『映画女優』:1987、日本

大正15年、田中絹代の母・ヤエは、映画監督の清光宏を歓迎するために鯛を用意した。伯父の源太郎、姉の玉代、兄の祥三と晴次も、清光の来訪を待っている。松竹下加茂撮影所で臨時働きをしていた絹代は、松竹キネマ蒲田撮影所に戻る映画監督の清光宏から誘われ、家族と共に上京したのだ。一家が暮らす借家も、清光が用意したものだった。大部屋女優として正式に蒲田撮影所の所属となった絹代は、既に撮影所長の城都四郎と面会していた。
絹代はヤエの頼みで、本名のまま女優活動をすることを決めていた。絹代が有名になれば、徴兵検査の時に失踪した長兄の良介が戻って来るのではないかと期待してのことだった。大部屋女優の給料は10円から15円が相場だったが、絹代は30円を貰った。大部屋女優は午後遅くに張り出される予定表を見て、明日の仕事の有無を知る。しかし休みであっても、大抵の大部屋女優は撮影所に来る。お偉いさんの目に留まることもあるからだ。
昭和2年、清光は絹代が自分のひいきだから役を貰えているという大部屋の噂を耳にした。彼は大部屋へ行き、「彼女の起用を所長に進言したのは僕だが、それは田中君が仕事にひたむきだからだ」と告げた。ある日、監督の五生平之助が『恥しい夢』の主演に絹代を抜擢したと知った清光は、借家を訪れ。彼は絹代が自分に何の相談も無く、初主演の話を承諾したことに納得していなかった。ヤエは祥三と晴次を助監督とカメラマン助手に雇ってもらった恩もあるため、清光の意見に賛同した。
清光は絹代とヤエに、五生が家から勘当された貧しい監督であること、まだ監督になって日が浅いことを話す。さらに彼は、五生の企画は城都に採用されないだろうと述べた。しかし映画を新しい娯楽として捉え、旧態依然の撮影所を改革しようと考えていた城都は、五生の企画を了承した。『恥しい夢』の試写を見た清光は嫉妬心を募らせ、絹代に「君を誰にも渡さない」と告げる。絹代も清光を愛しており、彼の家に入り浸るようになった。2人の噂は、たちまち撮影所で広まった。
絹代は清光から求婚され、それを受けるつもりだと家族に話す。絹代は準幹部に昇進したばかりであり、ヤエと源太郎は大反対する。城都も2人の結婚には反対し、清光に「2年待て。世間には内密に試験結婚しろ」と述べた。昭和3年、絹代は清光が新しく購入した家で、女優と妻の兼業を開始した。しかし清光は女癖が悪く、酔って絹代に怒鳴り散らすこともあった。絹代が幹部に昇進した夜、清光は酔って帰宅した。女癖の悪さを指摘された清光が暴力を振るったので、絹代は愛想を尽かし、1年と少しで同棲生活を打ち切った。
幹部になった絹代は城都の勧めを受け、借家を出て手頃な家に移った。源太郎は風邪をこじらせて肺炎になり、そのまま息を引き取った。昭和6年、城都は幹部俳優たちを箱根の旅館に集め、鈴木伝明が岡田時彦と高田稔を連れて脱退したことを話す。新興の映画会社が3人を引き抜いたのである。今後も引き抜きが予想される中、絹代は城都に「恩のある松竹を去ることは絶対にありません」と約束した。
駆け落ち同然で板前と所帯を持った玉代が久々に家へ舞い戻り、「店を持ちたい」と絹代に金を無心した。祥三と晴次は仕事が嫌で松竹を辞めており、ヤエは「それどころではない」と文句を言う。絹代は玉代に「お金はあげる。その代わり、私の家とずっと離れた所へ行ってほしい」と告げた。そして2人の兄には、「家でブラブラしてたらいいわ。私が養ってあげるわよ」と述べた。ヤエは胸の痛みに苦しむことが多くなっていたが、自分のことよりも、次々に男への恋心を抱く絹代を心配していた。
仲摩仙吉という男が絹代の家を訪れ、「弟子にして下さるから、御挨拶して来いと言われました」と告げた。幹部俳優たちに騙されたのだ。悪戯であることを教えた絹代だが、彼を付き人兼用心棒として使うことにした。昭和11年、松竹キネマの撮影所が蒲田から大船に移った。栗島すみ子と肩を並べる大幹部になった絹代は、鎌倉山に大豪邸を建築することにした。そんな中、ヤエは心臓発作で倒れ、そのまま息を引き取った。
昭和13年、絹代は主演作の『愛染かつら』が大当たりし、下がり掛けていた人気も盛り返した。しかし以前のように無茶をする人間がいなくなったことで、映画が面白くなくなったと彼女は感じていた。昭和15年、絹代は『浪花女』の撮影で、仙吉を連れて京都へ赴いた。列車で京都駅に到着すると、企画部の五十屋時雄だけでなく監督の溝内健二もやって来た。しかし何の話をするわけでもなく、ただ挨拶だけで早々に立ち去った。
絹代が宿泊先である釘貫屋に着くと、溝内のスタッフだという板梨たつえが訪ねて来た。彼女は何冊もの専門書を渡し、溝内が読んでおくよう言っていたことを伝えた。しかし絹代は台本を覚えれば充分だと考えており、1冊も読まなかった。京都に来てから1週間が経過しても打ち合わせさえ無いので、絹代は不安になった。そんな中、溝内が釘貫屋に現れた。彼は絹代に、「明日、大坂へ行って文楽を見学します」と告げた。絹代は面白そうな監督だと感じた。
ようやく撮影所での読み合わせが行われるが、溝内は何度もストップを掛けた。彼は黒板を置いて助監督に台詞を書き出させ、役者が喋りにくそうだと感じると、脚本家の依戸義賢を呼んで即座に改変させた。そんなことばかりを繰り返し、とうとう1カットも撮影せずに初日が終了した。翌日以降、溝内は絹代の演技に何度もダメ出しをするが、具体的な指示は出さなかった。「どうすればいいんですか」と尋ねる絹代に、彼は「貴方は役者でしょう?それで金を取っているんでしょう?それだけのことはやりたまえ」と静かに告げる。しかし溝内は絹代を嫌っているわけではなく、むしろ野性的で特別な魅力を持った女優だと感じていた…。

