『アナザヘヴン』:2000、日本
マンションで男が殺害された。被害者は首を叩き折られて殺されており、頭の中からは脳味噌が無くなっていた。現場検証を行った刑事の早瀬マナブは、ガスコンロに掛けられたシチュー鍋の中に被害者の脳味噌を発見する。
犯人像が絞り切れない中、同様の手口による連続が発生する。早瀬は自分に好意を寄せている大庭朝子から、犯人は絶対に女だと告げられる。犯人の作った料理は、全て花嫁修行で習うような家庭料理だというのだ。
早瀬は、事件には科学では解けない謎が関係していると考える。早瀬は飛鷹健一郎警部と共に、木村敦という男を追った。しかし、犯人は彼自身ではなく、彼に憑依した“何か”だった。やがて、その“何か”は早瀬に近い人間に憑依する…。監督&脚本は飯田譲治、原作は飯田譲治&梓河人、プロデューサーは河井真也、エクゼクティブ・プロデューサーは横浜豊行&宮島秀司&豊田俊穂&春名慶&梅沢道彦、撮影は高瀬比呂志、編集は阿部浩英、録音は岩倉雅之、照明は小野晃、美術は斎藤岩男、衣裳は松川好伸、ビジュアルエフェクトスーパーバイザーは松本肇&松枝彰、スペシャルエフェクトメイクアップは福岡洋一、音楽は岩代太郎。
主演は江口洋介、共演は市川実和子、原田芳雄、柄本明、松雪泰子、柏原崇、岡元夕紀子、加藤晴彦、六平直政、井田州彦、康喜弼、塩谷俊、阿藤海、大島蓉子、諏訪太朗、山本密、芦川誠、向井智紀、つじしんめい、荒川良々、乾貴美子、綾辻行人、京極夏彦、奥村寛至、嶋田豪、重見成人、前原実、松本雅宏、大谷亮介ら。
元来、日本人は物真似が得意な人種と言われて来た。
外国の製品や文化の真似をして、それを自分達の社会に取り込んでしまうということを、日本人はずっと続けてきたのである。
日本人が社会を形成する中で、模倣は非常に重要なファクターであった。パクリと言ってしまえばそれまでだし、その響きは決して良いものとはいえない。
しかし、模倣することは決して悪いことではない。
この世の中に完全なオリジナルなど存在しないのだし、模倣から優れたモノが生まれるという可能性は、多いに有り得るのだ。重要なのは、単なるパクリで終わるのかということだ。
模倣したモノに新たなアクセサリーを付け加えたり、あるいは他のモノとミックスしたり、あるいはパロディーにしてみるなど、手を加えることによって、元ネタとは違った別の何かを生むことが可能となるし、それは必要なことだろう。例えば人気TVドラマ『古畑任三郎』が『刑事コロンボ』の影響を受けていることは作者も認めているし、視聴者にも分かるだろう。
しかし、だからといって、それが批判されるようなことは無い。
なぜなら、単なるパクリには終わっていないからだ。例えば、こんなケースを考えてみよう。
幾つかの作品からネタを頂戴して、それを組み合わせて1つの作品を作る。
しかし繋ぎ目が荒いために、急に内容が他のところへ飛んでしまう。
上手くまとめられず、ツギハギだらけになってしまう。謎を秘めた要素でさんざん引っ張っておいて、、その意味を放棄する。
意味の放棄を許せるほどの、勢いもパワーも無い。
ネタを幾つも張り付けていくが、中心の部分には細くて弱い芯棒しか用意しない。やたらと大きく広げた風呂敷を、キッチリと処理できずに終わってしまう。
作品が終わった後に不可解な気持ちが残るが、続編を見たいとは感じさせない。
そういった作品なら、「元ネタになった映画を見た方が良かった」と思うだろう。「メディア・コンプレックス」と称した戦略で、巧みにメディアミックスを利用するのは上手いやり方だと思う。それでメディアを乗せて、人々の興味を惹き付けるわけだ。
問題は、盛り上がった期待に、中身が応えられるかということだ。