『ワン・デイ 23年のラブストーリー』:2011、イギリス

1988年7月15日。エマ・モーリーとデクスター・メイヒューは大学の卒業式を終えた。それぞれの友人であるティリーとカラムは付き合っており、式の後にキスを交わして抱き合った。エマとデクスターは互いに顔を知っている程度の間柄だったが、友人の近くにいた成り行きで会話を交わした。デクスターが家まで送ると申し出ると、エマは受け入れた。家に着いたデクスターがキスすると、エマはセックスする気になった。しかし彼女が準備をしている間に、デクスターはベッドから起き上がって帰ろうとする。デクスターは「友達でいよう」と言い、エマと同じベッドで寝た。
1989年7月15日。エマはロンドンに引っ越し、デクスターは荷物を運ぶ手伝いをしてからインドへ旅立った。1990年7月15日。エマがバイトをしているメキシカンレストランに、コメディアンの卵であるイアンが新しく入って来た。イアンが自分の参加するトークライブに誘うと、彼女は断った。デクスターは母のアリソンと会って翌日のランチに誘われ、父のスティーヴンと合流した。1991年7月15日。デクスターはエマが働く店に、また違う女性を連れてやって来た。エマが「店を辞めない条件でマネージャーに抜擢される」と話すと、彼は「退屈な仕事のために人生を投げ出すのか」と告げた。彼はテレビ局のプロデューサー候補で、派手な生活を送っていた。
1992年7月15日。エマはデクスターに誘われ、フランス旅行に出掛けた。彼女はデクスターに、「寝室は別」「欲情しない」など幾つもの条件を提示した。エマが大学で夢中だったと告白すると、デクスターは「君の気持ちは知ってたよ。長い詩や音楽テープをくれただろ」と述べた。彼が割り切ったセックスに誘うと、エマは断った。1993年7月15日。デクスターは人気番組の司会者として活躍し、クラブで酒を飲んで踊る日々を過ごす。酔っ払った彼は気分が高揚したままエマに電話を掛けるが、その傍らには恋人がいた。
1994年7月15日。デクスターは酔っ払った状態で実家へ戻り、病床の母に会った。彼はエマからのプレゼントである本を渡し、自分が出演する番組を見せた。アリソンが快く思わず、「周りは派手な踊り子ばかり。これが貴方の目標なの?」と言う。デクスターが「じゃあ何をしろと?」と尋ねると、アリソンは「立派な仕事よ」と答えた。スティーヴンはデクスターが酔っ払っていることに腹を立て、「ママに残された時間は少ない。そんな状態で来たら、今度は家に入れない」と通告した。
デクスターはエマに電話を掛けるが、外出中だったので「すぐに会いたい」とメッセージを残した。エマは教師の仕事が決まり、イアンに誘われてデートに出掛けていた。イアンから部屋に誘われ、彼女はOKした。1995年7月15日。スティーヴンはデクスターが働くスタジオに来て、アリソンの死を伝えた。デクスターは新聞で「テレビ界の嫌われ者」と評され、エマに電話を掛けた。「来てくれよ」と言われたエマは、「学校があるわ。弱音を吐かないで」と返した。エマはイアンと同棲を始めているが、帰宅するとデクスターが司会を務める番組を熱心に鑑賞した。
1996年7月15日。イアンはエマがデクスターと会う場所に「一緒に」と誘われるが、「デクスターに無視されるだけだ」と断った。エマはクラブへ行き、デクスターと会った。イアンとの関係を問われた彼女は、しっくり行っていないと告げた。エマはデクスターから「小説はどうなった?」と訊かれ、「今は教師で稼がないと」と答える。デクスターが「格言がある。出来る者はやる。出来ない者は教師になる」と馬鹿にするので、エマは腹を立てた。デクスターが詫びると、彼女は「この3年間、ずっと酔っ払ってる。お母様を亡くした面は分かるけど、私も話を聞いてほしいの」と語る。彼女は「これが現実よ。別れましょう」と告げ、愛を伝えて立ち去った。
1998年7月15日。デクスターはゲーム番組の司会をしていたが、プロデューサーのアーロンから若返りのための解雇を通告された。アーロンはデクスターに、「君に必要なのは、本当に愛してくれる人だ」と告げた。1999年7月15日。デクスターはシルヴィーと付き合い始めた。イアンはエマがデクスターを思い続けていると知り、別れを切り出した。彼はエマの小説を褒めて、「良く書けてる。見てもらえよ」と口にした。2000年7月15日、デクスターはシルヴィーを伴い、ティリーの結婚式に出席した。エマはほんの原稿料が貰えたこと、デクスターは子供が出来てシルヴィーと結婚することを、互いに報告した。
2001年7月15日。デクスターは娘のジャスミンに恵まれ、カラムの会社で働き始めた。シルヴィーはジャスミンの世話をデクスターに任せ、友人の結婚前夜祭に出掛けた。しかし結婚前夜祭というのは真っ赤な嘘で、彼女は男と浮気していた。2003年7月15日。シルヴィーと別れたデクスターはパリー行き、売れっ子作家になったエマと再会した。エマはジャン=ピエールという恋人が出来たことを明かし、デクスターは彼女の元を去ろうとする。しかしエマはデクスターの元へ舞い戻って「吹っ切れない」と言い、2人はキスを交わした…。

