『ラスト サムライ』:2003、アメリカ

1876年、サンフランシスコ。南北戦争に従軍したネイサン・オールグレン大尉は、ウィンチェスター社によってコンヴェンション・ホール での催しに呼ばれた。ゲティスバーグの戦いで活躍した英雄と紹介されたオールグレンは、銃を売るための広告塔なのだ。しかし オールグレンは無関係なインディアンを攻撃したことを思い悩み、酒浸りとなっていた。催しを台無しにしたオールグレンは、かつての 部下ゼブロン・ガント軍曹から声を掛けられた。ガントは新しい仕事があると告げ、ある場所へ連れて行く。
オールグレンが連れて行かれた場所には、かつての上官バグリー大佐がいた。バグリー大佐は、オールグレンを日本の元老院参議・大村に 引き合わせる。バグリーは大村に取り入ることで、明治天皇から武器の独占販売権を得ようとしている。オールグレンはバグリーから、 日本で反乱軍を鎮圧する軍隊の訓練を指揮してほしいと求めてきた。反乱軍を率いているのは、かつて天皇の教育係も務めた元参議・ 勝元盛次だという。
横浜に到着したオールグレンとガントは案内役サイモン・グレアムの出迎えを受け、明治天皇に謁見した。オールグレンは半年の任期で 任務を引き受け、長谷川大将が指揮する軍隊の訓練を開始した。しかし集まったのは銃を持つのが初めての農民ばかりであり、戦いに 耐えうる組織にするためには相当の時間が必要だった。オールグレンはグレアムから、反乱軍がサムライの集団であり、銃を使わず刀と 弓矢だけで戦うことを聞いた。
勝元の軍が鉄道を襲ったとの連絡が入り、大村は討伐に向かうよう軍隊に命じた。まだ戦闘に出るのは無理だと反対するオールグレンだが 、バグリーは聞く耳を持たなかった。オールグレンは先頭に立って指揮を執るが、反乱軍を見て怖気付いた兵士達は命令に従わず隊列を 乱した。ガントは命を落とし、オールグレンはサムライに取り囲まれた。倒れたオールグレンだが、トドメを刺そうと近付いたサムライを 刺し殺した。勝元はオールグレンを殺さず、自分たちの村へ連行することにした。
村に到着した勝元は、妹・たかにオールグレンの手当てをさせる。サムライの1人・氏尾はオールグレンを殺すべきだと主張するが、勝元 は「まず敵を知ることだ」と諌めた。オールグレンが村を移動する際は、寡黙なサムライが必ず同行した。勝元と面会したオールグレンは、 自分が殺した相手が、たかの夫だと知らされる。
オールグレンは、たか、彼女の息子・飛源と孫二郎、勝元の息子・信忠が暮らす家で同居する。オールグレンは信忠の勧めで、飛源の刀の 稽古相手を務めた。そこへ氏尾が現われ、木刀で勝負を挑んでくる。オールグレンは倒されても倒されても、何度でも立ち上がった。勝元 はオールグレンに、春が来るまで村で暮らすよう告げた。
オールグレンは、たかの家で食事をしたり、氏尾や中尾といったサムライと共に刀の稽古を積んだりしながら、次第に村の生活に馴染んで いった。村では狂言が催され、人々は大いに楽しんだ。だが、オールグレンは政府が送り込んだ忍者の姿に気付き、勝元に危機を知らせた。 オールグレンはサムライたちと共に戦い、忍者軍団を倒した。
勝元らが政府に呼び出され、オールグレンも同行する。町に出たオールグレンは、信忠が兵士に包囲されている現場に遭遇する。刀を 抜こうとする信忠を、オールグレンは制止した。信忠は兵士達に髷を切り落とされた。元老院に戻った勝元は、大村から廃刀令に従って刀 を捨てるよう要求され、拒絶して謹慎処分となった。オールグレンは勝元が襲撃を受けたと知り、氏尾ら共に彼を救出するが、信忠が命を 落とした。反乱軍と政府軍の全面対決は避けられぬ状況となり、オールグレンも戦いへの参加を決めた…。

監督はエドワード・ズウィック、原案はジョン・ローガン、脚本はジョン・ローガン&エドワード・ズウィック&マーシャル・ ハースコヴィッツ、製作はトム・クルーズ&トム・エンゲルマン&マーシャル・ハースコヴィッツ&スコット・クルーフ&ポーラ・ ワグナー&エドワード・ズウィック、製作総指揮はテッド・フィールド&チャールズ・マルヴェヒル&リチャード・ソロモン& ヴィンセント・ウォード、撮影はジョン・トール、編集はヴィクトル・デュボワ&スティーヴン・ローゼンブラム、 美術はリリー・キルヴァート、衣装はナイラ・ディクソン、音楽はハンス・ジマー。
出演はトム・クルーズ、ティモシー・スポール、渡辺謙、ビリー・コノリー、トニー・ゴールドウィン、真田広之、小雪、中村七之助、 菅田俊、池松壮亮、福本清三、原田眞人、小山田シン、ウィリアム・アザートン、ジョン・コヤマ、伊川東吾、スコット・ウィルソン、 湊葵、吉原荘二、四世・野村小三郎、スヴェン・トゥーヴァルド他。


