『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』:1960、アメリカ

殺人課のジョー・フィンクが勤務しているのは、犯罪率の非常に高い掃き溜めの町だ。ムシュニクの営む花屋には、常連客である中年女性のシーヴァがやって来る。彼女は妹の甥が死んだことを語り、葬儀用の花を購入する。葬儀の度に買っているので値引きしてほしいと頼むが、守銭奴のムシュニクは拒否した。歯医者のファーブから電話で注文が来たので、ムシュニクは店員のシーモアに待合室用の花を用意しろと命じた。
もう1人の店員であるオードリーがシーヴァの相手をしている間に、ムシュニクは初来店のバーソン・ファウチと会話を交わす。バーソンはカーネーションを注文し、ムシュニクが包もうとすると「いや、すぐに食べるから」と言う。ムシュニクが花を渡すと、バーソンはその場で美味しそうに食べ始めた。シーモアがグズでドジで役立たずなので、ムシュニクはイライラしてクビにしようとする。シーモアは珍しい花を育てていることを口にするが、ムシュニクは「ここの花が売れなきゃクビだ」と声を荒らげた。
バーソンが「世界中の花屋を巡ったが、変わった花を飾ってある店が流行っている」と語ると、ムシュニクはシーモアに花を持って来るよう命じた。帰宅したシーモアは、母のウィニフレッドから自分の舌を確認するよう求められる。「普通の舌だよ」とシーモアは言うが、ウィニフレッドは納得しない。彼女は元気一杯なのに、自分が病気だと思い込んでいるのだ。シーモアが買って来た強壮剤を渡すと、彼女は大喜びした。
小さな植木鉢で育てている植物が朝よりも弱っている様子だったので、シーモアは困った表情を浮かべた。シーモアは花屋に戻り、その植物をムシュニクたちに見せた。日本人の庭師が種をくれたが、詳細は分からないのだと彼は説明した。その花にシーモアは「オードリー・ジュニア」と名付けていた。自分の名前にちなんでいると知って、オードリーは喜んだ。バーソンが「ちゃんと育てれば大勢の客が見物に来るぞ」と言うので、ムシュニクはシーモアに「1週間で花を元気にさせろ。そうすればクビは撤回だ」と告げた。
シーモアは枯れそうなオードリー・ジュニアを見て困り果て、とりあえず水を与えようとする。シーモアは近くにあった花を移動させようとして、指先を怪我してしまった。すると、シーモアの血を浴びたジュニアはパクパクと花を動かした。ジュニアの好物を知ったシーモアは、困惑しながらもピンで指先を傷付けて血を与えた。あっという間にジュニアは1フィートほどの大きさまで成長し、宣伝用の張り紙を見た高校生のシャーリーと友人が見物に来た。
学校の委員を務めるシャーリーたちが大量の花を購入する予定だと知り、ムシュニクはシーモアに「お前は私の息子だ」と満面の笑みを見せた。シーヴァが「伯父の弟が死んだの」と来ると、金持ちになる夢を膨らませたムシュニクは無料で花を渡した。だが、さっきまで元気だったオードリー・ジュニアが枯れそうになっているのを見たムシュニクは、途端に機嫌を悪くした。「夜通し面倒を見れば、きっと元気になります。約束します」とシーモアは告げた。
