないわけで、だから何の意味も無い要素になっている。青山監督は、明確に自分のやりたいことだけやろうとしている。
そのためには、面白い要素があろうが無かろうが、そんなことは関係無い。
エンターテインメントになろうがなかろうが、知ったことでは無い。
彼は、とにかく好きなことだけやりたいのだ。
例えばデヴィッド・リンチ監督だって、好きなことだけやって、ビッグネームにまで成り上がった。この映画の後、青山監督は『EUREKA』で世界的な注目を浴びた。これから彼は、もっともっとビッグネームになるかもしれない。そうなった時、この映画はきっと、「青山監督がビッグになるための犠牲となった実験」としての価値を持つことだろう。