『アタゴオルは猫の森』:2006、日本

また今年も、アタゴオルの祭りでヒデヨシが大騒ぎを引き起こした。湖に落ちたツミキ姫とテンプラは、鼻が曲がるような悪臭が漂って来たので逃げ出した。だが、その匂いが気に入ったヒデヨシだけは、平気で水中を泳いだ。湖底の岩に突き刺さった魚を見つけたヒデヨシは引き抜いたが、それは骨だけだった。骨を引き抜いた直後、湖底に埋まっていた箱が飛び出した。「お宝発見」と喜んだヒデヨシは、箱を開けようとした。
そこへギルバルスが来て、「やめろ。危険な香りがする」と止める。それを無視してヒデヨシが箱を開けると、植物の女王であるピレアが現れた。眠りから解放してくれた礼を言うピレアに、ヒデヨシは褒美として食べ物を要求した。ピレアはヒデヨシたちへの贈り物として、歌を披露した。音楽に魅了された住民たちは一緒になって歌うが、ヒデヨシだけは食料を要求する。住民たちに取り押さえられたヒデヨシは、それを弾き飛ばした。
遠くまで弾け飛んだヒデヨシは、植物王の輝彦宮(かがやきひこのみや)と遭遇した。名前が長いので、ヒデヨシは「ヒデコ」と呼んだ。ヒデヨシがヒデコを頭に乗せて歩いていると、ツミキ姫とテンプラがやって来た。ヒデヨシはヒデコから「父上」と呼ばれるが、父上という言葉の意味が分からなかった。4人の前に荊が出現し、「ピレア様に従わない奴は、こうしてやる」と告げてヒデヨシにトゲを発射した。それは生命力を体の外に引き出すトゲだった。抗議したツミキ姫とテンプラも、トゲを突き刺されて動きが止まった。
荊は外に引き出したヒデヨシの生命力を奪い取ろうとするが、ギルバルスが駆け付けて「やめておけ」と告げた。彼は荊の攻撃をかわして剣を突き付け、ヒデヨシたちを元に戻すよう要求した。荊は隙を見せたギルバルスにも、トゲを突き刺した。だが、ギルバルスの動きは止まらず、ヒデヨシと接触してパワーを放出し、荊を退治した。ギルバルスは意識を取り戻したヒデヨシに、「全ての生命力は、この星の中心と繋がっている。お前は今、直結してる」と述べた。ヒデヨシは「チョッケーツ!」と何度も叫んで浮かれた。
ピレアは側近の竜駒から、輝彦宮がアタゴオルで発見されたという報告を受けた。ピレアは輝彦宮がギルバルスを父親にすると確信していたが、ヒデヨシを選んだと聞かされて「それでは輝彦宮は何も学べぬではないか」と落胆した。「だからこそ千載一遇の好機。今度こそ輝彦宮を倒しピレア様の秩序の世界を」と竜駒は進言するが、ピレアは彼を下がらせた。そしてピレアは、「これより、アタゴオルを、ヨネザアドを、そして、この星を秩序ある安らぎの世界に変えます」と宣言した。
ヒデヨシたちは村へ戻る途中、木の樹液を吸っている網弦に出会った。ヒデヨシが自分の真似をして苦い樹液を吸ったのを見た網弦は、「輝彦宮が父としたのが分かった。ただの愚か者ではない、底知れぬ愚か者だ」と口にした。するとギルバルスは、「そういうことだ。生きる力の塊。悪臭も、臭った水も、苦い樹液も、全て受け入れる。奴にとって、生きることは祭りなのさ」と述べた。輝彦宮もヒデヨシの真似をして、樹液を美味しそうに吸った。
ギルバルスと網弦は、ピレアがヨネザアドを支配下に収めようと動き出したことを知った。ツミキ姫とテンプラが村に戻ると、ヒデ丸や唐あげ丸たちの首回りから花が生えており、みんながピレアの旗に祈るように歌っていた。ツミキ姫たちの体にも葉っぱが生えて来て、みんなと一緒に歌うことが幸せだと感じるようになる。だが、そこへヒデヨシが来て太鼓を叩き、住民たちは我に返った。住人たちはヒデヨシを非難するが、輝彦宮が力を使うと、今度は「ありがたや」と拝み始めた。輝彦宮はピレアが花粉で作った旗を操り、ヒデヨシの顔に変えたのだ。
ヒデヨシは住民たちから「こんな花の姿は嫌です。助けて下さい」と頼まれ、「よっしゃー」と承知した。だが、旗の模様がピレアの顔に戻ると、また住民たちは何かに取り憑かれたように歌い始めた。ヒデヨシ、ツミキ姫、テンプラ、ギルバルス、輝彦宮は飛行船に飛び乗り、ピレアの城へ向かった。その途中、ヒデヨシたちは、森や雲が根っこで縛られ、ジャングルが枯れ果てている様子を目撃した。
飛行船は嵐に見舞われながらも、城に近付いた。しかし落雷を受けて、飛行船は城に突っ込んだ。ヒデヨシたちが通路を進むと、植物化して動きの止まった複数の人々がいた。ヒデヨシたちが歩み寄ると、その眼前で人々は生き玉を放出して死を迎えた。ヒデヨシは敵と戦うツミキ姫たちを放置し、別行動を取ってピレアを捜すことにした。ツミキ姫たちは、回収した生き玉を食べようとするピレアの姿を目撃した。振り向いたピレアはヨボヨボだったが、生き玉を食べると一瞬にして若返った。
ツミキ姫の抗議を受けたピレアは、すました顔で「この星を秩序ある星に変えるためなのです」と言い放った。「貴方がたも見て来たでしょう、花になって幸せになった人々を。自ら望んで花になり、この星のために身を捧げた美しい姿を」と語る彼女に、ツミキ姫は「あの歌で騙したんじゃない。みんなを元に戻してよ」と声を荒らげた。しかしピレアは平然と、「花になった人々は分かっているのです。この星の秩序を保つためには、植物の女王が必要だということを」と述べた。
そこへヒデヨシが現れ、花になる幸せが些細であることを語る。ピレアは攻撃しようとするヒデヨシの動きを止め、ギルバルスを花に変えて枯れさせた。ヒデヨシはピレアから輝彦宮の居場所を教えるよう脅されるが、それを拒んだ。するとピレアは「お前が枯れても、輝彦宮は来るでしょう」と言い、ヒデヨシを花に変えて枯れさせた。ヒデヨシは生き玉が腐っていたので、ピレアは食べようとしなかった。ギルバルスの生き玉は飛び去るが、竜駒が追い掛けて捕獲した。
ヒデヨシの生き玉が自力で体内に戻ったので、ピレアと竜駒は驚いた。しかし動きは封じられたままであり、ピレアはヒデヨシを牢に閉じ込めた。喚き散らすヒデヨシの前に、輝彦宮が現れた。「あいつらは置き去りにして2人だけで逃げよう」とヒデヨシが言った直後、網弦が来て輝彦宮を捕まえた。「このような愚か者を父親にして、本当に良かったのか」と訊かれた輝彦宮は、「どんなにダメであろうと、父上はたった一人」と答えた。網弦は輝彦宮をヒデヨシに返し、「その者は役立たずだ」と告げて飛び去った…。

