『ALWAYS 三丁目の夕日』:2005、日本

昭和33年、建設中の東京タワーが見える夕日町三丁目。小さな自動車修理工場“鈴木オート”では、父親・則文と母親・トモエ、小学生の 息子・一平が暮らしている。鈴木家は電気屋にテレビを注文しており、一平は心待ちにしているが、届くのは随分と先になりそうだ。 鈴木オートの向かいの駄菓子屋を営むのは、三流小説家の茶川竜之介だ。彼は何本もの新人文学賞に落選しており、店の売り上げと 子供向け雑誌『冒険少年ブック』の連載『少年冒険団』の原稿料で暮らしている。 
星野六子という少女は、集団就職で田舎から上京することになった。汽車の中から東京の風景を眺めた彼女は、これから就職する大会社 のことを考えてワクワクしている。居酒屋“やまふじ”を始めたばかりの女将・石崎ヒロミは、水商売時代に働いていたゴールデン座の 支配人から、かつての同僚が残していった小学生の息子・淳之介を押し付けられる。
東京駅に到着した六子は、就職先の社長である則文の出迎えを受けた。しかし大会社だと聞いていたのに、行ってみると小さな町工場 だったために六子はガッカリした。茶川は“やまふじ”で酒を飲み、「これからは大人には期待しない。文学で子供を育てる」と愚痴る。 そんな茶川を見て、ヒロミは淳之介の世話を頼んだ。酔った勢いもあり、茶川は淳之介を連れ帰る。
翌日、六子はサイクリングにハマっているタバコ屋の婆さん・大田キンと出会ったり、注射嫌いの一平から「アクマ」と呼ばれている医者 ・宅間史郎を見掛けたりする。目を覚ました茶川は淳之介をヒロミの元へ返そうと連れて行くが、彼女は不在だった。置いて帰ろうとした 茶川だが、淳之介は付いて来た。淳之介を疎ましく思う茶川だったが、彼が『少年冒険団』のファンだと知って機嫌が良くなり、そのまま 家で面倒を見ることにした。
則文は六子が自動車修理の素人だと知り、履歴書にウソを書いたと激怒する。六子が「大会社じゃなく工場だったのもウソだ」と言い返す と、則文は烈火の如く怒って追い掛け回す。履歴書を見た一平は、特技の欄に“自転車修理”と書いてあることを則文に告げる。則文が 字を読み違えていたのだ。則文は六子に謝り、2人は和解した。
夏になった。トモエは置いてあったシュークリームが腐っているのに気付き、捨てておくよう六子に頼んだ。登校日で学校に出掛けた一平 は、淳之介が小説を書いているのを見つけてからかった。しかし小説を読み始めると、一平は没頭してしまった。一方、『少年冒険団』の ネタに困った茶川は、密かに淳之介のノートを読んでいた。
ようやく鈴木家にテレビが届き、近所の人々が集まった。彼らは力道山のプロレス中継を見るが、すぐに映像が消えてしまう。竜之介が 修理を買って出るが、取り返しの付かないほどバラバラに解体してしまう。結局、ただコンセントが不具合を起こしただけだった。六子は 体調を崩し、宅間に食あたりと診断される。彼女は密かにシュークリームを食べていたのだ。宅間は焼き鳥を買って妻子の待つ自宅へ帰る が、道端で中島巡査に起こされて夢だと気付く。宅間の妻子は、空襲で亡くなっていた。
鈴木家には冷蔵庫が届き、トモエは「三種の神器が揃った」と喜んだ。茶川の元には『少年冒険団』最新号が届くが、淳之介には見せない ようにする。一平やクラスメイトと遊んでいた淳之介は、茶川が自分の書いた話を盗用したことを知らされる。しかし駄菓子屋に戻った 淳之介は、「自分の小説が掲載されて嬉しい」と茶川に告げ、涙を浮かべて喜んだ。
秋になった。ヒロミと茶川の話を押入れで盗み聞きした淳之介は、自分の母親・和子が高円寺の和菓子屋にいることを知った。淳之介は 一平に相談し、2人で高円寺へ行くことになった。都電に乗って高円寺へ赴いた2人だが、和菓子屋の主人・静夫は「和子という女性は いない」と告げた。母に会うことに消極的となっていた淳之介は、一平を連れて逃げるように去った。実は和子は店の奥にいたのだが、 夫の静夫に頼んで淳之介を追い返してもらったのだった。
一平と淳之介は帰りの電車賃も無く、途方にくれていた。そんな時、一平はトモエが以前に言っていた「セーターの肘当てにお守りが 入っている。いざという時は使いなさい」という言葉を思い出す。肘当てを開けると、中には紙幣が入っていた。一方、夜になっても一平 と淳之介が戻らないため、鈴木家と茶川は大騒ぎとなっていた。ようやく2人が帰って来た時、茶川は淳之介に平手打ちを浴びせ、「心配 したんだぞ」と泣きそうな顔で告げた。
冬になった。茶川は「ウチにサンタクロースは来ない」と言う淳之介に、欲しいプレゼントを尋ねた。サンタではなく茶川が買うのだと 察知している淳之介は、「鉛筆とノート」と安いものを告げた。茶川は宅間に頼み、サンタクロースの格好で淳之介にプレゼントを渡して もらう。茶川が則文に借金してまで用意したプレゼントは、淳之介が欲しがっていた万年筆だった。
茶川は“やまふじ”でヒロミと2人きりになり、彼女にプロポーズした。金が無くて指輪の箱だけしか買えなかったが、ヒロミは見えない 指輪を「はめて」と茶川に告げた。しかしヒロミは既に、茶川に一緒になれないことが分かっていた。翌日、ヒロミは茶川の前から姿を 消し、ゴールデン座に戻った。茶川は、ヒロミが父親の入院費用で多額の借金を抱えていたことを知った…。

