『アヴァロン』:2000、日本
近未来、現実に失望した若者たちは、仮想戦闘ゲームに熱中していた。その死を伴うゲームは“アヴァロン”と呼ばれ、大勢の若者たちがパーティーを組んで参加した。ランクを上げてミッションをクリアすれば、それに応じて報酬を得ることが出来た。“アヴァロン”は時に脳を破壊されて帰還できなくなる廃人を生み出す危険があり、非合法なゲームだった。かつて“ウィザード”という伝説のパーティーに参加していたアッシュは、現在はソロプレイヤーとして“アヴァロン”に参加していた。ゲームの中では凄腕の女戦士であるアッシュだが、現実世界では1人で静かに暮らしていた。
ある日、アッシュは自分と同じ戦法を使って自分より速いタイムでクリアしたプレイヤーの存在を知る。そのビショップというプレイヤーは、明らかにアッシュを挑発する態度を見せていた。アッシュはビショップについて端末で調べるが、何の情報も分からなかった。彼女はゲームマスターに、「ビショップの情報が知りたい」と依頼した。「他のプレイヤーと接触を持たない主義じゃなかったのかね」と質問されたアッシュは、何も答えなかった。
かつてウィザードのメンバーだったスタンナが、アッシュの元を訪れた。戦士ではなく盗賊のスタンナはソロプレイヤーとして活躍することが難しいため、現在はガイド役を務めていた。アッシュが早々に会話を切り上げようとすると、スタンナはウィザードのリーダーだったマーフィーのことを口にした。マーフィーはソロプレイヤーとしてゲームに参加していたが、ロストしてしまったという。
クラスAの隠れキャラクターである哀しそうな目をした少女“ゴースト”を追い掛けたプレイヤーは、そのまま未帰還になってしまうと言われている。それでも多くのプレイヤーがゴーストを追い掛けるのは、リセット不能の幻のフィールド“スペシャルA”が存在するという噂に関係している。そこは危険な地域だが、獲得できる経験値も法外だと言われているのだ。そして、ゴーストはスペシャルAを開く唯一のゲートだと噂されていた。
病院を訪れたアッシュは、ゴーストを追い掛けて廃人になってしまったマーフィーの姿を目にした。帰宅したアッシュは端末でアヴァロンやゴーストについて調査し、「九姉妹」というキーワードに辿り着いた。アッシュが九姉妹との接触を試みると、「クラスAの廃墟C66で待つ」というメッセージが届いた。アッシュがゲームマスターに九姉妹のことを尋ねると、「伝説の島、アヴァロンを支配する9人の女神のことだ」という答えが返って来た。
ゲーム空間に入ったアッシュが廃墟C66へ行くと、「九姉妹のジル」と名乗る女性が現れた。しかし彼女は仲間たちと共にプレイヤーの装備を奪うグループだった。アッシュは隙を見せたジルを人質に取り、彼女の仲間として現場に現れたマーフィーに九姉妹のことを尋ねた。九姉妹がアヴァロンの管理者であることをアッシュが聞き出した直後、戦闘ヘリが襲来して。攻撃を仕掛けて来た。アッシュは装置を外し、ゲームをリセットした。
アーサー王伝説に関する書物を購入したアッシュを、スタンナが待ち受けていた。彼は「ゴーストとの遭遇条件を知りたくないか?」と持ち掛け、朝食に誘う。スタンナはアッシュに、「ゴーストと遭遇したパーティーには必ず司教がいたらしい。即席の司教を仕立て上げてゴーストを狙った奴もいたが、それでは駄目だ。クラスAをコンプリートし、レベル12以上という条件が必要だ」と告げた。マーフィーはソロプレイヤーだが、本人がレベル12以上の司教だった。
アッシュが戦士から司教に転職しようとすれば、倍以上の経験値が必要だ。しかも司教は戦士に比べて、遥かに成長が遅い。そうなるとパーティーを組むしか手は無いが、そもそもレベル12以上の司教は数が少なかった。だが、帰宅したアッシュの元を、ビショップが訪ねて来た。彼はアッシュがレベル12以上の司教を必要としていることを知っていた。さらに彼は、ウィザード解散の原因が、アッシュが恐れをなしてリセットしたことにあるという噂も知っていた。
アッシュはビショップに不信感を抱きながらも、パーティーの召集を依頼した。自分の他には戦士と盗賊、それに魔導士という顔触れを揃えるよう頼むと、ビショップは「明日の24時に会おう」と告げて去った。アッシュはビショップに管理者としてスカウトされた受付係の女性と出会い、「ビショップは膨大な設備と資金を持っていて、自前の端末でアクセスしている。あの男とは関わらない方がいい」と警告された。しかしアッシュはクラスAのフィールドに入り、ビショップの集めたパーティーと合流する。その中にはスタンナの姿もあった。アッシュのパーティーはビショップの助言を受けながらクラスAのフィールドを移動し、ゴーストと遭遇した…。監督は押井守、脚本は伊藤和典、製作総指揮は渡辺繁&香山哲&塩原徹&坂上直行、プロデューサーは久保淳、共同プロデューサーはウノザワシン&川城和実、撮影監督はグジェゴジ・ケンジェルスキ、美術はバルバラ・ノバク、衣裳デザイナーはマグダレナ・テスワフスカ、視覚効果監修は古賀信明、デジタルアート・ディレクターは林弘幸、メカニック・デザイナーは竹内敦志、編集は大久保宏、音楽は川井憲次。