監督は西久保瑞穂、原作は ますむらひろし メディアファクトリー「コミックフラッパー」連載、脚本は小林弘利、脚本協力は皆川護(ハルフィルムメーカー)、エグゼクティブ・プロデューサーは三宅澄二&植木英則、プロデューサーは松村傑&山国秀幸、企画は松村傑、企画協力は松岡博治&河村有一郎、製作は三宅澄二&植木英則&高木政臣&吉田博昭&佐藤美衛子&吉田尚剛&桜田和久&芳原世幸、CGプロデューサーは豊嶋勇作、CGディレクターは毛利陽一、キャラクターデザイン原案は福島敦子、プロップデザインは荒川眞嗣、美術デザインは黒田聡、色彩設計は遊佐久美子、音響は鶴岡陽太、編集は森下博昭、オリジナルスコアは高橋哲也、音楽監督は石井竜也、音楽プロデューサーは安井輝。
主題歌『オイラ・ノ・マツリ』Word & Music by石井竜也、Arranged by石井竜也、performed by石井竜也。
声の出演は山寺宏一、平山あや、内田朝陽、谷啓、夏木マリ、田辺誠一、佐野史郎、石井竜也、谷山浩子、牟田悌三、小桜エツ子、立木文彦、大林隆介、ゆりん、小和田貢平、佐藤美一、永田昌康、佐藤健輔、安達貴英、西村俊仁(中部日本放送アナウンサー)、土井コマキ(FM802)、小澤繁夫(週刊ファミ通 副編集長)、内藤亜樹子(SEDA)、小田芳枝、井手口利徳、小宮山絵理、中島絵美、斉藤千恵子、佐藤美保金子俊太郎、西田雅一、八木澤翔、村上裕哉、荒嶽恵、中川明佳、寒川裕美、行途昌世、大平隼、本田真視、小川潤子、小林桂子、村上明子、渡辺佳美ら。


