『映画ドラえもん のび太の新恐竜』:2020、日本

のび太、しずか、ジャイアン、スネ夫の4人は、『大恐竜博2020』の博物館へ遊びに来ていた。ティラノサウルスの模型を見たのび太が逃げ出そうとしたので、ジャイアンとスネ夫は嘲笑した。スネ夫が「本物の恐竜がいるはずないでしょ」と言うと、のび太は「この世界のどこかに恐竜がいるかもしれない」と反発すると、またジャイアンとスネ夫は嘲笑した。しずかも嘆息し、のび太は6600万年前に隕石の衝突で恐竜が絶滅していることを聞かされた。
のび太は恐竜の化石発掘体験コーナーに参加し、またジャイアンとスネ夫から馬鹿にされる。腹を立てた彼は、「生きた恐竜を見つけてみせる」と宣言した。丸い石を見つけたのび太は恐竜の卵だと確信し、自宅へ持ち帰る。彼はドラえもんにタイムふろしきを貸してもらい、石を包んで様子を見ることにした。2日目の朝、石は卵に変化しており、孵化して2匹の恐竜が誕生した。おとなしいオスは緑色で背中にスペードの柄があり、活発に動き回るメスはピンク色で背中にハートの柄があった。
のび太は鳴き声を聞き、オスにはキュー、メスにはミューと名付けた。のび太は恐竜に小さな羽が生えているのに気付き、ドラえもんが宇宙完全大百科で調べる。しかし該当する恐竜は掲載されておらず、のび太は新種だと喜ぶ。のび太が「大きく育ててジャイアンとスネ夫をギャフンと言わせたい」と語ると、ドラえもんは「大きくなるまで」という条件で承諾した。のび太はパパとママに見つからないように、食料を部屋へ運んだ。ミューは何でも食べたが、キューは全く口を付けようとしなかった。
のび太は腹を立てて、キューに餌を与える気を無くしてしまう。しかしドラえもんから親としての自覚を持つよう促すと、のび太は博物館へ赴いて学芸員の恐竜博士に相談した。ヒントを貰ったのび太がマグロの刺身を与えると、キューは食べてくれた。しかし夜中にキューが嘔吐して苦しみ始めたため、のび太は恐竜博士を訪ねて助言を求めた。ドラえもんはお医者さんカバンで診察し、翌朝になるとキューは元気を回復していた。
のび太は学校に遅刻して先生に叱責され、体育の授業では逆上がりが出来ずにクラスメイトから嘲笑された。帰宅したのび太は、ミューが飛べるようになっているのを見て興奮した。キューものび太に促されて飛ぼうとするが、失敗して泣いた。ドラえもんは部屋で飼うのが難しくなったと感じ、飼育用ジオラマセットを使うことにした。のび太はインスタントミニチュアカメラで滑り台を設置し、キューに飛ぶ練習をさせようと考える。しかしキューは1度の失敗で、あっさりと諦めてしまった。
キューが飛べない理由を考えたドラえもんとのび太は、ミューに比べて尻尾が短いこと、サイズが小さいことに気付いた。のび太はしずか、ジャイアン、スネ夫を家に呼び、キューとミューを見せた。大きな物音を耳にしたママが部屋に来たので、ドラえもんはスモールライトでキューとミューを小さくしようとする。しかしスモールライトが見つからなかったので、空間移動クレヨンを使って屋根の上へ移した。ママにはバレなかったが近所の人々に恐竜を目撃され、ドラえもんは慌てて部屋に戻した。
ドラえもんはキューとミューを仲間のいる白亜紀へ連れて行こうと考え、しずかたちも賛成する。のび太は「絶対に嫌だ」と反対するが、ドラえもんが「これはルールなんだ。僕らは歴史を変えちゃいけない」と説いた。翌日、ドラえもんたちはタイムマシンに乗り、白亜紀へ向かう。しかしのび太のミスで誤ってジュラ紀に着いたことが判明し、一行は急いでタイムマシンへ戻る。その際、のび太はアロサウルスに追われ、飼育用ジオラマセットを沼に落としてしまった。
ドラえもんたちは白亜紀へ到着し、キューとミューの仲間を捜索することにした。一行はタケコプターで湖畔に到着するが、手掛かりは何も無い。そこでドラえもんは足跡スタンプを使ってたまご探検隊に捜索してもらい、自分たちは湖畔でキャンプすることにした。その夜、スネ夫は大きな猿の姿を目撃し、首をかしげた。その猿は上司のナタリーに報告を入れ、ドラえもんたちを捕獲するかどうか確認する。ナタリーは彼に、もう少し監視を続けるよう命じた。
翌日、ドラえもんたちはたまご隊長から届いた情報を元に、足跡を追った。プテラノドンの群れが来たので一行は慌てるが、ドラえもんは自分たちを襲うつもりではなくパニックに陥っているのだと悟った。森に避難した一行はたまご隊長と遭遇し、足跡が続く方向を教えてもらった。移動を始めた一行は、ティラノサウルスに襲われた。ドラえもんはともチョコを出し、ジャイアンがティラノサウルスのゴルと友達になった。しずかの提案で他の恐竜にもともチョコを使い、スネ夫はシノケラトプスのトップと友達になった。
恐竜の足跡は海沿いの崖で途切れており、ジャイアンとスネ夫は手分けして捜索しようと言い出した。ドラえもんは不安を覚えるが、結局は承諾した。ジャイアンとスネ夫は恐竜の骨が散乱する場所に足を踏み入れ、ゴルとトップは怯えた様子を見せる。彼らを監視していた猿は、コウモリに変身して飛び去った。それを目撃したジャイアンとスネ夫が後を追うと、コウモリは岩壁に姿を消す。ジャイアンとスネ夫はゴルとトップを待機させ、岩壁の中に入った。
ジャイアンとスネ夫が洞窟を進むと、恐竜の標本が並んでいた。その中には、キューとミューに似た恐竜の標本もあった。コウモリは猿に変身し、姿を消した。ジャイアンとスネ夫は追い掛けようとするが、2頭の恐竜に包囲される。そこへ猿が戻り、麻酔銃で恐竜を倒した。猿はジルという男の姿に変身し、麻酔銃でジャイアンとスネ夫を眠らせた。ドラえもんたちは大きな足跡を発見し、そこに巨大な翼竜が飛来した。ドラえもん、のび太、しずかはタケコプターで飛び去り、ミューも崖から飛んで逃げる。キューも追い詰められて崖から飛ぶが、すぐに墜落する。のび太はキューを救おうとするが、一緒に海へ沈んだ。
のび太とキューは失神するが、フタバスズキリュウが救助した。のび太は島の浜辺で目を覚まし、キューとミューに似た小型の恐竜が森の中を走り去る姿を目撃した。そこへドラえもんたちが来たので、のび太はそのことを知らせた。ジャイアンとスネ夫は潜水艦に監禁されていたが、ともチョコを利用して牢から脱出した。潜水艦にはジルと上司のナタリーが乗っており、ドラえもんたちの行動を把握していた。ドラえもんたちは島を捜索し、キュー&ミューと同じ種族の群れを発見した。ミューはすぐに仲良くなるが、空を飛べないキューは1頭の恐竜に襲われた。のび太は「僕が必ずキューを飛べるようにしてみせる」と宣言し、特訓を開始した…。

