『映画 あたしンち』:2003、日本
その日、母は天気が悪い中を買い物に出掛けた。帰宅途中で雷雨になり、怯えた母は自宅にいる高校生の娘・みかんに電話を掛け、途中まで傘を持って迎えに来てもらうことにした。母とみかんは、ほぼ同時に歩道橋にやって来た。同じ頃、帰宅途中だった父と息子・ユズヒコは、母とみかんの姿を目撃した。
母とみかんは、歩道橋を上がって落ち合おうとした。その時、2人は同時に足を滑らせ、ものすごい勢いで頭から激突してしまった。それと同時に、2人に雷が落ちた。気付いた時、母とみかんの中身が入れ替わっていた。つまり、みかんの精神は母の体に入り、母の精神はみかんの体に入ってしまったのである。
母は「仕方が無い」と諦めるが、みかんはショックで泣き出してしまう。父は「見た目は変わらぬ家族なので、今まで通りに暮らそう」と告げる。ユズヒコが「同じことを再現すれば元に戻るかも」と言い出したため、母とみかんは歩道橋で頭をぶつけてみるが、元には戻らない。そこで2人は、雨や雷といった条件が揃っている時に、再び挑戦することにした。
母はみかんからクラスメイトのことを学習し、学校へと出掛ける。しかし母は普段のみかんとは全く違う行動を取り、みかんの友人・しみちゃんを困惑させる。みかんは家事を担当するが、これまで全くやったことが無かったため、ちっとも上手く行かない。やがて雷雨の条件が整った日が訪れ、母とみかんは再び入れ替わり実験を行うが、やはり元には戻らなかった。
みかんの学校では、修学旅行で京都へ行く日が近付いて来た。楽しみにしていたみかんは塞ぎ込むが、母も昔から京都へ行きたがっていたと知り、自分の代わりに行ってほしいと勧める。みかんはしみちゃんを呼び出し、事情を説明した。しみちゃんは、母の姿をしたみかんも一緒に京都へ行こうと誘う。そこで、みかんも修学旅行の日程に合わせ、京都へ行くことにした。
京都を散策していた母とみかんは、ハトと中身が入れ替わってしまった田中さんに出会った。母とみかんは田中さんを自宅に連れ帰り、彼の話を参考にして元に戻る方法を考える。そんな中、母のクラス会が開かれることになった。母とみかんは、一緒にクラス会に出掛けた。母は若い頃に月岡という同級生を好きだったが、彼はクラス会に来ていなかった…。監督はやすみ哲夫、演出は牛草健、原作はけらえいこ、脚本は両沢和幸&高橋ナツ子、製作は木村純一&加藤良雄&長谷川貞雄、企画は遠藤茂行&福吉健、プロデューサーは増子相二郎&西口なおみ&斎藤幸夫&魁生聡、制作統括は早河洋&楠部三吉郎、総作画監督は大武正枝、絵コンテはやすみ哲夫&牛草健、撮影監督は箭内光一、編集は小島俊彦、録音監督は大熊昭、美術監督は沢登由香、色彩設定は野中幸子、音楽は相良 まさえ、主題歌は矢野顕子「あたしンち」。
声の出演は渡辺久美子、折笠富美子、緒方賢一、阪口大助、萩野志保子、高木渉、拡森信吾、野島健児、的井香織、緑川光、太田真一郎、速水奨、糸博、愛河里花子、玉川紗巳子、沼田祐介、池澤春菜、田中理恵、まるたまり、倉田雅世、大西健晴、片岡富枝、大川透、隈本吉成、宝亀克寿、三浦雅子、原亜弥、瀧本富士子、千葉一伸、永島由子、北澤典子、皆見明希。
人気漫画を基にしたTVアニメシリーズの劇場版。
母の渡辺久美子、みかんの折笠富美子、父の緒方賢一、ユズヒコの阪口大助といった主要声優陣は、もちろんTV版と同じ顔触れ。他に、TVアナウンサーの声をテレビ朝日アナウンサーの萩野志保子、ハトの田中さんを高木渉、月岡を拡森信吾が担当している。2人の中身が入れ替わるというのは、これまでに多くの映画で扱われてきたネタだ。
つまり、使い古されたネタだ。
そういうネタを持ち込んで、例えばパロディー的な調理をするのか、あるいは他の要素を加えて変化を付けるのかというと、そうではない。
