『愛する』:1997、日本

製綿工場で働く18歳の森田ミツは、同僚のヨシ子と出掛けた臨海副都心で吉岡努という青年と出会った。努は沖縄酒場にミツを誘い、旅館に連れ込んで肉体関係を持った。しかし努は最初からミツを遊び相手としか見ておらず、彼女の前から姿を消した。
それから1ヶ月後、ミツは製綿工場が潰れたため、ヨシ子と共に場末のバーで働いていた。ヨシ子は銀座の高級クラブで接待をしている努を目撃し、ミツと引き合わせた。ミツは再び以前の旅館で努と寝た。努は彼女と一緒に暮らすことにした。
ミツは原因不明のアザが腕に現れたため、大学病院で調べてもらう。彼女は医者から、長野県の安曇野にある“信愛園”という療養所へ入院し、精密検査を受けるようにと告げられた。信愛園に出向いたミツは、自分がハンセン病と診断されたことを知る。
ミツは同室になった初老の女性・加納たえ子から、ハンセン病患者が差別されてきた歴史について聞かされる。たえ子は病気が完治しても、信愛園から出ることが出来ずにいた。患者は完全に隔離されるため、上條老人などは80年間も療養所で生きてきた。やがてミツはハンセン病という診断が誤診だと判明し、信愛園を去るのだが…。

監督&脚本は熊井啓、原作は遠藤周作、製作は山口友三、製作総指揮は中村雅哉、撮影は栃沢正夫、編集は井上治、録音は久保田幸雄、照明は島田忠昭、美術は木村威夫、音楽は松村禎三。
出演は酒井美紀、渡部篤郎、岸田今日子、小林桂樹、上條恒彦、三條美紀、松原智恵子、宍戸錠、岡田眞澄、西田健、梶原美樹、絵沢萠子、鴨川てんし、磯西真喜、梶原美樹、大竹周作、野口雅弘、紀原土耕、小林翼、桂小かん、近江大介、賀川幸史朗、石崎啓二、真実一路、村木仁、高師健太、日原のゆり、山下真広、小野沢知子、熊田正春、荒井美奈子、YANAGIYA V。


遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』を基にした作品。
新生日活(“にっかつ”から“日活”に戻った)の第1回作品(ちなみに熊井監督は日活出身)。
遠藤周作の原作を熊井監督が取り上げるのは、『海と毒薬』『深い河』に続いて3度目。
ミツを酒井美紀、努を渡部篤郎、たえ子を岸田今日子、上條老人を小林桂樹が演じている。

ミツが製綿工場に勤めているとか、会社が潰れて場末のバーで働き始めるとか、努がラブホテルではなく旅館にミツを連れ込むとか、そういった設定は全て原作を忠実に守ろうとしているようだ。しかしながら、時代だけは現在、つまり1997年に置き換えている。最初に臨海副都心を映し出したところで、これっぽっちも1990年代に見えない。
そう、この映画は明らかに古い時代、もっとハッキリ言えば1960年代が舞台になっているとしか思えない。状況設定も古いし、セリフ回しも古めかしいし、演出だって古臭い。だが、どう考えても、それは意識的に狙ってやっているとしか思えない。

意図的に古臭さを狙っているのであれば、それはそれで、まあ別にいいとしよう。いや、「古臭い日活メロドラマを、今の時代に遅れ馳せながら作ってどうすんのか、何の意味があるのか」という疑問は大いにある。大いにあるのだが、ひとまず置いておこう。
その古めかしさを意図的に狙っているのだとして、にも関わらず時代設定だけは現代にしている意味が分からない。普通に1960年代という設定で物語を進めて行くべきでしょうに。これを1997年という時代設定で見ると、ただの時代錯誤でしかない。

この映画には、色々と不可解なことがある。例えば、ミツは努が消えた後でアパートは訪れるが、沖縄酒場へは足を向けない。病院で病名が明かされないまま、ミツは診療所に送られる。なぜかミツは、あれだけ好きだった努に何の連絡もせずに診療所に戻る。
そのように、ちょっと容易には理解できないような個所が幾つか存在する。この手の「社会問題を糾弾する社会派映画」で、その辺りを御都合主義で済ませることは、なかなか出来ない。いや、やろうと思えば幾らだって出来るけど、やっちゃいけない。

この映画は中途半端にフェリーニの『道』を始めておいて、途中からは全く違う道を歩き始める。「心の屈折した男がね無償の愛を捧げた女への悔恨に打ちひしがれる」という筋は消える。これだ努は見舞いに行こうとしているし、ミツは自らの意志で努の元に戻ることを拒否しているし、「男が女を棄てる」というのとは全く別の話になっている。
最初はミツと努の男女の関係で始まるが、途中でミツが診療所に入ってからは、一気に「ハンセン病に対する差別を訴える」という方向に走り出す。そこからは、完全に告発モード一辺倒となる。努なんて、何の意味も無い存在と化してしまう。

どうも熊井監督は社会的なメッセージを強く訴えたがる人のようで、この映画でもハンセン病患者への差別を訴えるという部分に焦点が当てられる、で、努とミツの関係は、どうでも良くなってしまう。だったら、この原作を使う意味はあったのだろうか?努とミツの関係なんて、スッパリと削除しても何の支障も無い。むしろ余計だろう。
たえ子のセリフは、ものすごく説明臭くなっている。ミツのモノローグも、いちいち説教臭い。とにかくハンセン病に対する差別を告発したい気持ちで一杯なのだろう。だが、「差別」という言葉を簡単に口に出してしまうことで、逆に陳腐に、安っぽくなっている。もちろんメッセージなんて全く届きやしない。その前に、疎ましさが強く伝わって来る。

 

*ポンコツ映画愛護協会