監督は今井一暁、原作は藤子・F・不二雄、脚本は川村元気、企画/監修は藤子プロ、チーフプロデューサーは小林順子&大金修一、プロデューサーは佐藤大真&川北桃子&勝山健晴、絵コンテは今井一暁、キャラクターデザイン/総作画監督は小島崇史、新恐竜デザイン協力は河毛雅妃、プロップデザインは鈴木勤、演出統括は八田洋介、演出は重原克也&押山清高、色彩設計は松谷早苗、美術監督は秋山健太郎&井上一宏、CGアニメーションスーパーバイザーは森江康太、監修は熊谷正弘、編集は小島俊彦、録音監督は田中章喜、音響効果は北田雅也、音楽は服部隆之、主題歌『Birthday』はMr.Children。
声の出演は水田わさび、大原めぐみ、かかずゆみ、木村昴、関智一、三石琴乃、松本保典、木村拓哉、渡辺直美、神木隆之介、遠藤綾、釘宮理恵、小野大輔、悠木碧、高木渉、萩野志保子(テレビ朝日アナウンサー)、慶長佑香、矢口アサミ、間宮康弘、下和田ヒロキ。


シリーズ第40作。
監督は『ドラえもん のび太の宝島』に続いてシリーズ2度目の登板となる今井一暁。
脚本も同じく『ドラえもん のび太の宝島』の川村元気。
ドラえもん役の水田わさび、のび太役の大原めぐみ、しずか役のかかずゆみ、ジャイアン役の木村昴、スネ夫役の関智一、ママ役の三石琴乃、パパ役の松本保典らは、TVシリーズのレギュラー声優陣。
ジルの声を木村拓哉、ナタリーを渡辺直美、キューを遠藤綾、ミューを釘宮理恵、恐竜博士を小野大輔、たまご隊長を悠木碧が担当している。

