『愛の流刑地』:2007、日本

作家の村尾菊治は、仕事部屋で不倫相手の入江冬香と情事にふけっていた。冬香が「お願い、殺して」と頼むので、村尾は彼女の首に両手を回した。冬香が「お願い、やめないで」と懇願し、村尾は「愛してる」と言いながら力を強めて首を絞めた。冬香が目を閉じてガックリと倒れ込み、村尾は「どうした?」と問い掛けて頬を撫でる。目を閉じて動かなくなった冬香の死を悟り、村尾は激しく狼狽した。
しばらく呆然として部屋にいた村尾は、服を着て屋上へ出た。飛び降りようとした村尾だが、怖くてできなかった。部屋に戻った村尾は、冬香に寄り添った。彼はベッドの下に置いてあるテープレコーダーを手に取り、録音した情事の音声を聴いた。冬香の死から5時間ほど経過した頃、別れた妻・佐和と一緒に暮らしている村尾の娘・高子から電話が掛かって来た。法事の確認が目的だったが、村尾の耳には娘の声が全く入って来ない。
電話を切った後、村尾は冬香の携帯を手に取り、彼女が子供たちと一緒に写っている写真を見た。村尾は警察に通報し、人を殺したことを告げた。刑事の脇田俊正や関口重和たちがマンションに駆け付け、現場検証に取り掛かった。マスコミや大勢の野次馬が集まる中、村尾は警察署へ連行された。脇田が調書を取る際に「セックスの最中に戯れで殺してくれと彼女が言った」と口にすると、村尾は「違う。戯れではなく、私たちは真剣に」と声を荒らげた。
冬香が苦しんだことも村尾は否定し、「殺す気は無かった。ただ、彼女が望む通りにしてやりたかった。それだけです。彼女が言ったんです。この最高の喜びの時に死にたいと」と語る。取り調べの様子を、検事の織部美雪と地検副部長の稲葉喜重が見学していた。稲葉は性的関係のある美雪に、その事件の担当を命じていた。美雪は大阪へ行き、冬香の友人である魚住祥子と会った。祥子は「こうなるかもしれないって思ってました」と美雪に告げた。
女性誌の記者だった祥子は、村尾と知り合いだった。村尾が取材で京都へ来た時、祥子が冬香を紹介した。それが村尾と冬香の出会いだ。祥子は長いスランプに陥っていた村尾を励ます目的で、熱烈なファンである冬香を連れて行ったのだ。冬香は、村尾が若い頃に執筆した『恋の墓標』に感動し、何度も読んだと語る。持参した『恋の墓標』に村尾がサインして冬香のフルネームも書こうとすると、彼女は「名前だけでいいですか。冬香で」と頼んだ。
冬香は秘密主義なので、村尾と不倫関係に陥っても祥子には隠していた。だが、祥子は冬香の変化に気付いていた。それでも彼女は、村尾に良い小説を書いてもらうため、不倫を止めようとはしなかった。村尾は再び冬香に会いたいと思い、連絡を取る。時間の都合が付かないという返事が来ても彼は我慢できず、「どうしても会いたい。2時間だけでも」とメールを送って京都へ向かった。上賀茂神社へやって来た冬香に、村尾は「新しい小説を書き始めようと思います」と告げた。
村尾が「書きあげたら、真っ先に貴方に読んでもらいます」と言うと、冬香は感激して「ただ嬉しいです」と口にする。「また会ってくれますか」と村尾が告げると、彼女は「私なんかで本当によろしいんですか」と尋ねる。村尾は「もちろんです」と言い、彼女に熱烈なキスをした。子供を預けているという冬香は立ち去り、村尾は東京へとんぼ帰りする。本当に2時間程度の逢引きだった。その後も村尾が京都へ新幹線で通い詰め、2時間ほど会ってデートするだけの関係が続いた。ホテルで体の関係も持った。