監督は市川崑、新藤兼人・作『小説 田中絹代』より 読売新聞社 刊 文春文庫版、脚本は新藤兼人&日高真也&市川崑、映画史監修は田中純一郎 日本映画発達史<中央公論社 刊>、挿入作品『西鶴一代女』『浪花女』(脚本:依田義賢)&『伊豆の踊子』(原作:川端康成、脚本:伏見晁)&『愛染かつら』(原作:川口松太郎、脚本:野田高梧)、製作は田中友幸&市川崑、プロデューサーは藤井浩明&新坂純一、企画は馬場和夫、撮影は五十畑幸勇、美術は村木忍、録音は大橋鉄矢、照明は斉藤薫、編集は長田千鶴子、助監督は吉田一夫、監督助手は手塚昌明、音楽は谷川賢作。
出演は吉永小百合、菅原文太、石坂浩二、森光子、中井貴一、沢口靖子、岸田今日子、井川比佐志、平田満、渡辺徹、上原謙、高田浩吉、横山道代、神保共子、三條美紀、常田富士男、佐藤正文、田中隆三、浜村純、倉崎青児、井上博一、戸井田稔、佐々木勝彦、曽雌達人、山口真司、長谷川裕二、吉宮君子、真下有紀、加賀谷由美、松岡由利子、大原穣子、木村真理、羽生田ユカ、宮内優子、清末裕之、大成修治、東健一郎、加藤満、佐古雅誉、横堀悦夫、小木曽孝司、神崎智孝、斉藤美奈子、亜湖、千種かおる、高橋ちか子、野分龍、鈴木誠一、小木茂光、奈良坂敦、小池雄介ら。
ナレーターは三國一朗。


新藤兼人が大女優である田中絹代の半生を綴った著書『小説・田中絹代』を基にした作品。
監督は『細雪』『おはん』の市川崑。
1985年に創設された毎日映画コンクールの「田中絹代賞」の第1回受賞者である吉永小百合が、主人公の田中絹代を演じている。
溝内を菅原文太、城都を石坂浩二、ヤエを森光子、五生を中井貴一、溝内の姪・川島聖子を沢口靖子、釘貫屋の女将を岸田今日子、五十屋を井川比佐志、仙吉を平田満、清光を渡辺徹、玉代を横山道代、たつえを神保共子、源太郎を常田富士男、駒井を佐藤正文、祥三を田中隆三、晴次を戸井田稔が演じている。
上原謙と高田浩吉が、本人役で特別出演している。

