『愛情物語』:1984、日本

仲道美帆は16歳の誕生日、母の仲道治子とミュージカル『カーテン・コール』を観劇した。ずっとクラシックバレエを習って来た美帆だが、辞めて『カーテン・コール』のオーディションを受けると決めている。美帆は養母の治子と2人暮らしで、その関係は良好だ。その夜、美帆の元には、あしながおじさんから花束が届いた。毎年、誕生日になると年の数だけ花束が届くのだ。あしながおじさんの正体は不明だが、美帆は自分を赤いトゥー・シューズと一緒に捨てた父親だと確信していた。
美帆はトゥー・シューズを足に通し、「とうとう履けた。これであしながおじさんに会える」と喜んだ。ずっと前から、彼女は「トゥー・シューズを履けるようになったら、あしながおじさんを捜しに行ってもいい」と治子と約束していたのだ。治子は「世の中には知らない方がいいこともあるのよ」と言うが、美帆の決意は変わらなかった。彼女は花屋へ赴いて嘘をつき、花の送り主が金沢に住む篠崎拓次という男性だという情報を得た。今年の花は長崎の大浦花店から届いていたが、店長は旅先から送ったのだろうと述べた。
美帆は荷物を鞄に入れて、出発の準備を整えた。治子は25歳で彼女を拾ってから、ずっと独身のままだった。オーディションが1週間後に開かれるため、それまでに帰ってくると告げて美帆は金沢へ向かった。陶芸家の篠崎拓次は窯で仲間の中山と作業をしていたが、土に満足できなかった。彼は中山に、旅に出て各地の窯を訪ねたり合う土を探したりする考えを明かした。そこへ美帆が来て、花束を贈ったことについて篠崎に尋ねる。しかし篠崎には全く覚えが無く、事情を聞いて「気の毒だが、人違いだ」と告げた。
美帆は篠崎にトゥー・シューズを見せようとするが、鞄が無くなっていた。鞄は道路に投げ出されて荷物が散乱し、財布の中身が抜かれていた。篠崎は彼女に紙幣を差し出し、「貸してあげるから、東京へ帰りなさい」と告げた。それから彼は、知人が営む旅館に美帆を案内した。翌朝、篠崎が伊万里へ向かうため列車に乗っていると、美帆が現れて向かいの席に座った。彼女は中山に行き先を教えてもらったと話し、長崎は伊万里の近くなので一緒に連れて行ってほしいと篠崎に頼んだ。
篠崎が東京へ帰るよう促すと美帆は拒み、「おじさんがホントに人違いかどうか分かんないんだもん」と言う。列車を降りた篠崎は、美帆に改めて東京へ帰るよう告げる。美帆が席を外した隙に、彼は姿を消した。美帆はタクシーを拾い、港からフェリーに乗った。埠頭で翌朝を迎えた彼女は、フェリーでやって来た篠崎を見つけた。篠崎は驚き、同行を承知した。窯元を訪ねた時、篠崎は美帆について「妹さんかと思いましたが、すぐにそんなはずはないと思いましたよ」と言われる。美帆が「妹さん、いるの?」と訊くと、彼は答えなかった。旅館に泊まった時、美帆は篠崎がバンダナに包んであった写真を発見する。写真には若い女性が写っており、裏には「妹 真理 享年十八歳」と書かれていた。
翌日、美帆と篠崎はフェリーと電車で移動し、長島という男の窯を訪れた。美帆が風邪をひいて熱を出したので、篠崎は旅館に運んで薬を飲ませた。美帆は回復し、篠崎は彼女を連れて次の場所へ向かう。その道中、美帆が写真を見たことを告白すると、篠崎は妹が自殺だったことを話した。彼は美帆に、「明日、長崎へ行こう。君のあしながおじさんを捜しに行こう」と告げた。2人が大浦花店を訪れると、店主の大浦は匿名の人物が花代を送って来たこと、送り主が匿名だと困るので本にあった篠崎の名前を拝借したことを釈明した。
佐川写真家の前を通り掛かった美帆は、母と娘が並んでいる七五三の写真に目を留めた。その娘が幼少期の自分だと確信した彼女は店主の佐川に質問し、写真の母親が大森家の人間だと知った。店主から聞いた屋敷の場所へ向かった美帆は、この景色、見たことがあるみたい」と呟いた。洋館に着いた彼女は「1人で会ってみたい」と言い、篠崎に外で待つよう頼む。美帆が玄関のブザーを鳴らすと、秘書のような女性が顔を出した。美帆が名乗ると彼女は招き入れ、ソファーに座って待つよう促して奥の部屋に引っ込んだ。
美帆がトゥー・シューズを出して待っていると、ネグリジェ姿の女性が現れた。彼女は「私のよ」とトゥー・シューズを掴み、2階の部屋に駆け込んだ。秘書が戻って来て、「ご主人は多忙でお会い出来ません」と告げる。美帆は彼女を押しのけて、2階へ向かった。奥の部屋に入ると、暖炉の近くにいたバレリーナ姿の女性が立ち去った。美帆が追い掛けようとすると、屋敷の主人である大森泰三が現れた。美帆は写真を見たと告げ、真実を明かすよう求めた。すると泰三は、妻の妙子が美帆を引き取った頃から精神を病んだこと、妙子の学生時代の親友である治子に美帆を引き取ってもらったこと、美帆の両親が交通事故で亡くなっていることを説明した…。