村尾は菊池麻子がママを務める行き付けのバーで友人の中瀬宏と会い、冬香のことを話した。中瀬は「恋に落ちてしまったというわけだな。俺なんか、この年になっても、いい女に出会ったところで手が出ない。出したところで、どうなるものかと思って何も出来なくなってしまう」と語り、「また書けるようになるかもな。言ってたじゃないか、恋愛でもしたら書けるようになるかもしれないなって。恋は唯一、書く情熱と両立するんだ」と告げた。
村尾は募る思いを抑え切れず、「貴方を思う夜は、少年に戻った気分になります。会えない夜が辛すぎます」とメールに綴る。しかし3人の子供を持つ冬香は、「そんなお気持ち、勿体無いです。私だって辛すぎます。でも私、どうしたらいいのか。やっぱり、行けません」と迷いを吐露する。それでも村尾の「僕は幸せです。どんな時に幸せか。頭と体で貴方を思う時です。その幸せを確かめるために、僕の気持ちはもう新幹線に乗っています」という情熱的な言葉を読むと、冬香はホテルで彼と会って激しい情事に及ぶのだった。
拘置されている村尾の元へ、高子が面会にやって来た。彼女は笑顔で村尾に声を掛け、「大丈夫?」と言う。「色々と迷惑を掛けた」と村尾が詫びると、高子は「そんなこと、気にしなくていいよ」と告げる。「あの人には殺してくれる愛人が必要だったのよ。あの人には元々、自殺願望があったのよ。お父さんは悪くない。利用されただけなんだよ」と泣き出す高子に、村尾は「分かったよ」と告げた。高子は立ち去る際、「私は絶対、無実だと思ってるからね。お父さんのこと、信用してるからね」と述べた。
正月に冬香が富山へ帰郷した時には、飛行機で村尾の元まで会いに来た。冬香は「「初めてお会いした時とは別の人間になっているんでしょうね。先生が私を作り変えてしまった。どこまで行ってしまうのか、自分でも怖いぐらい。でも私、ホントに生きてるって感じがする」と語り、自ら服を脱いで激しい情事を求めた。冬香は夫の徹が東京へ転勤したことに伴い、一家で神奈川へ転居した。距離が近くなったことで、村尾と冬香は頻繁に会って肉体関係を持つようになった。
裁判の日程が決まり、菊治の元を担当弁護士の北岡文弥が訪ねて来る。第一回公判は、村尾と冬香が最初に出会ってからちょうど1年後だ。北岡が「検察は殺人罪を主張するでしょう。明確な殺す理由が無くても、相手が死んでも仕方がないとは思っていたわけですから」と話すと、村尾は驚いて「私は彼女が死ぬなんて少しも思っていなかった」と反論する。しかし「首を絞めれば人は死にます。その認識は村尾さんにもあったはずだ」という北岡の言葉に、村尾は黙り込んでしまった。
「殺して、という言葉を聞くようになったのは、いつ頃からですか」と北岡に問われた村尾は、過去を振り返る。冬香の誕生日、村尾は彼女を連れて外出した。レストランで夕食を取りながら、冬香は「今まで生きてきた中で、今日が一番幸せ。もう死んでもいいぐらい」と言う。軽く聞き流した村尾だが、冬香は「私、いつでも死ねるわ。貴方は死ねますか。私のために」と問い掛ける。村尾が首を横に振ると、彼女は「男の人って正直」と微笑した。
村尾が「違うんだ。君と会うまでの僕は、何年も死んでいた。書けない作家なんて、ネズミを取らない猫と同じだ。でも君と出会ってから、もう一度、物書きとして生き直せるようになった。この『京都の熱情』を納得のいく作品に仕上げて、君に捧げたい。僕は君と一緒に生きたいんだ」と語ると、冬香は「嬉しい」と漏らした。しかし旅館で情事に及んでいると、冬香は「お願い、殺して」と頼んで来た。村尾が首に手をやると、彼女は嬉しそうに「このまま殺して」と言う。冬香が意識を失ったので、慌てて村尾は頬を叩く。目を開けた冬香は、「意気地なし。どうして殺してくれなかったの?」と口にした…。