監督&VFXは山崎貴、原作は西岸良平「三丁目の夕日」、脚本は山崎貴&古沢良太、プロデューサーは安藤親広&高橋望&守屋圭一郎、 エグゼクティブプロデューサーは阿部秀司&奥田誠治、撮影は柴崎幸三、編集は宮島竜治、録音は鶴巻仁、照明は水野研一、 美術は上條安里、VFXディレクターは渋谷紀世子、音楽は佐藤直紀、主題歌『ALWAYS』はD−51。
出演は吉岡秀隆、堤真一、薬師丸ひろ子、三浦友和、小雪、堀北真希、もたいまさこ、マギー、温水洋一、小日向文世、 益岡徹、神戸浩、飯田基祐、小木茂光、須賀健太、小清水一揮、石丸謙二郎、奥貫薫、麻木久仁子、ピエール瀧、木村祐一、 松尾貴史、羽鳥慎一、おかやまはじめ、永堀剛敏、村松利史、鈴木浩介、島津健太郎、岡田薫、森林恵理奈、中浜奈美子、 高橋征也、持丸加賀、重本愛瑠、中西台次、白川ゆり、桐山靖、野々目良子、前田こうしん、吉田弘一、岩手太郎、北風寿則、 谷口大悟、今野ひろみ、志水恵美子、大久保美輝、志生野温夫、阿部宏ら。


西岸良平によるビッグコミックオリジナル連載の漫画『夕焼けの詩−三丁目の夕日』(『三丁目の夕日』と呼ばれることもある)を基に した作品。
優しい性格の則文が怒りっぽい頑固親父になっていたり、鈴木オートの従業員・星野六郎が六子という少女になっていたり、 茶川の年齢設定が若くなっていたりと、原作からは設定の変更が幾つか見られる。
茶川を吉岡秀隆、則文を堤真一、トモエを薬師丸ひろ子、宅間史郎を三浦友和、ヒロミを小雪、六子を堀北真希、キンをもたいまさこ、 “やまふじ”常連の丸山と吉田をマギーと温水洋一、淳之介の父・川渕康成を小日向文世、ゴールデン座支配人を益岡徹、淳之介を 須賀健太、一平を小清水一揮、静夫を石丸謙二郎、和子を奥貫薫が演じている。

吉岡秀隆と堤真一の芝居は、揃って悲惨なことになっている。
堤真一の場合は「大仰な演技を要求されたことに問題がある」と擁護できる 余地もあるが、吉岡秀隆に関しては演技力が乏しいと言わざるを得ない。この人は、どうやら「黒板純くん」タイプのキャラをやらせるか、 あるいは芝居をさせないことにしておいた方が良さそうだ。『雨あがる』の時と同じく、ヒドいことになっている。
一方で、女優陣は揃って好演。
薬師丸ひろ子は、それが良いのか悪いのかは複雑なところもあるが、「そこそこマシな下町のオバサン」として 馴染んでいる。堀北真希は、田舎の少女が見事にハマっている。
意外だったのは小雪で、この人は日本人離れした顔立ちだと思うのだが、古い下町っぽい風景に、こんなに馴染むとは思わなかった。キャラクターにも合っている。

