『アサルトガールズ』:2009、日本

コンバットシミュレーターを原型とし、大脳生理学の成果を導入したゲーム「アヴァロン」は熱狂的ブームを巻き起こした。ゲームを 生み出した伝説のプログラマーたちは、そのフィールドに新たな試行領域を付け加えた。獲物を求めて荒野をさすらう世界を、人々は アヴァロン(f)と呼んだ。その荒野を歩いてきたイェーガーは、狙撃の準備をして敵を待ち受けた。しばらくすると、地中からスナクジラ が出現した。倒すと得点が表示され、イェーガーはガッツポーズを取った。直後、別のスナクジラが背後から現れ、彼は飲み込まれた。 グレイは戦闘機で複数のスナクジラを追跡し、カーネルとルシファもそれぞれ獲物を狙っている。
[Chapter1]
「再びフィールドへのアクセスを望むかとゲームマスターに問われたイェーガーは、「無論だ」と答えた。「ペナルティーを経験地から 引いておく」とゲームマスターに告げられ、イェーガーはフィールドに復帰した。地上に降りたグレイがスナクジラを倒すと、その動きを 利用したカーネルが別のスナクジラを仕留め、2人は言い争いを始める。不意にカーネルは、「ルシファはマダラを狙っているのかも しれない」と口にした。グレイは「終端標的(フラグ)は私が貰うわ」と言うと、戦闘機に乗り込んだ。
歩き続けていたイェーガーは、ゲームマスターから「そろそろ移動用ガジェットを購入した方が良くないか」と勧められる。イェーガーが 「そんなポイント、どこにあるってんだ」と声を荒げると、ゲームマスターは「しかし徒歩でフラグを追っても、遭遇(エンカウント) すら困難だ」と述べた。するとイェーガーは自信に満ちた態度で、「オレには幸運の女神が付いてるのさ」と告げた。
グレイはマダラスナクジラを戦闘機から攻撃し、ゲームマスターに「ガジェットからの攻撃は減点対象になる」と忠告される。カーネルは グレネードを使い、ルシファは大カラスとなってマダラスナクジラを攻撃する。タイムリミットになったため、ルシファは変身モードを 解除された。カーネルは残弾を射耗したため、ゲームマスターから撤退するよう指示された。グレイもガジェットの制限時間が迫り、 徒歩で帰投したくなければベースに帰るよう促された。
[Chapter2]
ベースに戻ったグレイは今回のゲームを清算し、セーブした。彼女はゲームマスターから、「フラグは強力なので、パーティーを組んでは どうか」と提案された。ゲームマスターは「同レベルのプレイヤーが3人いる」と言う。ルシファ、カーネル、イェーガーのことだ。 グレイのガジェットは維持にポイントを喰うので、現状のままではレベルアップに数ヶ月を要することになると彼は説明した。
[Chapter3]
グレイはゲームマスターの言葉を思い出してフィールドに戻り、二ノ宮金次郎像にメッセージを残した。少し離れた場所で様子を観察して いると、カーネルが現れた。彼女は像の頭にカタツムリを乗せ、それを可愛がった。彼女が去った後、今度はルシファが現れた。彼女は 帽子をカタツムリに被せたりして、好意的な反応を示した。しかしイェーガーは、カタツムリを掴んで食べてしまった。
[Chapter4]
その夜、イェーガーが野営で食事をしていると、グレイが現れた。グレイ、ルシファ、カーネルの申告によって、ゲームはキャンプモード に入った。グレイがイェーガーを丘の上のストーンサークルに連れて行くと、ルシファとカーネルが待っていた。グレイはイェーガーに パーティーを組まないかと持ち掛け、マダラスナクジラを倒してコンプリートすることの必要性を説いた。
マダラスナクジラを倒すには、イェーガーが装備する20ミリ対戦車砲が必要だった。グレイが「奴の足は私たちが止める。アンタは撃つ だけ。ポイントは4分の1ずつ」と提案すると、イェーガーは「半分はオレだ」と主張した。そこでグレイは、サシの勝負で勝った方の 条件に従うよう持ち掛けた。イェーガーは承諾し、1対1での格闘に突入するが、何度やってもグレイに惨敗した。
[Chapter5]
カーネルは降下猟兵「Temjin」を成層圏から飛来させ、ルシファは大カラスに変身し、グレイは戦闘機に乗り込んだ。3人が攻撃して マダラスナクジラを足止めしている間に、イェーガーは20ミリ対戦車砲の標準を合わせた。4人が一斉に攻撃すると、マダラスナクジラは 消滅した。大喜びするイェーガーだが、移動手段を持つ3人に抜け駆けされて怒り狂い、ヤケになってガジェットを攻撃した。腹を立てた グレイたちも、イェーガーに反撃した…。