監督・脚本は鶴橋康夫、原作は渡辺淳一 『愛の流刑地』(幻冬舎刊)、製作は富山省吾、企画は見城徹、プロデューサーは市川南&大浦俊将&秦祐子、協力プロデューサーは倉田貴也、製作統括は島谷能成&三浦姫&西垣慎一郎&石原正康&島本雄二&二宮清隆、プロダクション統括は金澤清美、撮影は村瀬清&鈴木富夫、編集は山田宏司、録音は甲斐匡、照明は藤原武夫、美術は部谷京子、音楽は仲西匡&長谷部徹&福島祐子、主題歌は平井堅 『哀歌(エレジー)』。
出演は豊川悦司、寺島しのぶ、長谷川京子、仲村トオル、津川雅彦、富司純子、陣内孝則、浅田美代子、余貴美子、佐藤浩市、高島礼子、松重豊、佐々木蔵之介、本田博太郎、貫地谷しほり、六平直政、三谷昇、木下ほうか、阿藤快、中村靖日、森本レオ、品川徹、鍋本凪々美ら。


日本経済新聞の朝刊に連載された渡辺淳一の同名小説を基にした作品。
監督&脚本は『永遠の仔』『天国への階段』の鶴橋康夫。TVドラマの演出家として長いキャリアを持ち、ギャラクシー大賞や放送文化基金賞など数々の賞を獲得して「芸術祭男」の異名を持つ鶴橋だが、映画を撮るのは本作品が初めてだ。
菊治を豊川悦司、冬香を寺島しのぶ、美雪を長谷川京子、徹を仲村トオル、中瀬を津川雅彦、冬香の母・文江を富司純子、北岡を陣内孝則、祥子を浅田美代子、麻子を余貴美子、脇田を佐藤浩市、佐和を高島礼子、関口を松重豊、稲葉を佐々木蔵之介、久世裁判長を本田博太郎、高子を貫地谷しほりが演じている。

まず根本的な問題として、寺島しのぶが明らかにミスキャスト。
この人は決して演技力が足りないわけではないんだけど、このヒロインを演じるにはエロさが致命的に欠けている。
『化粧』の松坂慶子にしろ、『ひとひらの雪』の秋吉久美子にしろ、『化身』と『失楽園』の黒木瞳にしろ、映画の仕上がりはともかく、エロさは間違いなく放っていた。
寺島しのぶには、それが無い。
「初めて出会った時に村尾が目を奪われる」というのも、容姿を含めて説得力が無い。

「最初は母親や妻としての生活に染まり過ぎてオバサン臭が強くなっていたが、村尾と出会って情欲の歓びを取り戻し、次第に艶っぽさが出てくる」ということではなく、村尾と出会ってセックスに溺れるようになってもエロスは醸し出されない。
全裸で情事にふけるシーンになっても性衝動を刺激されないんだから、そりゃあ厳しい。
この映画で、そこにエロスが無いってのは致命的な欠陥と言わざるを得ない。
ぶっちゃけ、ソフトポルノ映画みたいなモンだからね、これって。

おまけに、演出でエロスの部分を補おうという意識も感じない。
いや、実を言うと、エロスを補おうという意識は、全く無いわけじゃない。
長谷川京子を「無駄にエロスを撒き散らす女」として描いているのは、たぶんヒロインに足りないエロスを補おうという目的なんだろう(そうでないとすれば、何のためにやっているのかサッパリ分からない)。
だけど、ヒロインに足りないエロスを別の女で補っても、本質的な部分は不足したままなので全く意味が無いのだ。

とにかく、本作品が何よりもヒロインに求めているはずのエロスは、明らかに冬香よりも美雪が発揮している。
しかも「少しだけ上」とかいうレベルじゃなくて、圧倒的な差がある。
村尾と話す際には上着を脱いでノースリーブになり、胸元も大きく開いている。そして誘惑しようとしているのかと思わせる素振りを示す。
村尾の録音した情事のテープを聴いて発情し、稲葉にセックスを求める。

物語の上では、美雪がエロスを振り撒く必要も、稲葉との濡れ場を挿入する必要も、全く無い。もっと言っちゃうと、美雪というキャラ自体を削除したところで、特に問題は無い。
しかしエロスの部分だけを捉えると「美雪をヒロインに据えればいいじゃねえか」と感じることは確かだ。
ただし演技力の部分は、逆の意味で寺島しのぶと長谷川京子には圧倒的な差がある。
だから、「長谷川京子に寺島しのぶの演技力があれば鬼に金棒で、間違いなくヒロインにふさわしかったのになあ」と思うね。
年齢設定としてはヒロインに合わないのかもしれないが、演技力さえ伴えば、そこを度外視してもヒロインに据えたくなるぐらい、この映画におけるハセキョーは無駄にエロいのだ。

ただしハセキョーは、雰囲気としてはエロいけど、胸元を強調したり肩を見せたりするだけで、ヌードを見せるわけではない。稲葉との濡れ場も、服は全く脱がない。
そこは大きなマイナスだ。
渡辺淳一作品でエロさを振り撒くなら、まずは脱がないと話にならないからね。それを拒否していたら、ヒロインは務められない。
ちなみに、寺島しのぶがヒロインを演じることになったのも、「バンバンと大胆に脱ぎまくってくれる女優が、なかなか見つからなかった」というのが理由だし。

主人公がどうしようもないバカだったおかげで、これは渡辺先生が言うところの「不倫という純愛」を描いた作品に仕上がっている。
だが、もう少し分別のある人間だったら、サイコ・サスペンスになる可能性を秘めた物語だ。
というのも、ザックリと表現するならば、これは「一人の作家がイカれた女性ファンに捕まってしまった」という話だからだ。
実はスティーヴン・キングの『ミザリー』にも通じる部分がある内容なのだ。あるいは『恐怖のメロディ』や『危険な情事』でもいいけど。

