『レッド・サン』:1971、フランス&スペイン&イタリア
1870年、アメリカ。日本国大使・坂口備前守は武士の黒田重兵衛と名室源吾を従え、特別列車に乗っていた。一行は大統領に献上する宝刀を護衛して、西部を移動中だ。列車には、金貨が納められた郵便車も連結されている。その金貨を狙って、リンクが率いる強盗団が列車を襲撃した。リンクや手下のゴーシュ達は、警護の騎兵隊を策略に掛けて金貨を手に入れた。
特別列車に押し入ったゴーシュは、宝刀を見つけて持ち去ろうとする。源吾は刀で斬り付けようとするが、ゴーシュに射殺される。ボスの座を狙っていたゴーシュは宝刀を奪った後、郵便車を爆破してリンクを殺害しようとする。ゴーシュは逃亡するが、リンクは重傷を負いながらも生き延びた。備前守から宝刀奪還を命じられた重兵衛は、傷の癒えたリンクを案内役にして捜索を開始した。
リンクは隙を見て逃げ出そうとするが、その度に重兵衛に捕まった。捜索の旅が続く中、2人は盗賊に襲われたメキシコ人一家を救い、心の距離を縮めた。リンクと重兵衛はサン・ルーカスの町に入り、ゴーシュの情婦クリスティーナと彼女を迎えに来たハイアットを捕虜にした。リンクはハイアットに「教会で待つ」との伝言を託し、ゴーシュの元へ行かせた。
クリスティーナはリンクと重兵衛の元から逃亡を図るが、コマンチ族に襲撃されて2人に救ってもらう。しかし、その事件に時間を取られたため、リンクと重兵衛は教会に到着するのが遅れてしまった。2人が辿り着いた時には、既にゴーシュ一味が待ち構えていた。リンクと重兵衛はゴーシュに武器を取り上げられるが、そこへコマンチ族が襲い掛かってきた…。監督はテレンス・ヤング、原案はレアード・コーニッグ、脚本はデネ・バート・ペティクラーク&ウィリアム・ロバーツ&ローレンス・ローマン、ダイアローグはジェラルド・デヴリース、製作協力はテッド・リッチモンド、製作はロベール・ドルフマン、撮影はアンリ・アルカン、編集はジョニー・ドワイア、美術はアンリ・アラルコン、衣装はトニー・プエオ、音楽はモーリス・ジャール。
出演はチャールズ・ブロンソン、ウルスラ・アンドレス、三船敏郎、アラン・ドロン、キャプシーヌ、バート・バリー、リー・バートン、トニー・ドーソン、ジョン・ハミルトン、ジョージ・W・ライカン、ルーク・メレンダ、サトシ・ナカムラ(中村哲)、ジョー・ニエト、ジュールス・ペーニャ、モニカ・ランダル、ヒロシ・タナカ(田中悟)、ジョン・B・ヴァーモント他。
アメリカ、日本、フランスの映画トップスターが共演した西部劇。
マカロニ・ウエスタンのように、フランス人やイタリア人の出演者がアメリカ人っぽい変名でクレジットされている。
リンクをチャールズ・ブロンソン、クリスティーナをウルスラ・アンドレス、重兵衛を三船敏郎、ゴーシュをアラン・ドロン、リンクの情婦ペピータをキャプシーヌが演じている。フランスが中心となっての合作映画なので、オリジナル版(吹き替え版ではないという意味)では全員がフランス語を喋る。その場合、チャールズ・ブロンソンや三船敏郎のセリフはもちろんフランス語による吹き替えだ。
しかしフランス語の西部劇というのは、どうにも締まりが無いと思うのは私だけだろうか。タイトル前にクレジットされるのが、チャールズ・ブロンソン、ウルスラ・アンドレス、三船敏郎、アラン・ドロンの4名。この内、扱いがいいのはブロンソンと三船の2人。
アラン・ドロンは、魅力ある美学を見せるわけでもなく、格落ちの俳優でもいいんじゃないかという程度の悪役に留まっている。