ますむらひろしの漫画『アタゴオル』シリーズを基にした長編3DCGアニメーション映画。
『アタゴオルは猫の森』というタイトルは雑誌「コミックフラッパー」で連載された作品と同じだが、物語のモチーフになっているのは「ネムキ」で連載された『ギルドマ』だ。
監督は『GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊』や『イノセンス』の演出を務めた西久保瑞穂。劇場映画の監督を担当するのは、1990年の『「エイジ」』以来となる。
ヒデヨシの声を山寺宏一、ツミキ姫を平山あや、テンプラを内田朝陽、網弦を谷啓、ピレアを夏木マリ、ギルバルスを田辺誠一、竜駒を佐野史郎、ヒデコ(輝彦宮)を小桜エツ子、荊を立木文彦、唐あげ丸を大林隆介、ヒデ丸をゆりん、魚屋を小和田貢平、そば屋を佐藤美一が担当している。
特別出演として、MCタツヤの声を石井竜也、テマリを谷山浩子、長老を牟田悌三が担当している。ただしテマリに関しては全くキャラとして目立っておらず、ほぼエキストラに近い状態だが(しかも谷山浩子に歌わせていないし)。

私はますむらひろしの熱烈なファンというわけではないし、原作漫画も何度かチラッと読んだことがあるという程度の人間だ。
しかも『ギルドマ』じゃなくて、『アタゴオル玉手箱』と『アタゴオルは猫の森』の方だ。
だから、私の認識が間違っているのかもしれないが、この映画を見て感じたのは「『アタゴオル』シリーズって、こんな作風だったっけ?」ということだった。
どうも私のイメージしていた『アタゴオル』の世界とは、かなり違っているように思えたのだ。

私の勝手な思い込みかもしれないが、『アタゴオル』シリーズってのは「物語が云々」という以前に、その世界観に魅入られて多くの読者に愛されているんじゃないかと思っている。
でも、そういうモノが、この映画からは伝わって来ない。
もしかしたら原作に対する知識の薄い私の印象が間違っているのかもしれないから、そこに関して深く考察するのはやめておこう。
ただ、「原作との比較」ということを置いて考えても、この映画で描かれているアタゴオルの世界には、まるで魅力が感じられない。

この作品の一番の売りは、「『アタゴオル』の世界を3DCGで表現する」という部分にあるんだろう。それは別に構わない。っていうか、そこをセールス・ポイントにしようってのは、決して間違った戦略ではない。
ただ、だからって「どうだ、この3DCGは凄いだろ」と声高にアピールするような作品に仕上げちゃうのは、なんか違うんじゃないかと。PVじゃないんだからさ。
あくまでも長編アニメ映画なんだから、「3DCGの技術を見せまショー」で留まっていては困る。そういうことがやりたいのなら、物語性を中途半端に持たせない方がいいし、あと『アタゴオル』シリーズを使うべきじゃない。
『アタゴオル』を使うのなら、短編のイメージ・フィルムとして作ればいい。それなら、3DCGの映像表現だけで終わっても別に文句は無い。

それと3DCGに関しては、もっと重大な問題がある。
そこが売りであり、そこをアピールしているにも関わらず、3DCGの質は決して高いわけではないのだ。
ちなみに、この映画が公開された2006年にピクサーは『カーズ』を発表している。そこから遡ると、2004年に『Mr.インクレディブル』、2003年に『ファインディング・ニモ』が公開されている。
そういったピクサーの作品群と比較すると、明らかに見劣りする。
「世界最高峰のフルCGアニメと比べるのは酷だ」と思うかもしれないが、3DCGを売りにしているはずなのに、そこの質がイマイチってのは厳しいモノがある。

一番のセールス・ポイントが冴えないとなると、そうじゃない部分がどうなのかってのは推して知るべしだが、もちろん質が高いはずもない。
何が酷いって、「石井竜也がものすごく邪魔」ってことだ。
MCタツヤというキャラクターも、彼の伴奏音楽も、全てが邪魔でしかない。
きっと製作サイドとしては、石井竜也に音楽を担当してもらうこともセールス・ポイントとして考えたんだろうけど、明らかに物語を壊しているし、世界観を壊している。

最初に登場するのがMCタツヤで、「さあ、大盛り上がりで始まりました」とマイクを持って饒舌に語るのだが、その語り口調も、キャラのデザインも、流れて来る楽曲も、『アタゴオル』の世界観に合っているとは到底思えない。
ステージではバンドが演奏し、ヒデヨシが黒いスーツに帽子にグラサンというブルース・ブラザーズみたいな格好で踊るのだが、そういう映像も違和感が強い。
むしろ「石井竜也の世界観に、アタゴオルのキャラクターを登場させている」という印象を受ける。
主従関係が逆転しているのだ。