何がイカれてるって、そりゃ「本当に愛してるなら、私を殺して」と懇願して来るんだぜ。もはや説明不要でしょ。どう考えたってヤバい女でしょ。
だから、ちょっと利口な男、っていうかマトモな男だったら、「うわあ、軽い気持ちで不倫したのに、面倒な女に引っ掛かってしまった」と考えて、距離を置こうとするだろう。
で、それでも女がセックスの中で殺されることを望んで執拗に付きまとい、男が恐怖を感じる、という展開になれば、それはサイコ・サスペンスになるわけだ。
幸いにも(むしろ作品としては不幸なのかもしれないが)、これがサイコ・サスペンスにならなかった原因は、冬香だけでなく菊治も感覚がイカれている奴だったからだ。
そのおかげで、セックス中に殺すよう求めれても菊治はヤバイ女だという拒否反応を示さず、「自分は必要とされている」「自分は特別な存在だ」と思い込み、冬香にとって(そして物語にとって)都合のいい男になってくれたのだ。

愛の絶頂で死にたがる自己陶酔型の女と、彼女を殺してやることで選ばれし人間だと悦に入る自己陶酔型の男が、周囲に迷惑を掛けまくり、何の反省もせずに自分たちの身勝手を貫く。それを「究極の愛」と呼ばせようとする、そんな作品である。
「本気で人を愛したら、周囲のことなんて目に入らないものだ」と言われたら、確かにそうかもしれない。
だから、ひょっとすると、ここには究極の愛が描かれているのかもしれない。
ただし、それに共感できるのか、魅力的に思えるのかと問われたら、答えはノーだ。

むしろ、「共感できない」とか「魅力的に思えない」というレベルではなくて、不愉快で醜悪だと感じる。こいつらの身勝手さにヘドが出そうになる。
そして、クソみたいな男女に不快感を抱く一方で、冬香の子供たちや高子への同情心が沸く。
冬香は不倫相手とセックスしまくって恍惚の中で死ぬことで満足できたかもしれんが、残された子供たちのことなんて全く考えていない。
成長した子供たちが母親のことを知ったらどう思うか、っていうか、それを知っている周囲の人間からどういう目で見られるか、そんなことを冬香は全く考えない。
テメエさえ満足できれば、周囲にどれだけ迷惑を掛けようと、家族を不幸にしようと、平気なのだ。

高子に関しても、父親が不倫相手を殺して刑務所に入ったら、間違いなく彼女の心には深い傷が生じる。
周囲から白い眼で見られたり、誹謗中傷を受けたりすることも有るだろう。彼女が幸せになれる可能性は、著しく低いと言わざるを得ない。
そんな風に娘を不幸にしておいて、菊治は何の罪悪感を抱かず、「俺は選ばれた殺人者だった」と満足感に浸るばかりだ。
そんな奴を「究極の愛に生きた男」として肯定することなんて、ワシには無理だわ。

この映画では高子を「父親を心配し、擁護する娘」として描くことで菊治の行動を正当化しようとしているけど、そこも無理を感じるだけ。
父親が不倫して、その相手を殺害したのに、娘が面会に訪れて笑顔で話し掛けたり、「お父さんは悪くない。利用されただけ」「信用してるからね」と言ったりするなんて有り得ないわ。
そんな父親、信じられるトコなんて何も無いだろ。
冬香については「夫が冷たい男」と彼女に説明させることで不倫や死を望むことを正当化しようとしているが、前述のように子供たちが犠牲になっているし。

渡辺淳一先生の考えに基づくならば、この映画で描かれているのは、純愛の極みにおける至上の愉悦ということになるのだろう。
だから、それを「イカれた自己陶酔に浸っているバカな男女の、全く共感を誘わない話」にしか思えなかった私は、間違いなく感性が鈍いのだ。
でも、これを素晴らしい純愛劇だと思って共感できる感性なんて、これっぽっちも欲しいとは思わない。それが優れた感性だというのなら、鈍くて結構だ。
どうせ渡辺先生と違ってモテない人間だから、モテまくり人生だった先生が到達した感覚になるのは無理だし。

裁判のシーンで、菊治は「愛は法律なんかで裁けるわけがない。何もかも違う。誰も本当の冬香を知らないんだ。どうやって説明すればいいんですか。死にたくなるほどの喜びを。彼女は微笑んで死んでいったんですよ。殺意の、依頼のと、貴方がたは屁理屈ばかり言っている。そんなものは何の関係も無い」と涙ながらに熱く訴える。
だが、こっちは「はあっ?」としか思わない。
それで観客の心を打とうとしていることは良く分かるが、何も響いて来ないわ。
ただ呆れるだけだ。

(観賞日:2014年5月27日)


第4回(2007年度)蛇いちご賞

・女優賞:長谷川京子


2007年度 文春きいちご賞:第4位

 

*ポンコツ映画愛護協会