その夜、シーモアが店に残っていると、オードリー・ジュニアは「食わせろ」と人間の言葉で要求した。仕方が無いので、またシーモアは指の傷から血を垂らした。さらにジュニアは血を求めるが、シーモアは「貧血気味なんだ」と告げる。アイデアを練るために夜の町を散歩していた彼は、置いてあったウイスキーの瓶を見つけて石を投げ付けようとする。しかし物陰から鉄道警察官が現れ、その頭部に石が命中してしまう。警察官は立ち上がるが線路で転倒し、列車にひかれて死亡した。シーモアは死体を捨てようとするが邪魔が入り、仕方なく店に持ち帰った。オードリー・ジュニアに「食わせろ」と要求されたシーモアは、警察官の死体を食わせた。
レストランでオードリーと食事をしていたムシュニクは、財布を忘れたことに気付いた。ウェイトレスに金を持って来るよう要求されたムシュニクは、レジの売上金を取りに店へ戻った。シーモアが死体の脚部をジュニアに与えている様子を目にしたムシュニクは、混乱した表情で店を後にした。翌朝、ムシュニクが花屋へ行くと、大勢の見物客が押し寄せていた。オードリー・ジュニアは人間より遥かに大きなサイズへと成長していたのだ。
シーモアが出勤すると、ムシュニクはジュニアの品種について尋ねる。シーモアは、それがハエジゴクの変種であること、ハエジゴクは成長するまでに蠅を3度食べることを説明した。「今までに何度食べた?」とムシュニクが訊くと、彼は「1度か2度。もう食べないかも。もう伸びないよ」という。「もう蠅は要らないんだな」というムシュニクの問い掛けに、シーモアは「イエス」と答えた。シーモアが歯の痛みを訴えたので、ムシュニクは歯医者へ行くよう促した。警察に連絡しようとしていたムシュニクだが、商売の繁盛ぶりを見て考えを撤回した。
ファーブはシーモアを治療台に座らせ、痛みを与えて嬉しそうな表情を見せる。ファーブが詰め物を口に入れようとすると、シーモアは「近付くな」と拒絶した。彼は治療器具を手に取って決闘を挑み、ファーブを殺害してしまった。ウィルバーという患者が来たので、彼は歯医者に成り済ました。マゾヒストの彼は麻酔無しでの治療を要求し、ドリルで歯を削ると大喜びした。シーモアはファーブの死体を店まで運び、オードリー・ジュニアに与えた。
翌朝、ジョーは相棒のフランクと共に、ファーブの失踪事件を調べ始めた。シーモアやオードリーたちが店に出勤すると、ジュニアはさらに大きく成長していた。ジョーとフランクが花屋へ聞き込みに来て、ムシュニクはファーブの失踪を初めて知った。花観賞協議会の代表を務めるフィシュトワンガー女史が店を訪れ、ジュニアを育てたシーモアが受賞者に決まったことを伝える。いつ蕾が開くのかと訊かれたシーモアは、「文献によると、明日の日没には」と答えた。
その夜、シーモアはデートの約束を取り付けたオードリーを自宅に招いた。シーモアとオードリーが互いに結婚したいと思っていることを口にすると、ウィニフレッドは「まだ早い」と反対した。ムシュニクは店に留まり、ジュニアを監視した。ジュニアが「食わせろ」と要求しても、ムシュニクは拒絶した。そこへ拳銃強盗が来たので、ムシュニクはレジの金を渡す。「まだあるはずだ」と脅されたムシュニクは、「金ならオードリー・ジュニアの中に」と蕾を指差した。まんまと騙された強盗は、ジュニアの餌となった…。