私はミュージカルが好きなので、そういうシーンが含まれているだけで評価を高くしてしまう傾向がある。
しかし、この映画におけるミュージカル・シーンは、私の気持ちをまるで高めてくれなかった。
その冒頭シーンからして、「何よりも石井竜也をモデルにしたキャラの登場&彼の作った音楽ありき」というのが露骨に感じられるし、『アタゴオル』の世界観を大事にしようという意識は全く感じられない。何を大切にすべきかという優先順位を、完全に間違えている。
エンディングで流れて来る主題歌も、その直前に輝彦宮が自分を犠牲にしてピレアを封印しているから「全て丸く収まってハッピーエンド」ってわけじゃないのに、楽しく明るい曲調だから、そこの雰囲気に全く合っていないし。

音楽を重視しているのは、冒頭シーンだけでない。
ピレアは「貴方がたへの贈り物です」と言って歌い出し、それに合わせて住人たちがコーラスを入れる。でも、違和感しか抱かないし、「なんで住民たちが魅了されて一緒に歌うんだよ」と文句を言いたくなる。
全員が歌声にウットリして「こんな、ゆったりした感じは初めて。幸せって、こんな感じ」と漏らすってのも、ただバカバカしいだけ。
で、そこまでやるのなら、全編を通してミュージカルになっているのかと思ったら、そうではないんだよな。
それはそれで中途半端だぞ。

原作を粗末に扱っている一方で、「この映画を見る人は原作を御存知でしょ」というスタンスなのか、登場キャラクターの紹介はバッサリと省略されている。
最初にキャラクターを紹介するための時間は設けられていないから、そいつらが何者なのか、どういう関係なのかは良く分からない。
まだヒデヨシとツミキ姫&テンプラは「仲の良い友達なんだろうなあ」と推測できるけど、ギルバルスなどは相関関係がサッパリだ。
「いつ戻ったの?」とツミキ姫が言うけど、「どこへ行ってた設定なんだよ」と言いたくなる。

世界観を紹介するための時間も用意されていない。
冒頭でゴチャゴチャした祭りのシーンが描かれ、いきなり本編が始まってヒデヨシが箱を発見する展開に移行してしまう。この映画に序奏は無い。
原作を知らない観客に対しては不親切だが、前述したように原作を粗末に扱っているので、原作を知っている観客に対しても不親切だ。
そうなると、「どういう観客層を狙って作っているのか」と言いたくなる。
まさか、石井竜也のコアなファンだけをターゲットにしているわけでもないだろうに。

キャラクターや相関関係の紹介、世界観の説明という作業をザックリとスッ飛ばしているせいで、観客が物語に入り込むことが困難な状態になってしまう。
その上、そんな状態で描かれる物語の内容も冴えない。
「みんなが同じだと幸せを感じる」とか「何も考えなければ幸せだと思える」とか「それで本当に幸せだと言えるのか」とかいうのをセリフで語っており、どうやら「幸せって何だろう」というのをテーマにしたいようだが、伝えようとするメッセージが声高で露骨すぎて、説教臭いモノになっている。
ドラマで表現せずにセリフで説明しているから、かなり不細工だし。

終盤、「ピレアを封印するためには対になっている輝彦宮も消える必要がある」ということが判明し、輝彦宮が自己犠牲を支払ってピレアを封印しようと決意すると、ヒデヨシは「俺たちはな、とことん生きるために生まれて来たのよ。誰かを助けるためとか、そげな理由で命を捨てるのは許さないわよ」と言う。
「簡単に命を捨てるな」というのは、それを説く人間や、その語り方によっては、腑に落ちる言葉になっただろう。
だけど、この映画におけるヒデヨシの態度を見ている限り、「お前が言うな」ってことになっている。それを言う資格のある奴には到底思えない。
ただ単に、自分が助かるためなら平気で仲間を見捨てる酷い奴にしか見えないからね。

全てを枯れさせて自分だけの星にしてしまおうと目論んでいるピレアに対して、ヒデヨシは「お前だけの星になったら、一人ぼっちだぞ。一人なんて面白くも楽しくも無いぞ。一緒に笑ったり、一緒に怒ったりできない星なんて、ただの石っころだっぺよ」と語る。
だけど、アンタは仲間を見捨てて逃げようとしたり、自分が助かるために平気でギルバルスの生き玉を食べようとしたりしていたじゃねえか。
仲間を平気で見捨てようとした奴なんかに、仲間の大切さを説かれても説得力が無いわ。

ヒデヨシたちが敵と戦うアクション映画の要素もあれば、ピレアの城を進むアドベンチャー映画の要素もある。
しかしアクション映画としても、アドベンチャー映画としても、高揚感を喚起する箇所は見当たらない。
むしろ、そんなスケールのデカい話や見栄えのする動きが発生する話にせず、もっと小ぢんまりした「アタゴオルの日常風景」を描く内容にしちゃっても良かったんじゃないかと感じたりもする。
『ギルドマ』をモチーフにしている以上、そういうわけには行かないんだろうけどさ。

(観賞日:2013年12月27日)

 

*ポンコツ映画愛護協会