『明日への遺言』:2008、日本

昭和23年3月、元東海軍司令官・岡田資中将は、B級戦犯としてスガモプリズン第三棟に勾留されていた。彼が入所してから、既に1年が 過ぎていた。岡田は法廷闘争を法による戦い、すなわち「法戦」と位置付け、最後まで戦い抜くことを誓った。日本国内における戦争犯罪 と見なされた事件については、横浜地方裁判所が法廷として用いられた。岡田中将と部下に関する裁判は、昭和23年3月8日に開廷された 。起訴理由は、捕虜となった38名の米軍搭乗員に対し正式な審理を行わず斬首処刑を執行したことであった。
最初の内は、検察側と弁護側の証人に対する尋問が続いた。検察側は証人として元陸軍省法務局長・杉田中将、元東海軍経理部・相原伍長 、元法務官・武藤少将を呼んだ。バーネット主任検察官は、略式手続が不当であり、岡田たちの行為は殺人であるという証言を引き出した 。弁護側は鉄道局車掌・守部和子、元東海軍軍需管理局第一部長・町田秀実、真生塾孤児院院長・水谷愛子を証人に呼び、処刑された 搭乗員はジュネーブ条約の定める捕虜ではなく、無差別爆撃を行なった戦争犯罪人であると主張した。
岡田の妻・温子は、主任弁護人のフェザーストンがアメリカ人であることに不安を覚えていた。しかし公判が続く中、堂々と戦う姿に感銘 を受けた。スガモプリズン第三棟に戻った岡田は、「自分が殺した相手の目を思い出して、法廷に行くのが怖い」と怯える部下に「必ず 勝ち抜こう。一緒に仏に祈ってやる」と声を掛けた。スガモプリズンには、石垣島警備隊の判決の噂が伝わっていた。石垣島を爆撃した 米軍搭乗員3名が兵士たちの銃剣で刺殺された事件で、被告45名の内、41名に絞首刑の判決が下されていた。
弁護側の主尋問が始まると、岡田は略式裁判の正当性を訴えた。彼は「勝敗は論外、最後まで戦い、日本の歴史と運命を共にする。これが 東海軍全体の考えでした。しかし米空軍は優勢で、我々はその日暮らしを送っていたのです。翌日の見通しも立たず、日々、直面する問題 について、第一総軍の指令を仰ぐことは不可能でした」と述べた。その態度は堂々たるものであった。
フェザーストンが無差別爆撃についての意見を尋ねると、岡田は絨毯爆撃、夜間爆撃、焼夷弾使用だけでなく、その爆撃方法を批判した。 「住民が逃げ出せないように消化を妨害しながら全員虐殺の方法を取った」と非難したのである。「彼らは事実上、無差別爆撃をしたので あるから、その行為において非合法である。降下した搭乗員を捕虜でなく戦犯容疑者として扱ったのは、爆撃の状況からして正しいと判断 しました」と岡田は主張した。
米軍当局が裁判に備えて東海軍を取り調べた武藤調書について説明を求められた岡田は、「信用性の無いものです。戦争が終わると法務部 の将校たちは自分らに責任が掛かるのを恐れ、東海軍を調査することでその罪を逃れようとしていたのです」と語る。元東海軍法務部長の 谷は、2度目の取り調べを受ける前に自殺した。彼は「搭乗員の略式手続きによる処断を敗戦まで知らなかった」と記した虚偽のメモを 残していた。そのメモの存在が、裁判をさらに難しくさせていた。
斬首について問われた岡田は、「参謀副官から軍刀使用の命令が出たとしても、その命令は自分が出したのと同じである」と述べた。岡田 は自ら全ての責任を取ろうとしており、そのことは法廷にいる面々にも伝わった。彼は「責任の筋を辿って行けば、当然、司令官たる私の 方へ来るでしょう。部下が行った全ての行為について、責任を取るのは私です」と述べた。弁護側主尋問が終了した夜、スガモ・プリズン の浴室では、若者たちが笑顔を浮かべた。岡田が『故郷』を歌い始めると、若者たちも合唱した。
翌日、傍聴席には結婚式を1週間後に控えた岡田中将の長男・陽と婚約者・純子の姿があった。開廷前、岡田はフェザーストンに彼らを 紹介した。検察側主尋問が始まると、岡田は「搭乗員は脅迫ビラを撒いた。彼らは無差別爆撃が非人道的であることを知っていた。それが 処罰の理由である。誰が爆撃をしたかは問題ではない。我々は国際法を遵守するために軍律を儲けた。他にやりようは無い。処罰の理由は 何度も犯罪を重ねたことである」と述べた。
公判も終盤に差し掛かった頃、岡田の長女・達子が夫の正雄、赤ん坊の博子を伴って傍聴席に現れた。開廷前、岡田は孫娘を優しく抱いた 。ラップ裁判委員長は、斬首が報復だったのではないかと問い掛けた。米国軍法では報復が認められており、それは岡田を助けようとする 好意的な質問だった。しかし岡田は、「報復ではなく処罰だ」と断言した。公判は結審し、岡田は絞首刑を宣告された…。