栗島すみ子や鈴木伝明、阪東好太郎(坂東好太郎)、小津安二郎、牛原虚彦など、実名で登場する映画人も多い。
だが、その一方で、微妙に異なる仮名になっている人もいる。
例えば溝内健二は溝口健二、城都四郎は城戸四郎、五生平之助は五所平之助、清光宏は清水宏、仲摩仙吉は仲摩新吉、依戸義賢は依田義賢だ。
仮名にしたところで、映画に詳しい人ならモデルが誰なのかは明白だし、ちょっとしか名前を変えていないことからすると、隠そうというつもりも無いんだろう(ちなみに絹代の家族の名前も異なる)。
もちろん実名を出せない事情も色々とあるんだろうとは思うけど、その辺りは伝記映画として中途半端だなあと感じてしまう。

それ以外にも、「中途半端だなあ」「なんか違うなあ」と感じる箇所のオンパレードだ。
アヴァン・タイトルからして、アプローチが違うと感じる。
冒頭、栗島すみ子の主演映画『不如婦』を映画館で熱心に見ている少女が写る。それは少女時代の絹代だ。
だから、そこからは「栗島すみ子に憧れたヒロインが映画女優を目指す」という成長の過程を描くなり、数年後の絹代を描くなりという展開に移るのかと思いきや、そうではない。
ナレーションが「大正10年前後と申しますと、映画はまだ活動写真と呼ばれていました。電気の作用で写真が被写体を動かす機械がアメリカから輸入されたのは、明治29年です。これが我が国の映画史の始まりとも言えます。長い歳月、世の中に色々なことがあったように、映画にもたくさんなことがありました」と語り出す。

そのナレーションが終わると、カメラ部の社員たちが現像部の仕事を手伝っている様子が写る。
そしてカメラ部の男が「不思議だなあ。これを繋いで映写機で回すと、写された人間が動き出すんだからなあ。大したことを考えた奴がいるんだねえ」と言い、タイトルが表示される。
まるで映画史を描く作品であるかのような導入部になっているのだ。
でもタイトルは『映画女優』なので、どうにもピントが合っていないと感じる。
合っていないと言えば、BGMが絶望的にミスマッチだ。

タイトルが明けると借家にいる絹代の一家が写し出され、源太郎とヤエが「先生のおかげで絹代は本日、松竹キネマ蒲田撮影所に正式に入れたんだからな。今日は、そのお祝いやからな」「先生が京都の下加茂撮影所から蒲田に戻らはることになって、臨時働きの女優の卵に過ぎなかった絹代に『大女優になるつもりやったら東京に出なきゃいかん。一緒に来るか』と誘って下さった」などと、これまでの経緯を全てセリフで説明する。
いやいや、それをドラマとして描くべきでしょ。
その後も、「それで思い切って、こっちへ来ることになったんやけど、私だけでは心許無いんで、兄さん無理に誘って来てもろた。株屋辞めさせてまでなあ」「この家も先生が見つけてくれはったんやからなあ」などと、セリフによる説明が続く。
長兄の徴兵検査で行方不明になって10年近くになること、下関の田中の家が倒産してすぐ父が死去したことなども、セリフで説明される。絹代が大阪にいた頃の様子は何も描かれず、そういうセリフで軽く説明されるだけ。
もはや誰かがツッコミを入れてコントにしなきゃ成立しないぐらい、説明のためのセリフで埋め尽くされる。

家族が女優になることに反対したのも、絹代が家計を助けるために小学校を辞めて琵琶歌劇に出演していたことも、後からセリフで説明される。
野村芳亭監督に拾われて松竹下加茂撮影所に入所した経緯や、デビュー作のことや、清水宏監督に『村の牧場』で抜擢されたことは、ドラマとして描かれないだけでなく、セリフでも触れられていない。
もちろん、絹代の半生に起きた出来事を全て盛り込んでいたら時間が足りないので、重要なポイント以外はカットしたり短くまとめたりしても構わないが、あまりにも不格好な構成だ。
「会話劇」ということじゃなくて、「説明文の羅列」なんだよね。