出演はマウゴジャタ・フォレムニャック、ヴァディスワフ・コヴァルスキ、イェジ・グデイコ、ダリウシュ・ビスクプスキ、バルトウォミエイ・シフィデルスキ、カタジナ・バルギエオフスカ、アリシィア・サプリック、ミハウ・ブライテンヴァルド、スザンナ・カシュ、アダム・シュズコウスキ、クルシュトフ・シュゼルビンスキ、マレク・スタウィンスキ、ヤロスラウ・ブドゥニク、アンドレイ・デブスキ他。
押井守が撮った1992年の『Talking Head トーキング・ヘッド』以来となる実写映画。
日本の映画だが、ポーランドで撮影が行われており、出演しているのは全てポーランドの俳優たちだ。
アッシュをマウゴジャタ・フォレムニャック、ゲームマスターをヴァディスワフ・コヴァルスキ、マーフィーをイェジ・グデイコ、ビショップをダリウシュ・ビスクプスキ、スタンナをバルトウォミエイ・シフィデルスキ、受付係をカタジナ・バルギエオフスカ、ジルをアリシィア・サプリックが演じている。押井守はポーランドをロケ場所に選んだ理由として、軍の協力が得られて武器が借りられること、ポーランド語の響きが好きだったことなどを挙げている。
ようするに、「興味のあった武器に触れることが出来る」「自分が好きなポーランド語を使うことが出来る」という、ものすごく個人的な願望によって、ポーランドでの撮影を行ったわけだ。
それが映画を面白くするために効果的かどうかなんて、彼には関係が無いのだ。
そして実際、それは映画を面白くするためには全く役立っていない。そんな身勝手なロケーションをバンダイがOKしたのには、仕方の無い事情があった。
そもそもバンダイは、押井守に『ガルム戦記』という大作映画を撮ってもらう予定だった。
バンダイはハリウッドに対抗できる新世代の映像作品を作り出す目的で、「デジタルエンジンプロジェクト」という企画を立ち上げ、巨額の資金を投じていた。幾つかの映画が企画され、その中には実写と特撮とアニメを融合させたハイファンタジー映画の『ガルム戦記』もあった。
『ガルム戦記』は製作総指揮はジェームズ・キャメロンが務め、豪華スタッフが結集した製作費60億円の大作映画として企画が進められていた。しかしセガとバンダイの合併騒動などにより、プロジェクトは見直しが行われ、『ガルム戦記』の企画は凍結されてしまった。
だが、凍結までに多額の開発費が投入されており、書面としては企画が残されている。そこでバンダイは、別の映画を押井守に撮ってもらい、その「厄介な存在」になった企画を終わらせてしまおうと考えた。
こうして製作されたのが、この作品である。この映画の製作費は、『ガルム戦記』で最初に予定されていた規模から10分の1に縮小された6億円。
随分と減ってしまったが、それと引き換えに押井守は、「好き勝手に映画を作る」という権利を手に入れた。
そして好き勝手にやらせると、押井守はロクな映画を作らない。
彼は娯楽映画を撮るセンスも、娯楽映画を撮ろうとする意識も、どちらも皆無なので、そういう感覚を持っているプロデューサーがコントロールしておかないと、「押井守のコアなファンしか楽しめない映画」を作ってしまうのである。押井守は基本的に「映像と哲学の人」なので、今回も映像に対する強いこだわりを見せている。
撮影した映像の彩度を抑えて加工し、元の色が微妙に残った「モノトーンのようでモノトーンでない(ベンベン)」という色調の映像が多く含まれている。
ただし、それはフィルムを加工する作業の中で結果的に産まれた色調であり、押井守が最初からイメージしていた映像とは微妙に異なるらしい。
「じゃあ失敗ってことになるんじゃないのか」という問題はさておき、そうやって色彩を加工したことが映画にとってプラスに作用しているのか、それが映画の面白さに繋がっているのかと問われたら、答えはノーだ。 しかし、どうせ押井守は映画の面白さを考えて色彩をいじったわけではなく、ただ単に自分がやりたかったら加工しただけだ。やり放題に出来る本作品で、押井守は「アニメーションのように実写映画を撮る」という手法を取った。
映像の色調を加工しただけでなく、背景や俳優たちの姿も、アニメーションで原画や動画を描き直す作業のように加工したのである。
どういうことかと言うと、背景の建物を消し去ったり、俳優の顔の一部分を少し変化させて別の表情にしてみたり、そういうことをやっているのだ。