監督は小泉堯史、原作は大岡昇平、脚本は小泉堯史&ロジャー・パルバース、プロデュースは原正人、エグゼクティブ・プロデューサーズ は豊島雅郎&吉井伸吾&住田良能&和崎信哉&石川博&依田巽&石井晃&林尚樹、エグゼクティブ・スーパーバイザーは角川歴彦、 特別協賛は森豊隆、プロデューサーは永井正夫、プロダクション・マネージャーは上原英和、撮影は上田正治&北澤弘之、撮影協力は 清久素延、編集は阿賀英登、録音は紅谷愃一、照明は山川英明、美術は酒井賢、衣裳デザインは黒澤和子、音楽は加古隆。 主題歌「ねがい」作詞・作曲・歌唱は森山良子、編曲は斎藤ネコ。
出演は藤田まこと、富司純子、ロバート・レッサー、フレッド・マックィーン、リチャード・ニール、西村雅彦、蒼井優、田中好子、 児玉謙次、頭師佳孝、松井範雄、金内喜久夫、加藤隆之、俊藤光利、近衛はな、中山佳織、斎藤文、 鳥木元博、井上浩、山本優、小野孝弘、関貴昭、喜安浩平、志村史人、佐々木一平、原田琢磨、長塚道太、小豆畑雅一、飛田敦史、外園大 、徳原晋一、川又シュウキ、安住啓太郎、高義治、高世耕平、石井揮之ら。
ナレーターは竹野内豊。


大岡昇平のノンフィクション小説『ながい旅』を基にした作品。
岡田を藤田まこと、温子を富司純子、フェザーストンをロバート・
レッサー、バーネットをフレッド・マックィーン、ラップをリチャード・ニール、町田を西村雅彦、和子を蒼井優、愛子を田中好子、武藤 を児玉謙次、相原を頭師佳孝、杉田を松井範雄が演じている。
監督は『博士の愛した数式』の小泉堯史。

西村雅彦、蒼井優、田中好子といった面々は、完全に役者の無駄遣い。
ここが無名俳優だったとしても、全く印象は変わらない。
っていうか、ぶっちゃけると、藤田まことさえいれば、後は誰がやっても大きな支障は無い。
藤田まことが主導で企画した映画ではないので、彼のワンマン映画という呼び方は不適当だと思うけど、「彼がいれば、それでいい」と いう映画なのは確かだ。

冒頭、「爆撃と戦争の歴史」について講釈するナレーションと、白黒映像の時間帯が、しばらく続く。
そこは、お勉強をさせられているようで、すげえ退屈。正直、ナレーションの内容は、全く頭に入ってこなかった。それぐらい拒絶反応が 出てしまったんだよな。
ワシは劇映画を見たいのであって、お堅い教養ドキュメンタリーで、歴史や戦争について学習したいわけじゃねえんだよ。
導入部分で、観客を掴むことに失敗している。生真面目が過ぎるぞ。
そりゃあ、その裁判がどういうものか、そこに至る経緯がどういうものかを説明しておかないと話の把握が難しいだろうという判断 だったのかもしれない。
だけど、もうちょっと簡単で砕けたやり方は無かったのか。本編が始まるまでの6分半で、精神的にグッタリと疲れてしまうよ。