監督はロネ・シェルフィグ、原作はデヴィッド・ニコルズ、脚本はデヴィッド・ニコルズ、製作はニーナ・ジェイコブソン、製作総指揮はテッサ・ロス、共同製作はジェーン・フレイザー、撮影はブノワ・ドゥローム、美術はマーク・ティルドスレー、編集はバーニー・ピリング、衣装はオディール・ディックス=ミロー、音楽はレイチェル・ポートマン、音楽監修はカレン・エリオット。
出演はアン・ハサウェイ、ジム・スタージェス、パトリシア・クラークソン、ケン・ストット、ロモーラ・ガライ、レイフ・スポール、ジョディー・ウィッテカー、ジョージア・キング、トム・マイソン、マット・ベリー、エミリア・ジョーンズ、メイジー・フィッシュボーン、ダイアナ・ケント、ジェームズ・ローレンソン、マシュー・ビアード、トビー・レグボ、ヘイダ・リード、トム・アーノルド、ウクウェリ・ローチ、ジョセフィン・デ・ラ・ボーム、アマンダ・フェアバンク−ハインズ、セバスチャン・デュピュイ、イーデン・メンゲルグレイン、ケイラ・メンゲルグレイン他。


デヴィッド・ニコルズの小説『ワン・デイ』を、彼自身の脚本で映画化した作品。
監督は『幸せになるためのイタリア語講座』『17歳の肖像』のロネ・シェルフィグ。
エマをアン・ハサウェイ、デクスターをジム・スタージェス、アリソンをパトリシア・クラークソン、スティーヴンをケン・ストット、シルヴィーをロモーラ・ガライ、イアンをレイフ・スポール、ティリーをジョディー・ウィッテカー、カラムをトム・マイソン、アーロンをマット・ベリーが演じている。

この映画は、1988年から2006年までの、7月15日のエマとデクスターの様子だけを描いている。「毎年の同じ日の出来事だけを繋げ、1つの物語を描く」というアイデア一発勝負の作品である。
でも「果たして同じ日である必要があるのか」「7月15日である必要があるのか」と考えた時、私には何の答えも思い付かない。
個人的なフィルムとか、「1組の男女を追い続けたドキュメンタリー映像」みたいなモノなら、定点観測みたいな趣向として、そういうのがあっても悪くないとは思う。
でも劇映画としては、良く分からないのだ。

エマとデクスターにとって、7月15日は特別な日ではない。何かの記念日でもなければ、必ず会うと約束した日でもない。
あえて「何でもない日」にしたのかもしれないが、だとしても「7月15日である必要性を感じない」という感想しか湧かないのだから、仕掛けとしては失敗と言わざるを得ない。
あと完全ネタバレだけど、ハッピーエンドじゃないのよ、この映画。
この構成で、最終的に幸せな結末を用意しない理由がサッパリ分からない。あえて悲劇を用意して余韻を残す狙いがあったとしても、まるで歓迎できない余韻になっているし。
途中で痛みや切なさはあってもいいけど、ハッピーエンドでいいでしょうに。

1年ごとに1日しか描かない弊害として、「意味ありげな描写があっても、そのまま放り出される」というケースが何度もある。
例えば、1990年のシーン。デクスターはアリソンから「話がある」と翌日のランチに誘われている。
わざわざ父親に内緒でランチに誘っているので、何か大事な話ではないかと推察できる。しかし翌日のシーンは描かれないので、どういう話だったのかは分からないままだ。
その件について、翌年のシーンで言及することも無いし。