背景を消したり無かった建物を加えたりというのは、VFXを使った実写映画では特に珍しくもない作業だが、俳優の表情をいじるのは珍しい。俳優のパーツを勝手に変えるってことは、もはや「そのシーンに応じた演技を役者がする必要は無い」ということになる。
それは、役者に対して「君は道具に過ぎない」と宣告しているようなものだ。
だが、それに関して押井守は、「映画は監督やスタッフの物であり、役者の物ではない」という持論を主張している。
その意見についての賛否はひとまず置いておくとして、「監督の物だ」ということで表情を加工するのなら、それは「役者をコントロールして監督のイメージ通りの演技をさせるため」の作業ってことになる。本来、監督のイメージするような表情や演技を撮りたいのであれば、それは演技指導で行うべきだ。それをやらず、映像の加工によってイメージ通りの演技を作り出そうとするのは、映画監督として怠慢だと言わざるを得ない。
もしも指導によっ俳優の演技をコントロールする能力を持ち合わせておらず、だから映像の加工に頼ったということであれば、そんな人は実写映画を撮る資格など無いしね。
俳優たちの演技を加工によって作り出したことで、「アニメーションのように実写映画を撮る」という手法を採用したのが、マトモな実写映画を撮ることが出来ない言い訳に過ぎないモノとなった。
ともあれ、押井守は俳優の表情や芝居を加工して変化させたわけだが、では、それによって俳優たちはシーンに応じた見事な芝居をしているのか、優れた演技者になっているのかというと、これが酷いんだ。大根役者以外の何者でもない。 たぶん、そもそも演技が上手くない役者を起用しているってこともあるんだろうけど。アニメーション映画というのは、もちろん実写映画における俳優たちと比べれば、細かい演技が難しいという制約がある。そのため、動きを大げさに描いたり、普通の人間があまり見せないような動きで感情を表現させたりするケースもある。
しかし、どういう演出であっても、そこには間違いなく素直な喜怒哀楽の表情や、気持ちを表す仕草ってモノがあった。
だが、この映画の登場人物は、「完全に何も感情が無い」というわけではないが、生身の人間とは思えない。
そこに生命力が乏しいのである。そういう登場人物の表現は、「アニメーションのような映像」とは言い難い。
アニメーションでも、もっと生き生きとしたキャラクターは登場する。ここに登場する人物たちは、質の悪い3Dゲームのキャラクターのようだ。
ただ、ある意味では、とても押井守らしいとも言える。
『うる星やつら』や『機動警察パトレイバー』のように漫画やアニメでキャラクターが既に出来上がっている場合は別だが、押井守が制御されない状態で作ったアニメーション作品では、登場人物は感情表現や生命力が著しく乏しいのだ。
結局、押井守にとっての登場人物というのは、哲学を語るための駒に過ぎないのだ。そうやって俳優を道具に使って押井守が描きたかったテーマは、「現実と非現実の違いとは何なのか」「生きるとは、どういうことか」といった辺りだろう。
それは彼が『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』や『GHOST IN THE SHELL 〜攻殻機動隊〜』といった過去の映画でも取り上げて来たテーマだ。
押井守は良くも悪くも(コアなファン以外からすると明らかに「悪い」のだが)、変わらない人なのだ。
それを「確固たる信念があってブレない」と好意的に捉えることも出来るだろうが、いつもグダグダした小難しい哲学問答をやっているだけで伝わって来るメッセージは皆無に等しいので、「まるで成長していない」という印象が強い。前述したように、俳優の表情や動きを加工しても演技の質が向上しているわけではなく、むしろ感情表現が削ぎ落とされている。
それでも、「クールな戦士」として魅力的なキャラクターに見えれば何とかなったかもしれないが、そんなことは全く無い。
キャラクターには物語を引っ張っていくだけの魅力が欠けている。そのキャラクターを活かすためのドラマ作りも行われていない。
っていうか、ストーリーも、これっぽっちも面白くないしね。根本的な問題として、「若者たちが仮想戦闘ゲームに熱中している」というところで惹き付けられない。
劇中で行われているゲームには何の魅力も感じないので、なぜ若者たちが熱中するのかサッパリ分からない。それに、劇中で「多くの若者たちが熱狂している」という表現が盛り込まれているわけでもないし。
それと、そういう世界観の設定にしろ、映像表現にしろ、公開された2000年の時点で、既に目新しさは全く無いんだよね。そこの新鮮味ではなく他の部分で勝負しているってことなら別に構わないけど、他に勝負できるようなポイントも見当たらないし。
せめてアクションシーンに引き付けるモノがあれば救いになるが、そこもつまんないだよなあ、これが。(観賞日:2013年12月23日)