で、岡田が登場してようやく本編突入かと思ったら、まだナレーションで説明を続けやがる。
「岡田は法廷闘争を法による戦い、すなわち法戦と位置付け、戦い抜くことを誓った」とか、そういうのまで全てナレーションで説明 するんだぜ。
それはドラマとして、そのように思うようになるまでの経緯を描くべきじゃないのか。そして本人の口から、セリフとして言わせろよ。
「日本国内における戦争犯罪と見なされた事件については、横浜地方裁判所が法廷として用いられた。岡田中将とその部下に関する裁判は 、昭和23年3月8日に開廷された」などと、それもナレーション。
裁判が始まるまでの9分弱で、お腹一杯になる。
その後もナレーションが大量に入り、妻もセリフではなくモノローグしか語らない。
もうね、完全にNHKの再現ドキュメンタリーだよ。映像がナレーションの補足にしかなっていない。
あと、竹野内豊のナレーションが下手。変に力が入り過ぎている。

裁判が始まっても、そこから面白くなるわけではない。ただ淡々と尋問が続くだけで、ドラマの盛り上がり、抑揚は皆無に等しい。
検察官や弁護人からオブジェクションが唱えられても、それによって進行に波が起きることは無いのだ。仮に起きているとしても、それはごく 小さな波であり、退屈の範囲内での波に過ぎない。
あと、なんせ主尋問が始まるまでの証人への尋問が延々と続くので、最初に法廷へ出向いた後、岡田の出番はなかなか訪れない。たまに カメラにチラッと映る程度。尋問を聞いている彼の姿、その表情を見せようという意識さえ感じられない。
ようやく30分ぐらい経過して、「法廷に行くのが怖いんです」と言い出す若者が現れ、法廷を離れたところでの岡田のドラマが少しだけ 描かれる。
でも、そういうのは、ホントに申し訳程度。
で、法廷劇にドラマがあれば面白くなっただろうけど、そういうものは無い。尋問に対する語りも、ようするに全て説明のための言葉で あり、ナレーションと似たような性質のものだし。

無差別爆撃について岡田が語ると、爆撃の様子を描いた絵が挿入される。
だけど、「地獄の絵図である」と言われても、ナレーションと絵だけでは、地獄絵図のイメージが沸かない。
まあ確かに「絵図」だけど。
あと、「住民が逃げ出せないように消化を妨害しながら全員虐殺の方法を取った」というのを、ナレーションで説明してどうすんだよ。
その部分こそ、岡田の言葉で喋らせないと、法廷ドラマとして作った意味が無いだろうが。
「裁判において若い部下たちを救えたらそれが本望であると思っていた」というのもナレーションで語ってしまうけど、それは会話劇の中 で表現しようぜ。

岡田は全く迷わず、怖がらず、悩まない。その周囲で、不安になったり葛藤したり苦悩したりしている人物も登場しない。ずっと岡田だけ にスポットが当たっており、他の人間を描こうという意識はほとんど無い。
妻はたまにナレーションを挟むだけだし。
若者たちも、一度だけ不安を訴える奴がいたが、それで終わり。そいつの名前も顔も良く分からない程度の扱いだ。そいつを語り手に しても良さそうなのに。そうすれば、「不安や迷いを抱える若者にとって、岡田が偉大で素晴らしい人物で、勇気付けられ、感動する」と いう見せ方が出来た。
心情の移り変わり、揺れ動きは、どこを見回しても無いんだから、それでドラマが盛り上がろうはずがない。

絵の動きはほとんど無い。
人の表情や仕草で、ドラマの淡白さを何とか補おうという意識も乏しい。
「これなら別にラジオドラマでもいいだろうに」と思ってしまう。
たぶん画面を見ないで音声だけを拾っても、受ける印象は、ほとんど変わらないのではないか。
目の不自由な人には親切な映画と言えるかもしれないが、こんな退屈な映画を好んで観賞したがるかどうかは分からない。

(観賞日:2010年4月29日)

 

*ポンコツ映画愛護協会