セリフによる説明を大量に盛り込んでいる一方で、お祝いのために待っていた清光が借家に現れると、すぐに撮影所のシーンへ移ってしまう。
清光と絹代たちのやり取りでドラマを作ったり、清光のキャラクターを紹介したり、そういうことには全くの無頓着なのだ。
で、今度は絹代のナレーションを使い、大部屋女優の賃金や撮影所での扱いについて説明を入れる。
さらには、「グラスステージというのは、天井がガラス張りなのです。照明の機械が明るくないので、太陽光線を利用したわけです。4日から5日で4巻物ぐらい、1時間ほどの映画を1本撮り上げなくてはならないのですから、現場は休む暇も無い有り様でした」と、特に必要性が無い説明まで盛り込む。

シーンが切り替わると、「えこひいきで絹代が役を付けてもらっているという噂を聞いた清光が、大部屋女優たちを注意する」という様子が写し出される。
つまり、「絹代が清光の映画に次々と出演する」→「大部屋女優たちが嫉妬心から陰口を叩く」→「それが清光の耳に入る」という過程がバッサリと削ぎ落とされているのだ。
五生平之助が『恥しい夢』で絹代を主演に抜擢したことも、それを知った清光が借家を訪れて説明を求めるシーンで、初めて明かされる。
そこまでに、まだ五生平之助は登場もしていないのだ。

清光は五生と城都について、「五生平之助というのはね、神田の乾物屋の息子でねえ。家族の大反対を押し切って映画の世界に入ったので、勘当されちまってるんだ」「所長というのは、府立一中、一高、東京帝国大学という学歴を経て来た秀才でね」と、これまた説明的なセリフを口にする。
その後、『恥しい夢』の撮影風景が描かれるのかというと、それは無い。
絹代が女優として演技をするシーンは、後半まで待たないと訪れない。
だから、「絹代が女優として人気を得て、どんどん出世していく」ってのも全く伝って来ない。

なぜ清光が絹代を重用したのか、なぜ五生が主演に抜擢したのかという理由も、彼女が演技をするシーンが無いのでサッパリ分からない。
城都は絹代を「異色の新人」と評するが、何がどう異色なのかは全く分からない。
『恥しい夢』が当時の松竹においてどれだけ革新的な映画なのか、『マダムと女房』がどれだけ重要な意味を持つ映画なのか、そういうことも、撮影シーンが無いので全く伝わらない。

始まって20分ほどで、「後からセリフを使って状況を説明する」という作業の、なんと多いことかと呆れ果てる。
その後も一事が万事、そんな調子だ。
「動く写真術が新しい文化として日本に迎えられたのは、覗き眼鏡のような見世物から、映像をスクリーンに映写機で投影するようになった頃からです。初めは舞台劇をそのまま写したり、芸者の手踊りや相撲などの単なる実写でしたが、日露戦争を写したフィルムは大変な反響を呼びました。明治の終わりから大正に掛けて、活動写真のための劇が作られるようになり、第一次世界大戦の好景気にも恵まれ、急速に発展しました」という映画史の説明が入り、『散り行く花』など海外映画について話す映画人の面々が描かれる。
そして、また絹代の出て来るエピソードが淡白に処理される。

絹代は「ハリウッドで新しい映画術を勉強して来られた牛原虚彦監督と、スポーツマン俳優の鈴木伝明さんとの出会いは、私にとって、とても幸運でした」「京都の下加茂撮影所で、『海国記』という映画で林長二郎さんの相手役をした時は、女優としてだけでなく興奮しました」「新人の小津安二郎監督と初めて仕事をしたのは、昭和4年です。作品は『大学は出たけれど』でした」とナレーションで語るが、牛原や鈴木との出会いが具体的にどのような意味を持つ出来事だったのか、小津との仕事でどういう刺激を受けたのか、そういうことは全く伝わらない。
何しろ、その面々と仕事をしている様子は、ドラマとして全く描かれないし。
で、また「昭和の初めに時代劇が映画界を風靡したのは、一つには自由な考えを持つことに圧力が掛かった当時の社会の風潮の反映だったのかもしれません」「現代劇にも社会性を取り入れた傾向映画が生まれ、文学の本格的な映画化もなされました」「欧米のトーキー映画が日本に公開されるようになったのは、昭和4年です」などと映画史の説明が入り、絹代のエピソードに戻る。
そういう手順の繰り返し。
「田中絹代を通して日本の映画史を描く」ということではなく、映画史を説明する部分は、完全に分断されている。