日常生活に関わる細かいところまで突っ込んでいるのは作品の個性かもしれないが、古臭いネタに新鮮さを与えるほどのモノではない。そもそも、この作品の面白さの1つには、「母が、あの体型で、あの中身だということ」にあるはずだ。
にも関わらず、その面白さを排除することに何のメリットがあるというのだろうか。
これが劇場版の4作目や5作目というのなら、目先を変えるための戦略としては「有り」かもしれない。しかし、どう考えても劇場版1作目で持ってくるようなネタではないだろう。
映画を見に来るのは、大半がTV版の視聴者かもしれない。しかし、例えばTV版のファンである子供を連れて来る親などもいるだろう。
そういった「まだ『あたしンち』を知らない人々」にも認知度を広めることを考えた場合に、まず「ありのまま」の母やみかんのキャラや関係性の面白さを見せるべきだろう。
そのベースの部分を、まだ全く描かない内から破壊してどうするのか。私は原作を読んだことが無いし、テレビ版もほとんど見たことが無い。だから作品の持ち味に関して詳しくは知らないが、「日常的な風景の中にある親近感のあるエピソードの可笑しさ」が持ち味ではないのだろうか。
その解釈が当たらずとも遠からずであると仮定しての見解だが、いきなり非日常的設定を持ってくるのは、いくら「劇場版はオリジナルですから」というエクスキューズを用意したとしても、あまり望ましいものとは言えないような気がするのだ。何よりも酷いと思うのが、この作品が「笑いよりも暖かさや感動」を取りに行っているように感じられることだ。
そりゃあ、例えば『クレヨンしんちゃん』の劇場版だって、感動はある。しかし、『クレしん』は感動の前に、笑いもたっぷりと含まれている。
この映画の場合、笑いを放棄して「家族の絆」というメッセージを選んだようにしか感じられない。
例えば、母とみかんが元に戻ろうとして入れ替わり実験をするシーン。
ここ1つ取っても、幾つか笑いを取りに行くことが出来るだろう。
しかし、「何度やっても上手く行かない」ということを、サラッと見せるだけ。親子愛を訴えたいのだという意識が、ものすごく強い。しかし、基本は笑わせておいて、たまにホロリとさせるという配分にすべきだろう。笑いの割合が低すぎる。本当ならば、入れ替わりという荒唐無稽な設定を生かすためには、ドタバタ色を強めた方がいいと思うのだが、そうすると作品の持つ雰囲気を壊すという配慮なのか、ホノボノとしたテイストで進めていく。
まあ、それは仕方がないとしよう(そもそも入れ替わりネタを使ったことが失敗だとは思うが)。
しかし、入れ替わりの意味まで薄めてどうするのか。
例えば、みかんの姿をした母が学校へ行くシーン。
このシーン、ちっとも面白くない。
みかんの姿をした母がヘマを繰り返しても、クスリとも笑えない。
これ、例えば、母の姿で学校に行かせてみたらどうだったのか。つまり「劇中の人々はみかんの姿を見ているが、観客には精神の部分、つまり母の姿として見せる」という形を取るということだ。
それだけでも、かなり印象は変わるのではないか。やがて母とみかんは修学旅行に出掛けるが、入れ替わりの面白さを生かそうという意識は乏しい。母は既にクラスの中に溶け込んでおり、「みかんの状況に無頓着であるがゆえにドジを繰り返す」ということも少なくなる。
むしろ、2人の中身が入れ替わらずに、「京都に行きたがっていた母が勝手に同行してしまう」という設定の方が面白かったようにも思う。
これが実写なら、ただの観光映画と化している。実写ではないので、観光映画としての価値も無いわけだが。その後のクラス会などは、完全に付け足しだ。修学旅行にも増して、入れ替わりの意味は無くなっている。とにかく、中身が薄い。
それは、「入れ替わりネタだけで95分の物語を作るのは難しい」ということではない。
前述したように、入れ替わりネタの映画など幾らでもあるのだ。
入れ替わりのネタを、どのように使っていくかという考えが足りないだけだ。