これまで『ジュブナイル』『Returner リターナー』とSF作品を手掛けてきた山崎貴監督が、昭和30年代を舞台にした映画に取り組むと いうのは意外だった。
しかし、実際に映画を見てみると納得できた。山崎監督にとって、これは過去2作と同じ「非現実の世界」を表現 する映画だったのだ。
時代設定は昭和33年だが、リアルな昭和33年を蘇らせようとしたのではなく、あくまでも「昭和33年っぽい架空の 世界」を作り上げることに監督は精力を注いでいる。
非現実の世界だから、人々が映画館に行って石原裕次郎にシビれることもないし、栃錦と若乃花の相撲に熱くなることもない。人々が当時 の流行歌を口ずさむことも無いし、銭湯に出掛けることも無い。
東京タワーが建設されたり、ロカビリーが流行したりと、昭和33年を表す ものが無いわけではないが、それは形式的に取り入れたという感じであり、テレビを除けば思い入れは皆無だ。
なぜなら、そこは現実の昭和33年ではないからだ。
リアルな昭和33年ではなく、昭和33年っぽい架空の町を表現したからこそ、その時代を経験していない人々にも ある種のノスタルジーを感じさせることに繋がっているのかもしれない。

この映画がノスタルジーを最大の、そして唯一の売りにしていることは明白だ。セットとVFX、そして過剰に盛り上がる音楽によって、 観客のノスタルジーを喚起しようとする。
監督としては、舞台を整え、ノスタルジックな雰囲気を作り上げたところで、ほとんど仕事は 終わったと考えたのだろう。
だからドラマの中身に関しては、全くと言っていいほど力を使っていない。
いわゆるお涙頂戴系のエピソードを中心に集めているが、ストーリーテリングをしようという意識は薄い。オムニバス形式になっているが 、物語を繋いでいく気が無いのだと言ってもいい。基本的にはセリフによって多くを説明しており、削ぎ落とし作業をすべきところを放置 し、間延びしたり無駄な場面が入ったりしてもお構い無しの状態となっている。
例えば、ヒロミが茶川に淳之介を預けるシーン。
ここはヒロミが「先生になら頼めるかな。でもダメかも」と言って茶川が困惑した後、そこで居酒屋のシーンを切って、次に駄菓子屋に茶川と淳之介がいるシーンに移行した方がいい。
ついでに言うと、茶川が居酒屋を去った後、ヒロミと常連客が喋るシーンなど要らない。すぐに茶川と淳之介の反応を見せるべきだ。
そのように、削れる箇所、削るべき箇所でも、そのままズルズルと垂れ流し状態にしてあるのだ。

では全て垂れ流しにしてあるのかというと、そうでもない。
茶川が金を渡して淳之介を駄菓子屋から追い払おうとするシーンでは、ワイプで時間経過を表現する雑な編集を見せる。
ここでワイプによって時間を経過させる必要性など全く無いにも関わらず、である。
ようするに、監督は全て垂れ流しなのではなく、シーンの繋ぎ方に無頓着なのだ。
淳之介が自作のファンだと茶川が知るシーンでは、熱烈な読者だと知らされた茶川の反応をその場で見せず、ひとまずシーンを終わらせ、 訪れたヒロミに茶川が説明するという形で嬉しい気持ちを表現させている。
ここは、本来ならば、淳之介がファンだと言った直後に、茶川の反応を示すべきところなのだ。
いかにドラマ演出に力が入っていないかが良く分かる。

則文が六子の履歴書詐称を巡って激怒するシーンでは、一平が履歴書を見て父親に呼び掛けた後、ワイプでカットを割っている。
だが、そもそも則文が暴れて追い掛け回す大げさな展開そのものが要らないし、則文が激怒してすぐに一平が履歴書のことを指摘すればいい。
ワイプで時間を経過させる必要性はゼロだ。
このように妙なところで編集を入れているが、しかし基本的には垂れ流す方向性が強いので、この内容なのに2時間15分という時間が費やされる。
一平が肘当てのお守りのことを思い出すシーンでは、肘当ても、それを見る一平の顔も、お守りの中身もアップにしない無頓着ぶり。
淳之介が父と共に茶川の元を去るシーンでは、無駄なカットが多いというだけに留まらず、別れのシーンと茶川が追い掛けるシーンの間に 別のエピソードのシーンを挿入するという無頓着ぶりまで見せる。
監督の無頓着ぶりは、クリスマスのエピソードで最高潮に達している。
サンタクロースの正体を平然と明かし、「親が幼い子供を連れて映画館へ行く」というファミリー映画としての在り様をバッサリと排除 してしまうのだ。

これはきっと、ある種の実験だったのだ。
「ノスタルジーを喚起するような舞台装置さえ仕立て上げておけば、その上に材料を置いただけで 放置しても、あるいは変な調理方法を採用したとしても、観客を惹き付けることは可能なのか」という実験だ。
結果、この映画は「昔は良かったけど、後ろばかり振り返らず明日に向かって生きようよ」ではなく、「昔は良かったね」で終わるノスタルジー映画として 大ヒットを記録し、続編の製作も決定した。
つまり、実験は成功に終わったということだ。

 

*ポンコツ映画愛護協会