製作&監督はロジャー・コーマン、脚本はチャールズ・B・グリフィス、撮影はアーチー・ダルゼル、編集はマーシャル・ニーランJr.、美術はダニエル・ハラー、音楽はフレッド・カッツ。
出演はジョナサン・ヘイズ、ジャッキー・ジョセフ、メル・ウェルズ、ディック・ミラー、マートル・ヴェイル、タミー・ウィンザー、トビー・マイケルズ、レオラ・ウェンドーフ、リン・ストーレー、ウォーリー・カンポ、ジャック・ウォーフォード、メリー・ウェルズ、ジョン・シェーナー、ジャック・ニコルソン、ドディー・ドレイク他。


『アッシャー家の惨劇』『蜂女の実験室』のロジャー・コーマンが製作&監督を務めた作品。
『魔の谷』『血のバケツ』のチャールズ・B・グリフィスが脚本を担当。
5日間で撮った『血のバケツ』のセットを流用し、2日間で撮り上げた作品。後にミュージカルとして舞台化され、それが1986年に映画化された。
『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』と言えば、フランク・オズが監督した1986年版の方が遥かに有名だと思うが、これがオリジナル版だ。

シーモアをジョナサン・ヘイズ、オードリーをジャッキー・ジョセフ、ムシュニクをメル・ウェルズ、バーソンをディック・ミラー、ウィニフレッドをマートル・ヴェイル、シャーリーをタミー・ウィンザー、シャーリーの友人をトビー・マイケルズ、シディーをレオラ・ウェンドーフ、ホーテンスをリン・ストーレーが演じている。
メル・ウェルズとディック・ミラーの会話は、ほぼアドリブらしい。
ロジャー・コーマン先生は、後にビッグ・ネームとなる多くの映画人を無名時代に起用していたことでも知られている。フランシス・フォード・コッポラも、ジェームズ・キャメロンも、マーティン・スコセッシも、ジョナサン・デミも、みんなコーマンの門下生だ。俳優の方では、ロバート・デ・ニーロやピーター・フォンダらが無名時代に彼と仕事をしている。
そして本作品では、無名時代のジャック・ニコルソンがウィルバー役で出演している。

映画の世界には、早く撮影を終わらせることを得意とする監督が存在する。
日本だとマキノ雅弘や渡辺邦男なんかが有名で、「早撮りの天才」や「早撮りの巨匠」と呼ばれた。
渡辺邦男の場合、新東宝時代は大蔵貢社長が「早く安く」をモットーとする人だったので、随分と重宝されていた。
早撮りで知られるロジャー・コーマンは、プロデューサーとしては大蔵貢の感覚を持っていた。だから彼が映画を早く撮り終えるのは、「そうすれば予算が安く済むから」という理由によるものだ。

この映画の予算は、約2万7千ドルと言われている。なんせロジャー・コーマンの製作する映画だから低予算なのは当然だが、しかも2日で撮り終えているので、それだけ予算も安くて済んだわけだ。
「もう少し予算を掛ければ特撮効果がマシになっただろう」とか、「もう少し金を使えばセットの質も上げられただろう」とか、そういう考えは、コーマン先生の映画では通用しない。
コーマン先生が考えるのは、常に「いかに安い予算で映画を作り、確実に黒字を出すか」ってことだけだ。
予算を上乗せしてヒットに繋がる可能性もゼロではないが、そんなことをコーマン先生は一切考えない。「それで赤字が出たらシャレにならない」ってことで、常にリスクを回避するために低予算の映画しか手掛けないのだ。

「何よりも低予算で仕上げることを優先する」というロジャー・コーマンの考えが表れている例として、オードリー・ジュニアの声を脚本のチャールズ・B・グリフィスが担当していることが挙げられる。
グリフィスは仮の台詞として声を入れたのだが、コーマン先生は「それでいいんじゃねえか、声優を使うより安く済むし」ってことで、そのまま彼を起用することにしたのだ。
さらに予算を安く抑えるため、グリフィスは強盗や歯科医の患者も演じている。
また、祖母のマートル・ヴェイルをウィニフレッド役に起用している。

何しろ低予算なので、セットも特撮も全てチープだ。
この映画で最も重要な「装置」であるオードリー・ジュニアにしても、蕾の部分しか動かない。
オードリー・ジュニアの「元気がある時」と「元気が無い時」の差は、「周囲の葉っぱが上を向いて伸びているか、しおれているか」という違いで表現されるのだが、肝心の大きな蕾の部分は全く変化が無い。
なので、「枯れそうになっている」「元気が無くなっていると言われても分かりにくい。

最初に「俺は殺人課のジョー・フィンク。俺が働くのは掃き溜めの町」というナレーションが入り、カメラが左から右にパンしながらスキッド・ロウの風景を写していく。
だが、それは実写ではなく、イラストレーションだ。
普通なら、セットで作った町を写し出すべきポイントだ。でも、そんな広いセットを作るような予算は無い。
だけど話の始め方としては「町の全景を見せたい」という意識があって、出た答えが「じゃあイラストで表現すりゃいいじゃん」ってことなんだろう。

シーヴァは初登場の際、「葬儀の度に花を買っている」「次から次へと人が死ぬ」などと言っているけど、それだとパンチが弱い。
例えばムシュニクと「確か先週は誰々が死にましたよね」「ええ、その前の週は誰々が死んだわ」「身内の不幸が続いて、さぞお辛いでしょう」「そうなの。その前の週は誰々が死んだし、その前は誰々が死んだし」などと会話させて、もっと「シーヴァの身内で異様なほど葬儀が続いている」ってことを強調した方がいい。そして、例えば「来週は誰々が死ぬ予定なの」という未来の葬儀について言及させるぐらいのことをやってもいいだろう。
「ウィニフレッドが元気なのに病気だと思い込んでいる」という設定にしたって、もっと誇張して表現した方が笑いに結び付く。
例えば、「体中の関節が痛くて動けない」と言っている彼女が、現金や食事を手に入れる時だけはシーモアより遥かに素早く動き、それが終わると「ああ、体が痛い」と言い出すとかね。
描写がおとなしいから、「医者の診断を信じない」ってのも、本当に何かしらの病気があるのか、それとも完全に思い込みなのか、あるいは「自分でも元気なのはわかってるけどシーモアに仕事を全て押し付けるために芝居をしている」ってことなのか、その辺りがボンヤリしている。