エマにしろデクスターにしろ、将来の夢や目標について話すシーンは、まるで無かった。
エマがデクスターに仕事の愚痴をこぼすシーンでも、「ホントは何がしたくて、そのためにどんな努力をしてきたのか」ってのがサッパリ分からない。
レストランのマネージャーに抜擢される話が出た時、デクスターに「詩は書いてる?」と問われたエマが「お金にならないわ」と答える会話で、ようやく「エマが詩人を目指している」という事実が明らかになる。
だけどエマが詩人を目指していた様子なんて皆無だったぞ。

一方、デクスターにしても、エマが「テレビのプロデューサー候補」と言うシーンで、その業界の人間であることが初めて判明する。
でも具体的な目標や夢については、何も示されていない。
だから、今の仕事について悩みを抱えている様子を見せられても、「新聞では批判されているけど、気にせずに続ければいいんじゃないの」と言いたくなる。
まるでシンプルに「低俗な番組だから」という理由で全否定するような描き方になっているのは、なんか引っ掛かるなあ。

デクスターは決して悪い奴じゃないけど、とにかく軽薄で女性関係にルーズだ。エマと本気で付き合う気なんて全く無いのに、他に恋人もいる状態でも平気で口説く。適当な性格だし、誠実さは微塵も無い。
エマが落ち込んでいる時に励ますのも、仕事で悩んでいる時に助言するのも、あくまでもプレイボーイとしての優しさだ。
「こんな男のどこがいいのか」と言いたくなるが、そういう奴がモテるのも事実だからね。
あと、明るくて社交的でシンプルに外面がいいので、まあモテまくるのも当然っちゃあ当然だわな。
だけど映画として、エマとデクスターの恋愛劇を応援できるのかと問われたら、それは厳しいのよね。

そこが厳しくなっている最大の理由は、エマとデクスターの関係性がフェアじゃないと感じることにある。
エマの人生はなかなか思うように行かないが、その間もずっとデクスターのことは思い続けているし、都合のいい時だけ頼るようなことは無い。イアンと付き合い始めた後も、ずっとデクスターのことを気にしている。
一方、デクスターは女にモテモテで仕事も順調だが、悩みを抱えたり辛いことが起きたりした時だけエマにすがろうとする。
一途に思い続けたエマと、フラフラと余所見ばかりしていたデクスターが結ばれる話なので、「男にとって都合の良すぎる恋愛劇」にしか思えないのだ。

ただ、エマにしても、ずっとデクスターのことが好きなのに、平気でイアンと同棲しているんだよね。
デクスターに別れを告げた後でも、ずっと彼のことばかり考えているし。
だからイアンからすれば酷い裏切り行為なんだけど、それに対してエマが罪悪感を抱いている様子は全く無いし。
イアンに「勝手にエマの詩を読む」という行動を取らせて落ち度を用意し、「だから振られても仕方が無い」ってことにしてあるけど、やっぱりエマが身勝手だと感じるぞ。

前半は「デクスターが身勝手でチャラチャラしていて、エマは彼のことを思い続けていて」という関係性だが、「エマが別れを告げた後もデクスターへの未練たらたら」という辺りに入ると、あまりエマの肩を持つ気になれなくなる。
ようやくエマとデクスターがカップルになっても、それまで2人のせいで振り回されたり辛い思いをしたりした人が大勢いたことを考えると、ちっとも祝福する気が起きない。
そりゃあ誰かの幸せの裏に誰かの不幸があるのは世の常だけど、映画として「裏にある不幸」ばかりが強く感じられるのはマズいでしょ。
しかも、その不幸はエマとデクスターの不誠実さと身勝手さが招いた結果なんだから。こいつらが真っ直ぐに愛を貫いた結果として周囲に辛い思いをする人が生まれるのなら仕方が無いけど、そうじゃないんだから。

完全ネタバレを書くが、2人がカップルになった後、エマは交通事故で命を落とす。
幾らエマとデクスターの不誠実さや身勝手さのせいで祝福できないからと言っても、「エマの事故死」という形で罪を償わせるのは、それはそれで違うだろ。
いや、たぶん監督は贖罪の意味で事故死という展開を用意したわけじゃなくて、単純に「話を盛り上げるための要素」として悲劇を用意したんだろうけどさ。
でも、まるでケータイ小説のような安易さで、死の要素を持ち込んでいるだけにしか感じないわ。ホントに安っぽいわ。

(観賞日:2023年8月15日)

 

*ポンコツ映画愛護協会