主演のトム・クルーズが製作にも携わり、『レジェンド・オブ・フォール/果てしなき想い』のエドワード・ズウィックが監督を務めた 作品。
オールグレンをトム・クルーズ、グレアムをティモシー・スポール、勝元を渡辺謙、ガントをビリー・コノリー、バグリーをトニー ・ゴールドウィン、氏尾を真田広之、たかを小雪が演じている。
明治天皇役の中村七之助、飛源役の池松壮亮、信忠役の小山田シンらは、これが映画初出演にしてハリウッド・デビューとなる。
中尾を菅田俊、寡黙なサムライを福本清三、大村を原田眞人、ウインチェスター社の担当者をウィリアム・アザートンが演じている。他に、 刀鍛冶の役で刀匠界の重鎮・吉原荘二、狂言師の役で本物の狂言師である四世・野村小三郎が出演している。
サムライたちの中にシェイン・コスギがいるらしいんだが、どこに出ているのかは全く分からなかった。

ハッキリ言って、時代考証や風俗考証はデタラメだ。
戦国時代から江戸時代までを寄せ鍋にして、西部劇スパイスをまぶしたような世界観が広がっている。
サムライの村は入り口に鳥居があり、熱帯植物が生えており、どこの国だか分からない。
オールグレンは簡単に天皇と謁見できる。
明治なのにサムライが鎧を着けて戦い、そのくせ兜は外す。
明治政府は忍者を送り込む。無意味な土下座をする連中がいる。
どこで学んだのか、勝元は普通に英語を喋る。
まあ、「変なニホン」は色々とある。

だが、そもそも本作品は、日本の歴史を正確に描こうとした映画ではない。広い意味でのファンタジー映画だ。
ベルナルド・ベルトルッチ監督が東洋かぶれでオリエンタル三部作を撮ったのと同じように、エドワード・ズウィック監督の異国情緒に対する「憧れフィルター」を 通した見た「架空の日本」が、ここには描かれている。
中世ヨーロッパにドラゴンや魔法使いが登場するファンタジー映画と、大きな括りで言えば同じ部類なのだ。
それに、これは舞台こそ日本ではあるが、ハリウッド映画である。
メインのマーケットはアメリカであり、ターゲットにしている観客はアメリカ人だ。
大半のアメリカ人にとっては、日本の時代考証なんて細かいことは分からない。
日本人のために細かい時代考証をするより、アメリカ人のために「アメリカ人がイメージするサムライ社会」を描写した方がいいに決まっている。

オールグレンがサムライの村に来てから、忍者軍団が襲撃するまでには、随分と時間がある。
本当ならば、政府軍の攻撃はもっと早くてもいいはずだ。
しかし、そこのマッタリズムな時間は、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』において登山家ハインリヒ・ハラーが チベットのラサで暮らす日々と同じような意味を持っている。
監督が憧れを抱くサムライ社会、サムライ文化を描くことが本作品では何よりも重視すべき事項であり、そのためには絶対に必要な時間なのだ。

監督が日本について興味を持っているのは「サムライの世界」のみであり、美しい情景にはそれほど関心が無いようだ。
そのことは、ニュージーランドでロケをしていることから伺える、わけではない。
オールグレンが村で過ごす中で季節が変化していくのに、四季の美しさが描かれていないからだ。
特に紅葉の美しさが、ここには無い。

時代考証はメチャクチャだが、だからと言って日本に対するリスペクトが無いわけではない。
むしろ、かなり日本に対する尊敬の念を払っていると言っていい。
日本が舞台だから日本人俳優が多く出演するのは当然だが、ヒロインまで日本人にしてあるのがよろしい。
「以前に反乱軍が捕虜としていた女性」や、「日本人とアメリカ人の間に生まれた女性」といった設定で白人をヒロインにすることだって、 ハリウッド映画ならやっても不思議ではないのだから。

渡辺謙、真田広之、中村七之助、池松壮亮、菅田俊、福本清三、といった日本人の俳優を、トム・クルーズの単なる引き立て役として ぞんざいに扱わず、それなりに存在感を持たせるよう配慮してある。
福本清三などは、オールグレンを庇って死ぬ見せ場もある。
ただしケン・ワタナベが並の役者ではなかったため、トム・クルーズを食ってしまったのは誤算だったかもしれないが(真田広之の出番を 増やしていたら、彼もトム・クルーズを食っただろう)。

この映画でダメなポイントは、時代考証ではない。
サムライ・スピリットの中身が描かれていないことがダメなのだ。
この映画から伝わるものをダイレクトに解釈すると、「武士道とは、頑固で順応性が無く、負けると分かっている戦に特攻して大勢の家臣を死なせること」になる。
そして、それを「潔い死」として賞賛していることになる。
監督の思い描くサムライ像、憧れるサムライ像が、あまりに柔軟性や適応力の無い人種だったために、「近代兵器で武装した連中に銃と弓 だけで正面から突っ込んでいく」という、勇敢なのではなく無謀なだけの連中になってしまった。
監督は「滅びの美学」に魅せられたのかもしれないが、「そりゃバカだから滅びて当然だよな」という冷めた意見しか出てこない。

サムライは戦国時代から銃を使っていたし、積極的に近代兵器を取り入れたサムライが勝ち残っていった。
決して刀しか使わない愚直な人種ではない。
それに刀と弓しか使わないのなら、せめて策を凝らすべきだ。
敵が銃や大砲を構えていると分かっているのに、なぜ真正面から「やあやあ我こそは」的に突っ込んでいくかね。
サムライ・スピリットとは「潔く死ぬこと」ではなく、「何のために死ぬのか」という目的が重要なはずなのに、その目的が本作品からは全く見えない。
それがダメなのだ。


第26回スティンカーズ最悪映画賞

受賞:【最も過大評価の映画】部門

 

*ポンコツ映画愛護協会