脚本・監督は押井守、製作は原田健、企画は林裕之、プロデューサーは森遊机&久保淳、 共同プロデューサーは柴田一成&黒田仁子、撮影は湯浅弘章、撮影/編集/VFXスーパーバイザーは佐藤敦紀、 照明は関輝久、美術は黒川通利、衣裳デザインは竹田団吾、武術指導は今野敏、音響監督は若林和弘、宣伝美術は樋口真嗣 、天人デザインは鬼頭栄作、音楽は川井憲次、音楽プロデューサーは西村潤。
テーマソング「SCREW」:歌はKOTOKO、作詞はKOTOKO、作曲・編曲は高瀬一矢。
出演は黒木メイサ、菊地凛子、佐伯日菜子、藤木義勝、イアン・ムーア、金子勲、辻本貴則、直井健太郎、山本健介、運天那美ら。


押井守監督が『Avalon アヴァロン』以来、約8年ぶりに手掛けた実写長編。
グレイを黒木メイサ、ルシファを菊地凛子、カーネルを佐伯日菜子、イェーガーを藤木義勝が演じている。
劇中の世界観は『Avalon アヴァロン』から繋がっているが、話の中身は続編ではないので、そちらを見ていなければ理解できないわけ ではない。
っていうか、「理解する」という表現を使うレベルのフィルムではない。

冒頭、「人が情熱を傾けることの価値は、それが現実であるか虚構であるかを問わない。そして、その結果が正当に評価されるならば、人 が現実を見失うことも、またあり得ない。社会通念なるものを唯一の根拠に語られる“現実”など語る者にとっての現実であり、他者に とっては虚構そのものでしかない」などと哲学チックなことがナレーションで語られる。
その後、社会と文明について語られ、アヴァロンというゲームに人々が熱狂し、新しい試行領域が加えられたことが説明される。
ってなわけで、70分間内、冒頭の約7分は、文明について語るナレーションが延々と続く。
だが、その内容について理解しようとする必要は全く無い。そのナレーションを全く聞かずに映画を見たとしても、何の支障も無い。
何しろ、編集したら尺が足りなかったから後から付け加えただけで、別に見ずに寝ていても問題が無いと、押井守本人が語っている のだ。
ようするに、監督自ら、水増しのためだけに加えた無意味な7分間だということを認めているのだ。
商業映画監督として、サイテーなことをやっとるわけだね。

その時点で7分間を無駄遣いしているのだが、それが終わっても、イェーガーがただ歩いている様子だけで、また5分ぐらい時間を 潰す。
その後は、巨大なウツボみたいなモンスターと戦う様子を、延々と描くだけ。メリハリも起伏も全く無い。
つまんないゲームのプレー映像を、ひたすら見せられている感じ。
他人がゲームをやっている様子を見せられるだけでも退屈なのに、そのゲーム自体が恐ろしいぐらい退屈なんだから、どうしようもないぜ。

戦闘シーンも休む暇も無く次から次へとアクションが繰り広げられるわけではなく、たっぷりと休憩時間を取りながら、マッタリと進んで いく。
戦闘は単調で迫力もスピード感も無く、カメラワークも冴えない。
実際のゲームの映像の方が、遥かに迫力があるしカメラワークも優れている。
せめて様々な種類のモンスターが登場したり、戦い方がバリエーションに富んでいたりすりゃあ、少しは救いになったかもしれんが、 ホントに何も無い。
そんなモンに人々が熱狂するってことは、よっぽど娯楽に乏しい世界なんだろう。