監督は角川春樹、原作は赤川次郎、脚本は剣持亘、プロデューサーは菅原比呂志&久里耕介、撮影は仙元誠三、美術は今村力、照明は渡辺三雄、録音は瀬川徹夫、編集は鈴木晄、音楽は甲斐正人、ダンス・コーディネーターは小林英六郎、音楽監督は甲斐正人、音楽プロデューサーは高桑忠男&石川光、主題歌『愛情物語』は原田知世。
出演は原田知世、倍賞美津子、渡瀬恒彦、加賀まりこ、ジョニー大倉、室田日出男、太宰久雄、山口敦子、梅野泰靖、村田香織、きたむらあきこ、滝川昌良、津田ゆかり、荒川努、日野道夫ら。


『あしながおじさん』をモチーフにした赤川次郎の同名小説を基にした作品。
美帆を原田知世、治子を倍賞美津子、篠崎を渡瀬恒彦、妙子を加賀まりこ、中山をジョニー大倉、泰三を室田日出男、大浦を太宰久雄、花屋の店長を山口敦子、佐川を梅野泰靖が演じている。
監督は『汚れた英雄』に続いて2作目となる角川春樹。
当初、彼は『時をかける少女』で起用した大林宣彦に原田知世の主演作を何作か続けて任せるつもりだった。しかし撮影現場を見学して2人の様子に嫉妬心を抱き、「自分が原田知世を演出したい」ってことで監督することに決めたらしい。
なんちゅう器の小さい人なんだよ。

この作品、タイトルロールもエンドロールも存在しない。だから関わったキャストもスタッフも、映画の中では誰の名前も表記されない。
もちろん意図的な仕掛けであることは明らかなのだが、それによって得られるメリットなんて何も無い。「普通にエンドロールを付ければいいのに」と思うだけだ。
後述するが、それ以外にも様々な趣向が凝らされている。
角川春樹は自分の思い付いた技巧を色々と盛り込もうとしているのだが、ことごとく外している。

映画のオープニングでは、ニューヨークの街を模した屋内セットが使われる。そしてアメリカ人のダンサーたちが、歌に合わせて踊り出す。
ヒロイン役の女性が歌っているわけではなく、歌はBGMとして流れている。
そんな様子が5分ぐらい続き、「これは何を見せられているんだろう」と思った頃、それを客席から観劇している美帆と治子の姿が映し出される。そして、それが『カーテン・コール』の舞台であることが明らかにされる。
ただ、ミュージカルを捉えるカメラワークは完全に映画としての動きをしていたのに、「実は舞台でした」ということになるのは、見せ方として失敗だと思うぞ。

っていうか、それが主要キャストの出演しているミュージカルならいいけど、誰だか良く分からない外国人ばかりのミュージカルから映画を始めるという構成は、イカれているとしか思えないぞ。
しかも恐ろしいことに、「ヒロインがミュージカルのオーディションを受ける」という設定は、メインの物語に結び付かないのだ。
冒頭のミュージカルシーンの後、すぐに「美帆があしながおじさんを探す旅に出る」というロード・ムービーに突入するのだ。
だからクラシックバレエを長くやっていたとか、ミュージカル女優を目指すとか、そういう設定は、ほとんど意味が無いのだ。

映画が始まってから10分ほど経過すると、幼少期の美帆がクラシックバレエを踊る様子が映し出される。そこから現在の美帆に切り替わり、クラシックバレエを踊る。
カットが切り替わると、今度は美帆がジャズダンスを踊る。分割画面を使いながら、3分ぐらい使って贅沢にダンスシーンを見せる。
それが終わると挿入歌を流し、美帆が自転車を走らせて帰宅する様子に2分ほど使う。ここも贅沢な時間の使い方になっている。
そんな感じで、なかなか話を先に進めようとしない。

篠崎の窯に着いた美帆は、鞄を外に置いたまま中に入って行く。そしてトゥー・シューズを見せるため鞄を取りに行くと、道路に中身が散乱している。
でも、そもそも鞄を外へ置いたまま窯に入る行動が不自然。鞄を持ったまま入ればいいでしょ。何の不都合も無いでしょ。
一方、鞄を盗んだ泥棒の行動も不自然で、そのまま逃走すればいいでしょ。なぜ窯の前にある道路で鞄を開けて、中身を全て散らかすのか。
鞄が重すぎて持ち運べないってわけでもないでしょ。それに、鞄の中身を出して調べていたら、時間が掛かるでしょ。

