『あずみ』:2003、日本
戦国時代末期、徳川家康は石田三成軍を倒すが、豊臣秀吉の遺児・秀頼の成人を待って蜂起を企む有力大名も少なくなかった。そこで家康の側近である高僧・南光坊天海は小幡月斎に命じ、反乱分子壊滅のための刺客を育てさせることにした。
月斎は孤児・あずみの素質に目を付け、なち、うきは、ひゅうが、あまぎ、ながらといった仲間達と修練を積む。10年が経ち、月斎は最後の試練のために仲の良い者同士で組むよう告げた。だが、最後の試練とは仲間同士で殺し合うことだった。あずみは、なちを殺した。そして彼女は生き残った仲間と共に、育てられた谷を出た。
あずみ達は天海の使者・長戸を通じて、有力大名の浅野長政、加藤清正、真田昌幸の暗殺を命じられた。浅野長政と加藤清正を討ち取った後、あずみ達は旅芸人一座の子供達と知り合った。ひゅうがは旅芸人の少女、やえに一目惚れした。
しかし、あずみ達の任務は完了していなかった。実は加藤清正は側近・井上勘兵衛の策略によって、影武者に差し替えられていたのだ。勘兵衛は佐敷一心、二斎、三蔵の三兄弟に、あずみ達の抹殺を命じた。旅芸人一座があずみ達と間違えられ、襲撃を受ける。あずみ達が駆け付けるが、やえ以外は皆殺しにされてしまった。
清正が生きていると知った月斎は、忍者の毒にやられたあまぎを残して出発しようとする。あずみとひゅうがは仲間を見捨てることに反対し、月斎から置き去りにされた。ひゅうがは、やえから田舎で一緒に暮らそうと誘われる。しかし勘兵衛の忍者・飛猿が呼び寄せた最上美女丸が現れ、ひゅうがをやえの目の前で斬った…。監督は北村龍平、原作は小山ゆう、脚本は水島力也&桐山勲、プロデューサーは山本又一朗&中沢敏明、共同プロデューサーは佐谷秀美、企画は濱名一哉&遠谷信幸、製作統括は児玉守弘&気賀純夫&亀井修&坂上直行、撮影は古谷巧、編集は掛須秀一、録音は小原善哉、照明は高坂俊秀、美術監修は西岡善信、美術は林田裕至、アクションディレクターは諸鍛冶裕太、音楽はSEXTASY ROOM、音楽プロデューサーは岩代太郎。
出演は上戸彩、オダギリジョー、原田芳雄、竹中直人、北村一輝、佐藤慶、伊武雅刀、小橋賢児、成宮寛貴、金子貴俊、石垣佑磨、岡本綾、遠藤憲一、清水一哉、坂口拓、松本実、榊英雄、りょう、小栗旬、佐野泰臣、鈴木信二、永山瑛太(瑛太)、山口翔悟ら。
小山ゆうの同名漫画を基にした作品。
脚本の「水島力也」は、日本のマリオ・カサール、山本又一朗プロデューサーの変名。そもそも漫画自体が、彼の提案で誕生したらしい(小山ゆうと山本又一朗は、元・さいとうたかおプロの仲間)。
あずみを上戸彩、美女丸をオダギリジョー、月斎を原田芳雄、清正を竹中直人、勘兵衛を北村一輝が演じている。他に、天海を佐藤慶、長政を伊武雅刀、ひゅうがを小橋賢児、うきはを成宮寛貴、あまぎを金子貴俊、ながらを石垣佑磨、やえを岡本綾、一心を遠藤憲一、二斎を清水一哉、三蔵を坂口拓、飛猿を松本実、長戸を榊英雄、なちを小栗旬が演じている。一部では「上戸彩の初出演映画」となっているようだが、それは間違い(「初主演」なら正解)。
1999年に『殺人者 KILLER OF PARAISO』という劇場公開作品に出演している。
本人や所属事務所は経歴から消したいかもしれないが、事実は変えられない。原作の通りだから仕方が無いんだが(でも原作を読んだ時には気にならなかったんだよな)、そもそも仲間同士で殺し合いをさせるシーンからしてバカに見える。
月斎の目的は、多くの優秀な刺客を育てることのはず。
にも関わらず、トップを争うあずみとなちに殺し合いをさせるってのは、どういうことか。それは使命の厳しさを教える試練というより、無駄に優秀な刺客を減らす愚行としか思えない。しかも、その殺し合いをさせるシーンに、説得力が皆無。月斎は「逃げようとしても生きる道は無い」と言うが、仲間を殺さず、普通に逃げればいいんじゃないかと思ってしまう。あずみは殺し合わねばならない状況に理不尽を感じるかもしれないが、こっちは「なんでテメエらは殺し合いを回避しないんだよ」ということに理不尽を感じてしまう。
たぶん、あずみ達には、殺し合いを避けられない理由があるのだろう。そのようには全く見えないのだが、どうやら彼女達はマインド・コントロールされているらしい。しかし残念ながら、製作サイドの思惑に、こっちがマインド・コントロールされることは難しい。中盤、あまぎを置いていこうとする月斎に、あずみは「仲間を見捨てるのか」と反発する。しかし、お前は最初に仲間を自分の手で殺しているのだぞ。そこの矛盾はどうするのか。