シーヴァに関しては、その後の来店の度に「誰々が死んだ」と言うので、そこで「やたらと身内が死ぬ女性」というキャラ設定は表現している。
ただし、味付けとしては弱くなっている。
ウィニフレッドにしても、その後も登場する度に「異様に病気を気にする女性」というキャラは表現しているけど、やはり初登場シーンでのインパクトをもっと強めた方が効果的だ。
せっかく「変な奴ら」ばかりを登場させているのに、その誇張が物足りない。

シーモアが自分にちなんだ名前を花に付けていると知ったオードリーは大喜びするのだが、じゃあ彼に好意を寄せているのかと思いきや、ムシュニクとレストランに出掛けて楽しく食事をしている。
シーモアがジュニアに死体を与える様子を見たムシュニクが混乱した様子で戻った時には、「何があったか言ってくれれば私が力になるわ」と口にする。
しかし、その後には「貴方を愛している」「結婚したい」とシーモアに言っている。
どないやねん。

前述したように、ウィニフレッドは異様なぐらい病気を気にしており、食事にも薬を混ぜたりしている。彼女はシーモアとオードリーの結婚に反対し、「あの女は金目当てだよ」と主張する。
そんな彼女の性格やシーモアとの絡みは、「オードリーが人を食べて成長する」という本筋に全く絡まない。
「結婚を反対されたシーモアが母をジュニアの餌にする」とか、「花屋に押し掛けたウィニフレッドが不用意にジュニアとの距離を詰めたせいで食われる」とか、何かしらの絡みがあるのかと思ったら、最後まで何も無かった。
これはシーヴァも同様で、「身内の不幸が続く」というキャラ造形が、その部分でストップしている。

撮影だけでなく脚本作りにも多くの時間を掛けないのが、コーマン門下では当たり前だ。雑な脚本、粗の多い脚本でも、コーマンは全く気にしない。
「主人公が次々に人を殺すことで高い評価を受けるようになる」という本作品の大まかなプロットや展開は『血のバケツ』と一緒だが、そもそもコーマンはヒット作の亜流映画を作る人だから、前年の映画と類似していることなんて屁でもない。
テンポが悪くて間も悪く、話のリズムも映像もスッカスカになっているが、それはコーマン作品の特色だ。
「変人だらけだが、それが本筋とは何の関係も無い」という風に、脇のエピソードを放り出したまま終わらせてしまう雑な作りも、コーマンらしさと言えよう。

シーモアはオードリー・ジュニアが死体を食らっていることを知りながら、「もう食べない」「もう成長しない」と何の根拠も無いことを口にする。
それどころか、強盗を食べる様子を目にしたムシュニクが「あれは処分する」と言い出すと抗議し、残念そうな様子を見せる。
一応、「表彰を受ければ有名な植物学者になって、稼ぎも良くなる。オードリーと結婚できるし、母親の面倒を見ることも出来る」という事情はあるのだが、それにしても危機感や罪悪感が無さ過ぎるわな。

表彰式の日、日が暮れて花が咲くと、そこにオードリー・ジュニアの犠牲となった人々の顔が浮かび上がる。
それによってシーモアの犯行が露呈するってのは、ホラー映画の仕掛けとしては悪くない。
ただ、オードリー・ジュニアの作りがハリボテなので、どうしても安っぽい印象になってしまうんだよね。
その後、シーモアは刑事たちに追われて店を逃げ出し、追跡を撒いて店に戻り、自分からオードリーの餌になるってのがオチだけど、「逃げ出して追跡を撒いて」という手順でダラダラしちゃう辺りもコーマンらしい。

(観賞日:2015年5月20日)

 

*ポンコツ映画愛護協会