もっと冴えないのがウルスラ・アンドレスで、ブロンソンや三船と恋仲になるわけでもないし、ヒロインというよりは単なるアバズレ女だ。ほとんどヌード要員に近い。「三船敏郎が出演している外国映画」というだけでポンコツだと判断してもいいんじゃないかと思うぐらい、ミフネの外国映画選びは判断がマズい。『スター・ウォーズ』や『ベスト・キッド』のようなヒット作(質はともかく)のオファーは断って、ロクでもない映画ばかりに出演している。
この作品は脚本に橋本忍も参加したという話もあるが、やはり冴えない。劇中、「任務に失敗すれば責任を取って腹を切るのが武士道」とか、「腹が減っても武士は弱音を吐かない」とか、やたらと武士道をアピールしたがる場面が目立つ。しかし、それにしては重兵衛という男、武士道から外れているんじゃないかと思うような行動を取ったりする。脅迫したり人質を取ったりと、時代劇の悪役じゃあるまいし。
あと、売春宿では娼婦をノリノリで受け入れる。そりゃあ時代劇でも武士に馴染みの芸者がいるケースはあるが、なんか違うんじゃねえかという気がしないでもない。重兵衛はリンクの「金のありかを聞くまではゴーシュを殺すな」という提案を、頑なに拒否する。それが良く分からない。「殺すな」とは言っていない。金のありかを聞き出せば、その後で殺しても構わないのだ。
「友を殺したから、出会ったら即座に殺す」という説明は、説得力のある説明ではない。
そんなところで頑固になるのは、武士道でもなんでも無いぞ。物語進行における大きな問題は、後半に入ってコマンチが絡んでくるということだ。リンク&重兵衛とゴーシュの対立構造で話を進めてきたはずが、いきなり別方向から違う敵が登場するのだ。そしてコマンチを倒すために、3人が手を組むという展開になってしまう。「敵対していた奴らが仲間になる」というのは、リンク&重兵衛だけで充分なのに。
大体、なぜクライマックスがコマンチとの戦いになってしまうのか。「西部劇なら敵はコマンチでしょ」という単純な発想なのかもしれないが、そこまでの展開が台無しだろうに。普通にリンク&重兵衛とゴーシュの戦いに向かって進んだ方が、流れとしてスムーズだ。コマンチの大群を出すぐらいなら、ゴーシュの仲間を増やした方がいいぞ。一番のポイントは、重兵衛がゴーシュに背中から斬り付けようとすることだろう(その後で、リンクとの約束を思い出して躊躇はしているが)。
それは武士道から外れている「卑怯な行為」にならないのか。
「拳銃の方が圧倒的に有利なのだから、勝つためには後ろから襲わねば」とする意見もあるだろう。
しかし、「勝つために手段は選ばぬ」というのは、武士道なのだろうか。一応、最初に源吾が刀で立ち向かい、拳銃で撃たれるというシーンを伏線と考えることも出来る(ただし監督が伏線として描いているとは思えないが)。チャンバラで拳銃を使うのは卑怯だということもある。
しかし、だからといって背中から襲うのは違うだろう。
むしろ、たとえ拳銃に刀でマトモに戦おうとしても勝ち目が無いことを分かっていても、愚かにも正面から立ち向かおうとする方が遥かに武士らしいと思う。重兵衛が殺されるのは、その後でブロンソンがカッコイイところを持っていくべきなので、一向に構わない。しかし、重兵衛の殺され方に関しては、ゴーシュが卑怯なことをするとか、いくらでも方法はあったはずだ。
「後ろから襲い掛かろうとして、約束を思い出して躊躇したら(武士道に反すると考えて動きを止めたわけではない)、殺された」というのは、かなりカッコ悪いぞ。
「侍のミフネ」を評価して起用したはずなのだから、そこは配慮が欲しかった。