ここは、「あずみが洗脳から解けつつある」という変化のドラマがあれば納得できることなのかもしれない。
しかし前述したように、そんなモノは無い。勧善懲悪のヒーローなら、そんなに深い心情描写は必要無いかもしれない。そんなに説明しなくても、正義に燃えているということが分かれば観客は乗っていける。
しかし、あずみは正義の味方ではない。
洗脳されたモンスターとして登場しているはずだ。
だから普通に考えれば、彼女には洗脳されたモンスターとしての時期があり、何かのきっかけで疑問が生じて苦悩や葛藤を見せるようになり、人を殺すことの意味を確認し、成長するドラマがあるはずだ。
しかし、この映画は、そこを思い切って削ぎ落とす。北村監督は、完全にアクションだけに特化した人(アクションシーンの演出以外には全く興味を示さない)で、ドラマ演出は上手くない。だから、そもそもドラマ描写が必要な映画に彼を起用したことが間違いだ。
基本的に、彼はB級アクション映画の人だろう。
そのように、ドラマ演出が下手な監督が、お世辞にも演技力があるとは言えない若手俳優の面々と組んでいるのだから、そりゃあドラマ部分は散々な状態になって当たり前だ(たぶんシナリオの良し悪しに関わらず、そうなったと思う)。では、ドラマを犠牲にして構築したアクションシーンがどうなのかと言うと、これがヘナチョコなのである。
考えてみれば、現代劇でさえ精一杯の少年少女にチャンバラをやらせたところで、マトモな立ち回りが出来るはずも無い。だから台詞回しやドラマ部分の芝居はともかくとして、アクションシーンの動きのマズさに関しては、若手の面々を責めるのは酷かもしれない。
アクションが出来ない役者でアクションシーンを撮る場合、カットを細かく割るのが常套手段だ。しかし、これは1つ間違えると、何がどう動いているのか良く分からなくなるという問題が生じる恐れがある。
この映画は、その罠に見事に落ちている。
また、要所要所でスロー映像も使っているが、これは逆に動きの拙さを目立たせている。ワイヤーアクションやCGなど、それなりに特効も使っている。しかし、この映画に出演している面々の殺陣を飾るには、あまりに中途半端だ。あずみが湖に石を投げると爆発が起きて魚が打ち上げられるとか、変なところでバカバカしい誇張は見られるのだが、アクションシーンでの誇張、荒唐無稽が物足りないと感じる。
例えばツイ・ハーク映画のように、完全に空を飛ぶとか、武器が有り得ない動きをするとか、SFの世界に足を踏み入れるぐらいの開き直りが必要だったのではないだろうか(原作からは大きく逸脱するけれど)。
それで映画が面白くなるのかと言われても、そんなことは知らない。だが、少なくとも「アクションの拙さを隠す」という意味においては、かなりの効果があるだろう。クライマックスとなる200人斬りは、例えば近衛十四郎や勝新太郎のように立ち回りの上手い人なら、見せ場になるだろう。しかしチャンバラが下手な人間の場合、そう簡単には行かない。そこを細かいカット割りだけで乗り切るのは、かなり苦しい。
そうなると、やはり前述したようなバカバカしい誇張で行くしかないだろう。
しかし、そこに突き抜けた荒唐無稽は無いのである。
むしろ、あずみと美女丸との対決などは、カメラワークこそ凝っているものの、殺陣の動きはマトモに捕らえようとするので、技量の拙さがバレバレになってしまう。
そこには、見せ場を成立させる説得力など無いのに。どうせ若い連中を配役した時点で、真っ当なチャンバラ映画になる可能性など消えているのだから、「徹底した荒唐無稽なバカ活劇を撮ろう」という志を持てばいいのだ(それは決して低い志ではない)。
バカになるなら、徹底してバカになれと言いたい。
もしかすると、北村監督は日本のポール・アンダーソン(真ん中に“トーマス”が入らない方)になれるんじゃないかと思ったこともあった(それが誉め言葉かどうかは皆さんが判断してください)。
しかし、どうやら日本のラッセル・マルケイぐらいに収まりそうだ。監督や出演者にとってラッキーだったのは、説得力のある言い訳が用意されていることだ。
「稀代のスーパー・プロデューサー、山本又一朗大先生が製作し、脚本にまで携わっているのだから、ポンコツ映画でも仕方が無い」と言い訳が。
自分の演出や演技を棚に上げて、マタ・ヤマモトに全責任を被せることが出来るのだから、良かったね。