序盤、『大恐竜博2020』が開催されている博物館の学芸員(役名は「恐竜博士」)に、「世界にはまだ発見されていない恐竜がたくさんいる。ミッシングリンクを埋める新恐竜を、君たちが見つけることがあるのかもしれない」と言わせている。
「ミッシングリンクを埋める新恐竜」ってのは、この映画にとってものすごく重要な台詞のはずだよね。そんな台詞を、そのキャラに言わせるのはどうなのかと。
この恐竜博士って、「のび太が困ったら相談する」というトコで都合良く消費されるだけの存在なんだよね。
しかも、のび太が恐竜の治し方を尋ねるシーンがあるけど、その答えは良く分からないし。恐竜博士はどう答えて、のび太は具体的に何をしたのか全く分からないのよ。
そういうトコ、雑に扱っちゃいませんかと。

冒頭でしずかたちが「6600万年前に隕石の衝突で恐竜が絶滅している」と説明するが、これが古い学説なのは恐竜に詳しい人なら周知の事実だろう。現在では世界的に、「恐竜は絶滅していない。鳥は現在も生きている恐竜」ってのが定説になっている。
ただし、しずかたちは小学生なので、古い学説を信じていても別に構わない。しかしドラえもんが宇宙完全大百科で調べても小さい羽の生えている恐竜が掲載されていないのは、明らかに設定として無理がある。
今や恐竜に羽が生えていたことは実証されているので、それが宇宙完全大百科に掲載されていないことなど有り得ないのだ。そこがアップデートされていないのは、設定としておかしいのだ。
小さな羽があるキューとミューが「新恐竜」と定義付けられているのは、現在の学説を無視していることになる。

のび太がキューとミューを育てる中で、遅刻して先生に叱責されたり、逆上がりが出来なくて嘲笑を浴びたりする様子が描かれる。算数の問題が解けなくて先生に叱責されたり、徒競走で転んだりする様子が描かれる。逆上がりの練習を始めるが、すぐに諦める様子が描かれる。
そういう様子の挿入は、どうやら「のび太とキューを重ねて、努力して成長する姿を描く」ってのを意図しているようだ。
キューが練習を重ねて飛べるようになり、それを受けてのび太も逆上がりが出来るように努力を重ねるという展開を描きたかったわけだ。
だけどね、それは『ドラえもん』という作品の本質を全く理解していないとしか思えないのよ。

ドラえもんはのび太が簡単に泣き付いて秘密道具をねだった時、渋ることはあっても結局は出していた。のび太が調子に乗って痛い目を見ることはあっても、基本的に「ドラえもんが努力を促すため、あえて力を貸さない」ってことは無かった。
それが一部の保護者や知識人から批判の対象になることもあったが、それは原作で決して揺るがなかった基本原則だった。
そこには、藤子・F・不二雄先生の「出来ない子供も温かい目で見てあげようよ」という意識があったのだ。
だから、そこは何があっても決して改変しちゃいけないのだ。

ドラえもんはミューが飛べるようになった時、「もう部屋で飼うのは難しい。ママに見つかるのも時間の問題」と言う。そこでドラえもんは、飼育ジオラマセットの中で育てようと考える。
だが、その後もミューとキューを部屋で遊ばせるシーンが何度か入る。
「ジオラマを完成させるまでは中に入れっ放しにしない」ってことなのかもしれないが、別に完成前からセットに入れておいても何の問題も無いはずでしょ。
あと、少なくともしずかたちに紹介する時は、部屋じゃなくていいでしょ。ミューとキューは飼育ジオラマセットに入れておいて、自分たちがスモールライトなりガリバートンネルなりで小さくなればいいだけでしょ。

ドラえもんはキューとミューを白亜紀へ連れて行こうとする時、嫌がるのび太に「これはルールなんだ。僕らは歴史を変えちゃいけない」と説く。
だけど、そもそも恐竜の卵をタイムふろしきで孵化させている時点で、ルールを破っていると言えなくもないでしょ。
あと「歴史を変えちゃいけない」と言うけど、今まで何度もタイムマシンを使って過去と未来を行ったり来たりしているので、「どの口が言うのか」とツッコミを入れたくなるぞ。今までだって、さんざん歴史に関与しているぞ。
そもそも、のび太はジャイ子と結婚するはずだったのに、ドラえもんの介入によって未来を変えているんだし。

キューが群れの1頭に襲われて怪我を負った時、のび太は悔し泣きしながら「仲間だよ。どうして?飛べないから?体が小さいから?尻尾が短いから?」と言う。その後、彼は「必ず飛べるようにしてみせる」と宣言し、キューへの特訓を開始する。
結果としてキューは飛べるようになるけど、これを「努力すれば必ず出来る」という感動的なドラマとして描くのは違うでしょ。
「努力すれば必ず達成できる」ってことで、特訓を肯定しちゃダメでしょ。
根性論で安易に解決するなよ。

