『レッド・ドラゴン』:2002、アメリカ&ドイツ

1980年、ボルティモア。精神科医ハンニバル・レクター博士の元を、FBI特別捜査官のウィル・グラハムが訪れた。グラハムはプロファイリングが専門だが、行き詰った時にはレクターに助言を求めることにしている。その日も彼は、連続殺人事件に関する助言を求めて訪れたのだ。だが、グラハムはレクターこそ犯人だと気付き、殺されそうになる。グラハムは深手を負いながらも反撃し、レクターは逮捕されて裁判で終身刑を宣告された。
それから数年後、フロリダ州マラソン。レクター事件による精神的ストレスからFBIを退職したグラハムは、妻モリーと息子ジョシュの3人で静かに暮らしている。そこへ、かつての上司ジャック・クロフォードがやって来た。彼はバーミンガムのジャコビー家とアトランタのリーズ家が惨殺された連続殺人事件を捜査しており、グラハムに協力を要請した。
グラハムはアトランタへ飛び、リーズ家を調べる。犯人は鏡を割り、その破片を被害者の目に押し込んでいた。グラハムは、犯人がリーズ家の夫と子供たちを観客に見立て、夫人をレイプして殺害したと推理した。グラハムはアトランタ警察でプロファイルの結果を報告し、フロリダへ戻ろうとする。だが、クロフォードはグラハムに、レクター博士と接触して事件解決の手掛かりを得ることを求めてきた。最初からクロフォードは、それが目的だった。レクターは誰にも話そうとせず、グラハムが最後の頼みの綱だった。
ボルティモア法医学病院を訪れたグラハムは、チルトン所長の手引きでレクターと面会した。それを嗅ぎ付けたシカゴのタトラー紙の記者フレディー・ラウンズが、グラハムに近付いてきた。かつて入院中に無断で写真を撮影されたグラハムは、ラウンズに強い嫌悪感を示す。グラハムはバーミンガムのジャコビー家を調べに行き、近くの木に「中」という赤文字が残されているのを発見した。それは麻雀の牌で「レッド・ドラゴン」を意味している。
再びレクターの元を訪れたグラハムは、与えられたヒントからウイリアム・ブレイクの絵に行き当たる。それは、半分が竜になった人間が、完全な竜の姿に変貌しようとする絵だ。一方、レクターはブルーム博士の秘書に電話を掛け、彼女を騙してグラハムの現在の住所を聞き出した。同じ頃、ホームビデオの製作や編集を行うクロマラックス社の技術サービス部主任フランシス・ダラハイドは、仕事先で盲目の女性リーバ・マクレーンと出会い、心を惹かれた。ダラハイドこそ、連続殺人事件の犯人だ。
グラハムは、レクターが犯人と密かに手紙を交わしていたことを知った。FBIが手紙の一部を入手し、ボーマン捜査官が暗号を分析する。レクターは犯人にグラハムの住所を知らせ、彼と家族を皆殺しにするよう指示していた。モリーとジョシュはFBIによって保護され、クロフォードの兄の農場に移されることになった。
グラハムはラウンズが軽犯罪で捕まったと聞き、犯人を誘い出すためにタトラー紙を利用することにした。グラハムはラウンズを使い、犯人を性的不能者だと罵倒する記事をタトラー紙に掲載させた。ダラハイドはラウンズを拉致し、自分の主張を彼に語らせてテープに録音する。ダラハイドはラウンズを惨殺し、テープをFBIに送り付けた。
ダラハイドはリーバを自宅に招き入れ、彼女と性的関係を持った。翌朝、目覚めたダラハイドはリーバがベッドにいないことに気付き、慌てて探し回る。窓から庭にいる彼女の姿を確認したダラハイドは、ライフル自殺を図るが出来なかった。ダラハイドはリーバを車で送り、「旅に出る」と告げた後、早く出ろと乱暴な口調で命じた。
ダラハイドはブルックリン博物館を訪れ、オリジナルのレッド・ドラゴンの絵を見せてもらう。彼は案内した係員を殴り倒し、絵を破って食べてしまう。一方、グラハムは被害者のホームビデオを調べ、犯人がクロマラックス社の社員だと推理する。捜査の手が会社に及んだことを知ったダラハイドは、リーバの家へ向かう。ダラハイドは、リーバが同僚ラルフに送ってもらい、キスする様子を目撃した。ダラハイドはラルフを殺害し、リーバを家に連れ去って放火する・・・。

監督はブレット・ラトナー、原作はトマス・ハリス、脚本はテッド・タリー、製作はディノ・デ・ラウレンティス&マーサ・デ・ラウレンティス、製作協力はジェームズ・M・フレイタグ、製作総指揮はアンドリュー・Z・デイヴィス、撮影はダンテ・スピノッティー、編集はマーク・ヘルフリッチ、美術はクリスティ・ジー、衣装はベッツィー・ヘイマン、音楽はダニー・エルフマン。
出演はアンソニー・ホプキンス、エドワード・ノートン、レイフ・ファインズ、フィリップ・シーモア・ホフマン、ハーヴェイ・カイテル、エミリー・ワトソン、メアリー=ルイーズ・パーカー、アンソニー・ヒールド、ビル・デューク、ケン・リョン、スタンリー・アンダーソン、フランキー・フェイソン、タイラー・パトリック・ジョーンズ、ラロ・シフリン、ウィリアム・ラッキング、エリザベス・デネヒー他。