篠崎は列車に美帆が現れた時、東京へ帰るよう促す。しかし美帆が「おじさんがホントに人違いかどうか分かんないんだもん」と言うと、軽く笑って「本人が違うって言ってるんだから」と告げる。
その柔和な態度は、旅への同行を受け入れたかのように見える。
ところが列車を降りた後、レストランのシーンになると、厳しい口調で「大人の言うことは聞くもんだ」と東京へ帰るよう説いている。
でも、その前に列車で一緒にいるシーンがあるのよ。その時は美帆に何も言わずに、黙って座っているだけなのよ。
ホントに東京へ帰らせるつもりなら、列車にいる時も厳しい態度で説教すべきだろ。

前述した篠崎の「本人が違うって言ってるんだから」という台詞の後、美帆が「でも証拠も無いんでしょ」と返すとカットが切り替わり、彼女が車内でBGMに合わせてジャズダンスを踊る様子が映し出される。
唐突でキテレツなので幻想なのかと思ったら、踊り終えると篠崎が来て「どうしたの?」と声を掛け、美帆はオーディションに向けた練習をしていたと説明する。
そんなトコで踊るのかよ。
なんちゅう迷惑な奴だよ。

レストランから篠崎が姿を消すと、美帆が慌てて捜し始める。英語の歌が流れ、美帆が走り回ったり、タクシーに乗って街を見回したり、フェリーに乗って船内を調べたり、フェリー乗り場を捜したりする様子か描かれ、そこに4分ぐらい使う。篠崎と合流すると、原田知世の歌を流して2人の旅の様子を描く。
そのように、この映画は「歌を流して美帆に台詞を喋らせず、動きだけを見せる」という時間が多い。
原田知世の演技力に不安があったのか、それとも角川春樹がMTV映画を意識したのか、その辺りは良く分からない。
ただ、どういう事情があったにせよ、結果として伝わるのは「中身が薄い」ってことだ。

美帆は篠崎と旅館に泊まった翌日、フェリーに乗ると1人で行動する。そして船内の扉を開けて奥に消えるとカットが切り替わり、彼女が車で白人男性とデートしている様子が映し出される。
2人が車で移動すると英語の歌が流れ始め、カフェに入るとミュージカルシーンになる。ここに3分ぐらい使い、また現実シーンに戻って来る。
そのミュージカルシーンは何の脈絡も無く、ただ支離滅裂だと感じるだけだ。
ロード・ムービーとMGM的なミュージカルの要素は、まるで融合していない。

風邪をひいた美帆が旅館で寝ると、窯に戻った篠崎の様子とカットバックになる。そして窯の火がアップになり、カットが切り替わると美帆が歌に合わせて踊るシーンになる。
その場所は採石場で、ジャズダンスを踊る美帆では篠崎がハンマーで石を叩いているという珍妙な光景。
で、それは美帆の夢とか幻想的シーンという解釈なのかと思ったら、場所を切り替えながら描かれたダンスシーンが終わると、篠崎が採石場で作業をしているドラマパートになる。
繋がりがメチャクチャである。

風邪が治った美帆は次の場所へ向かう途中、写真を見たことを告白する。これに対して篠崎は妹が自殺だったと教えるのだが、なぜか文字で「自殺だったんだよ 妹…ふたりきりの兄妹だった」などと表示する。
いやいや、普通に会話劇で描けばいいだろ。そこだけ急に文字で表現する意図が不明。
あと、そこで流れるBGMが、なんで『When a Man Loves a Woman(男が女を愛する時)』なのか。
あと、劇中で流れる曲として日本語の歌と英語の歌が混在するのは、統一感が無いと感じるぞ。

洋館は不気味な雰囲気で、中は薄暗い。秘書も妙子も薄気味悪いし、そこだけ急にホラーの雰囲気になる。オルゴール人形が幾つも置いてあったり、ネグリジェ姿だった妙子がわずかな時間でバレリーナ姿に変身していたりする。
そこまで極端に、ホラー風味に変化する必要性を全く感じない。全体のまとまりや話の流れを無視してでも、「ただやってみたかった」ってだけなんだろう。
っていうか、本来なら妙子が精神を病んでいるのは可哀想なはずなのに、ホラーの要素にしているのもどうなのかと思うし。
あと、なぜ妙子が精神を病んだのか何の説明も無いのは、ただの手抜きにしか思えないぞ。

美帆と何の関係も無い篠崎が旅の道連れになるのだが、映画が終わった時に「ここの関係は何だったのか」と言いたくなる。
たぶん2人の関係を疑似親子として描きたかったんだろうけど、まるで成功していない。なので、美帆が治子と一緒に旅をする設定にすれば良かったんじゃないかと感じるぞ。
そんで美帆が旅から戻るとオーディションがあり、最後は舞台の本番が描かれるのだが、そこまでの内容とは全く繋がっていない。オーディションに向けたドラマは皆無て完全に乖離しており、見事なバッチワーク状態が出来上がっている。
もちろん、最後のミュージカルシーンにも、高揚や感動は皆無である。

(観賞日:2022年5月20日)

 

*ポンコツ映画愛護協会