作品はチャプターで分割されており、次のチャプターに移る度に「遊ぶものは神なり 神のみが遊ぶに足れり 遊ぶは自由なるを云ひ  そは神の世にほかならず」とか、「動かざるは神なり 神隠ると云ふはつねに隠れたるものなれば それ尋ねるに拠りその在るを知れり」 とか、なんか意味ありげな言葉が表示されるが、それは無視して一向に構わない。
ホントに何の意味も無いモノだから。
Chapter3では、特に何も起きず、みんなが移動したりボーッとしたりしているだけで10分ぐらい費やしている。
で、二ノ宮金次郎像にカタツムリを乗せてそれぞれが反応しているが、何を描きたいのか全く分からない。
それだけでChapter4になってしまう。
Chapter4では、それまで英語で話していたのに、急に日本語になる。
ユルすぎるだろ。だったら最初から日本語でいいじゃねえか。途中で言語を変更して、何のプラス効果があるというのか。

グレイの持ち掛けたサシの勝負をイェーガーが承諾すると、ホントに格闘アクションゲームみたいに「Round1」という画面が出てバトルに なるが、これが何の面白味も無い上、バカみたいに4度も繰り返される。
で、最終バトルになるんだが、コーネルは宇宙から巨大ロボットを呼び寄せて攻撃するのに、それよりも対戦車砲の方が威力があるって、 どんな設定だよ。
っていうか、みんな一斉に攻撃しているから、ホントに対戦車砲が必要不可欠だったかどうか微妙だろ。

イェーガーがガジェットを攻撃し、グレイたちが反撃したところで、エンドロールに突入する。
いや、終わってねえし。
良く終われたな、こんなトコで。
ズ太い神経だこと。
それにしても、わずか70分なのに中身が薄っぺらいと感じるんだから、どんだけ中身が無いのかってことだ。5分から10分ぐらいで 終わっちゃうような中身を、引き延ばして強引に70分に仕立て上げている。「骨格だけだと中身が薄いから厚みを持たせよう、話を 膨らまそう、新たなエピソードを加えよう」といった作業は、全くやっていない。
ようするに、完全に手抜き工事で完成させたフィルムなのである。

もはや、これを映画と呼んでいいのかどうかさえ微妙なところだ。
何しろ監督は完成疲労試写会で、「この映画には中身なんてありません。ひたすら女優を美しく撮る。実写の監督として正しい撮り方を した」と発言している。
「頭をカラッポにして見る映画」とか、「見た後には何も残らない映画」というレベルではない。
最初から中身が無いのである。

監督は「ひたすら女優を美しく撮る。実写の監督として正しい撮り方をした」と言っているが、本気でそんな風に思っているなら、金輪際 、実写映画を撮っちゃいけない。
女優を美しく撮るだけで終わったら、それはプロモーション・フィルムであって映画ではない
。女優を美しく撮った上で、そこに映画としてのプラスアルファを付け加えないとダメでしょ。
それは、このフィムには無い。
っていうか、これで女優を美しく撮っているつもりなら、まるでセンスがねえよ。
ちっとも魅力的に見えないぞ。

っていうか、「実写の監督として正しい撮り方をした」と思っていようが思っていまいが、もう押井守監督は実写映画を撮るべきではない と思う。
個人的には、アニメーション映画も撮らなくていいと思ってるけどね。
押井守監督って、実写だろうがアニメだろうが、好き放題にやらせると、つまんない映画しか作らないんだよね。
癖が強すぎて、色んな制約を付けて抑え付けた環境に置かないと、面白い作品は作れない人なのよ。

だから、ホントは強権を行使するタイプのプロデューサーと組むのがいいと思うんだけど、そんな人と一緒に仕事をやりたがらないだろう 。もう押井監督は大物になっちゃってるから、好きなように仕事を選べちゃうのかもね。
大物の座に押し上げられちゃった監督の、最悪のパターンに陥っているんじゃないかと。
そうなると、今後も押井監督は、つまんない映画ばかりを作り続けることになるんだろう。

(観賞日:2010年11月19日)

 

*ポンコツ映画愛護協会