のび太は「みんな飛べるんだよ。キューも飛べるはずだよ」と言うけど、それは間違った主張なのよ。
その論法だと、のび太は「みんな勉強が出来るんだから、君も出来るはずだよ」ってことになるでしょ。
いや勉強に限らずスポーツにしても同じことだけど、のび太は周囲の子供が当たり前に出来ることを全く出来ない子供なのだ。
でも、藤子・F・不二雄先生は「出来なくても大丈夫だよ」というスタンスで、のび太を描いていた。
それを本作品は、完全に無視している。

のび太は自分も逆上がりの練習をすることで、キューに努力の大切さを教えようとする。
だけど、それはキャラが変わっちゃってるでしょ。「頑張って努力すれば目標は必ず達成できる。生きて行く上では、努力が必要だ」なんてのは、『ドラえもん』で発信すべきメッセージじゃないんだよ。
あと、しずかがのび太の良さとして「痛みや悲しみが分かる。それに寄り添ってあげることが出来る」と言うけど、それも違うからね。
「買い被りすぎだろ」と言いたくなるぞ。のび太はそんなに立派な人間じゃないぞ。

のび太が言っているように、例え飛べなくても、体が小さくても、尻尾が短くても、キューはそこにいた恐竜たちの仲間なのだ。
だったら、「飛べないと仲間になれない」という結論に至るのはダメなんじゃないのか。「飛べなくても仲間になれる」という結末を用意しないと、『ドラえもん』の物語としてはマズいでしょ。
もちろん、「努力して成長する」ってのは素晴らしいことだし、それが否定されるべきではない。ただ、そういう物語を描きたいのなら、『ドラえもん』以外の作品でやるべきなのだ。
『ドラえもん』の世界観に、それを持ち込んじゃいけない。それは『ドラえもん』という作品の全否定にも繋がりかねない。

粗筋では触れなかったが、のび太とキューを救ったフタバスズキリュウは『のび太の恐竜』のピー助だ。きっと長く作品を見て来たファンへのサービスのつもりなんだろうけど、そんなのは大間違いだよ。
ここでピー助を登場させたら、のび太は「ピー助を孵化させて育てた経験があるのに何も学習したり成長したりせず、同じ過ちを繰り返している」ってことになるでしょ。
あと、そもそも『のび太の恐竜』をリメイクする企画の段階でアウトだろ。どんだけアイデアを出す能力か足りていないんだよ。
藤子・F・不二雄先生は生前、たった1人で劇場版の度に新しい物語を用意していたんだぞ。それを引き継いだ今のスタッフは大勢で集まって企画を考えているはずなのに、なんでリメイクばかりになるんだよ。
キューに特訓を強いる暇があったら、自分たちが必死で頑張れよ。

「恐竜が滅んで哺乳類が繁栄し、人間がいる」とジルが説明しても、ドラえもんやのび太たちは恐竜を救おうとする。
「それによって人類が誕生しなくなるかもしれない、自分たちが産まれなくなるかもしれない」という不安は、全く感じていない。
それは考えの浅いバカにしか思えない。
あと、歴史改変を取り締まっているタイムパトロールが、「のび太が飼育用ジオラマセットを落としたことで新恐竜の島が誕生した」という大きな歴史改変を見過ごしているのはダメだろ。

終盤、キューはピンチに陥ったのび太を救うため、空を飛ぶ。それを見たジルは、「これこそ進化の瞬間だ。無様な動きは羽ばたきの前兆だった」と言う。
「かつて恐竜は滑空から羽ばたきを覚え、鳥への第一歩を踏み出した。今、その瞬間を我々は目撃したんだ。彼らは絶滅していない。鳥に姿を変えて生き続ける」と彼は語るけど、それは大嘘だからね。
キューが飛ぶ前から、既に「恐竜は絶滅していない。現在の鳥が恐竜」ってのは定説になっているのよ。
歴史改変を取り締まるタイムパトロールの口を借りて、そういうマジな歴史改変を堂々と描いたらダメでしょ。

既に恐竜業界では定着している学説を無かったモノのようにして、「キューが飛んだことによって恐竜の絶滅は無くなり、鳥に進化した」という偽りの歴史改変で上書きするという暴挙には、恐れ入谷の鬼子母神だわ。
そもそも生物の進化ってのは、そんな一瞬で生じるモノではないし。少しずつ変化していくモノなのよ。
そして当然のことながら、生物は努力によって進化するわけでもない。環境に適応するために、ある意味では逃避として進化するのだ。
映画を見る子供たちに、嘘の科学を真実のように教えちゃダメでしょ。

(観賞日:2022年7月19日)

 

*ポンコツ映画愛護協会