源太郎はいつの間にか倒れており、ナレーション・ベースの中で死亡する。ヤエは苦しんで倒れたかと思ったら、良介のことを絹代に頼んで、すぐに死亡する。
家族の死は、ものすごく淡白に処理される。
玉代は知らない内に板前と所帯を持っているし、絹代から店を持つための金をもらった後の経緯は全く触れられない。祥三と晴次は撮影所のスタッフとして雇われるが、その働きぶりは一度も描かれない内に辞めている。辞めた後は、鎌倉山の豪邸建設計画を話すシーンでチョロッと姿を見せるぐらい。
家族の存在価値は、ほぼ皆無に等しい。
結局、あれだけネタ振りをしていた「失踪した兄」の問題も、そのまま放置されて終わっているし。

昭和13年のシーンで絹代は、「俳優も裏方さんも映画を作るのに夢中だった。近頃の連中はどうだい。お上品ぶって自分のことだけで窮々している」と語る。
しかし、彼女がノスタルジーを感じるような映画を作っていた頃の役者とスタッフの「熱」を感じさせるような撮影風景なんて、一度も描かれていない。
ナレーション・ベースでグラス・ステージの様子が挟まれたことはあったが、それぐらいだし、あんなモンで「みんな情熱を持って映画を作っていた」ってのは全く伝わらない。
それに、現在の「みんなが自分のことで精一杯」という撮影現場の状況も描かれていないから、「今と昔の違い」ってのも伝わらない。

昭和15年のシーンで何冊もの専門書を渡された絹代は、「台本以外は読んだことが無い。役者というのは台本に書いてあることをそのままやれば良い。余分なことをする必要は無い」と口にする。
「今まではそうやって仕事をしてきたが、溝内は初めて会うタイプの監督だ」ということを示したいんだろう。
しかし、そこまでの展開において、携わった映画の撮影シーンは一度も無いし、それを撮った監督の演出スタイルを示すシーンも無い。
比較対象が無いので、今までの監督と溝内の違いってのが全く伝わらない。

『浪花女』の時に初めて、スタジオでの読み合わせや撮影の様子が描写される。
たぶん、そこまで一度も撮影風景を用意しなかったのは、そこを際立たせるための戦略なんだろう。
だけど、比較対象が無いと溝内の特異性ってのは伝わらないわけだし、そこまでは延々と説明の羅列でメリハリを持たせずに進めているせいで退屈になってしまうし、何のメリットも無いと思うぞ。
しかも、溝内がどういう位置付けの監督なのか、どういう作風の監督なのかってのをセリフで喋らせるなど、相変わらず説明が多い。ドラマの方の厚みや掘り下げは全く足りていないし、もちろん盛り上がりも無い。

『浪花女』の撮影を終えた絹代が列車で京都を去った後、すぐに昭和26年のシーンへ飛ぶ。そして、『西鶴一代女』の撮影で京都を訪れた彼女が、釘貫屋で溝内と話す様子が写し出される。
ここでは「(『女性の勝利』は)批評家から酷評されました。あれはアメリカ占領軍の下で映画を作らなければならない時に企画された安直な民主主義映画です」「次の『わが恋は燃えぬ』も貴方に出てもらったのですが、これもしくじりました」「私が自由民権時代の女闘士の役を上手くこなせなかったのです」「気が付けば会社が大事にする作品から外れていたのです」「新聞雑誌が貴方のことを老醜とまで書いたことがありましたね」と、今までの経緯や現在の両名が置かれている状況をセリフで説明する。
むしろ、昭和26年に飛ぶ前に、そこまでの経緯をドラマで描くべきでしょ。
そりゃあ時間的な制約もあるだろうけど、それにしても構成が不格好すぎる。

この映画、何をどう描きたいのかサッパリ分からない。
とにかくドラマ性が皆無に等しくて、メリハリとか盛り上がりとか、そういうことを全く考えていない。田中絹代の半生を掘り下げることなんて、まるで出来ていない。
1つ1つのエピソードを膨らませたり、余韻を持たせたり、登場人物に厚みを持たせたり、絹代との関係性を深く掘り下げたり、そういう作業は全くやっていない。そして映画史を見る面白さも無い。
何もかもが表面的で、そこを雑になぞって冷淡に消化しているという感じだ。
元々、市川崑という人は登場人物に中身を入れず、道具のように扱って冷たく描写する人だが、田中絹代の半生を描くべき作品でその演出をやったら、そりゃあ映画が死ぬのは当たり前だ。

(観賞日:2014年3月23日)

 

*ポンコツ映画愛護協会