『羊たちの沈黙』『ハンニバル』に続く“ハンニバル・レクター”シリーズ第3作。
トマス・ハリスの原作小説は『羊たちの沈黙』よりも前に書かれており、レクター博士が初めて登場した作品である。
1986年に同じ原作が『刑事グラハム/凍りついた欲望』(別タイトル『レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙』)として映画化されているが、それのリメイクという扱いではなく、あくまでも同じ原作小説の2度目の映画化という扱いだ。

脚本には『羊たちの沈黙』のテッド・タリーが復帰し、監督は『ラッシュアワー』のブレット・ラトナーが担当している。撮影監督のダンテ・スピノッティーは、『刑事グラハム/凍りついた欲望』でも撮影を担当していた。
ちなみに1976年に『ドラゴン怒りの鉄拳』の続編として作られた『レッド・ドラゴン』という作品があるが(別タイトルは『ジャッキー・チェン/新・怒りの鉄拳』)、もちろん何の関係も無い。こちらのタイトル『レッド・ドラゴン』は、アメリカで麻雀の「中」の牌を示す言葉。

レクター役は、1作目から3作連続でアンソニー・ホプキンス。チルトン役のアンソニー・ヒールドは、『羊たちの沈黙』でも同役を演じていた。フランキー・フェイソンは、『羊たちの沈黙』『ハンニバル』と3作連続でバーニー役。さらに『刑事グラハム〜』にも別の役で出演しており、4作全てに出演した唯一の役者ということになる。
他に、グラハムをエドワード・ノートン、ダラハイドをレイフ・ファインズ、クロフォードをハーヴェイ・カイテル、リーバをエミリー・ワトソン、モリーをメアリー=ルイーズ・パーカー、ラウンズをフィリップ・シーモア・ホフマン、ボーマンをケン・リョン、冒頭の指揮者を作曲家のラロ・シフリンが演じている。幼少時のダラハイドの声を担当したのはアレックス・D・リンツ。
アンクレジットだが、ダラハイドの祖母の声はエレン・バースティン、リーバの同僚ラルフ役はフランク・ホエーリー。

この作品の難しいところは、レクター博士が完全に脇役だということだ。
既に『羊たちの沈黙』『ハンニバル』という流れの中で、彼は主役の座に躍り出ている。
だから、シリーズ3作目で脇に追いやられると、ちょっと違和感を覚える。
原作通りの順番であれば、最初は目立つ脇役、2作目で主役に近い準主役になり、3作目で完全な主役になるという自然な流れなのだが。

レクター人気に目を付けたディノ・デ・ラウレンティスが、原作の1発目を映画の3作目に引っ張ってきたことで、歪みが生じているわけだ。
一応、レクターの出番を増やそう、扱いを良くしようという意識はあったようだが、しかし基本的にはグラハムが「噛み付き魔」と呼ばれる犯人を追い掛ける筋がメインであり、レクターはたまに絡んでくる脇役に過ぎない。

『羊たちの沈黙』も本作品と同じように「捜査官が犯人を追い掛ける上でレクターの助言を仰ぐ」という構成だったが、大きな違いがある。
それは、『羊たちの沈黙』の犯人であるバッファロー・ビルの存在感が希薄だったのに対し、今回のダラハイドは大きく扱われているということだ。
ようするに、ブレット・ラトナー監督はオーソドックスに作っているのだ。

さすがは職人監督ブレット・ラトナー、そつなく手堅くまとめているとも言えるが、しかし本作品に職人的な手堅さが必要だったのかという疑問が私の中にはある。
どうせリドリー・スコットが『ハンニバル』でレクター博士を鬼畜ヒーロに仕立て上げるというトンデモさんな方向に突き抜けたことをやっているのだ。
そこまでイッちゃっているのなら、もっとレクター博士の変態っぷりをエスカレートさせても良かったんじゃないのか。
どうせラウレンティスの製作なんだし。

ところがブレット・ラトナー監督は、レクター博士をすっかりおとなしくさせてしまった。
そりゃあレクターが檻の中にいるので行動に限界があり、人肉の晩餐会やら殺人ショータイムやらといった見世物は出来ないという問題はある。
ただ、そういう縛りの問題ではなく、監督の中で悪趣味を爆裂させる意識が皆無だったことは断言していいだろう。

おとなしいのはレクター博士だけではない。
レクター博士が「私とよく似ている」と称するグラハムもおとなしい。
レクターやダラハイドと同じ精神を自分の中に感じ取り、殺人鬼と同調してしまう自身への恐れ、心に巣食う怪物への恐れをグラハムに表現させれば、それがサイコ・スリラーになったんじゃないかと思うのだが。

既にレクター博士がセルフ・パロディーの領域に達していて怖くないのだから、他の部分で恐怖を見出す必要があったはずだが、そういう意識は感じられない。
ダラハイドは愛に苦しんだり悲しんだりする人間らしさたっぷりの犯罪者なので、恐怖という意味では問題外(底知れぬ怖さは全く無い)。
いや、怖さなんて無くたって、レクターが残虐大爆発&悪趣味快進撃ってな感じで、良識者から非難されるような作りになっていれば、それはそれでカルト映画としてはアリだった気もするがね。

 

*ポンコツ映画愛護協会