『ランド・オブ・ザ・デッド』:2005、アメリカ&カナダ&フランス

傭兵部隊の隊長であるライリーは、部下のチャーリーやマイクを引き連れて街の視察に出掛ける。彼らは別働隊のチョロや装甲車のデッド・レコニング号を操縦するプリティー・ボーイたちと共に、街の物資を入手するための作戦を展開していた。ライリーは今夜の仕事で傭兵を辞めて別の場所へ行こうと考えており、チョロに後を委ねようとする。しかしチョロは、「俺も今日で辞めるんだ」と告げた。
打ち上げ花火にゾンビたちが気を取られている隙に、部隊は任務を終わらせようとする。しかし装置のトラブルで花火の打ち上げが止まり、ライリーは傭兵たちに引き上げるよう命じた。しかしチョロは命令を無視し、マイクとフォクシーを引き連れて酒店へ向かう。店内にはゾンビが隠れており、油断したマイクは右腕を噛まれる。駆け付けたライリーが彼を連れ帰ろうとすると、チョロは銃を構えて「退けろ」と怒鳴る。ライリーはチョロに「銃を下ろせ」と命じるが、マイクは拳銃で自害した。
ライリーは部隊に退却を指示し、居住区に戻った。ライリーは「お前の小遣い稼ぎのために酒を取りに行って、マイクが犠牲になった」とチョロを激しく非難する。しかしチョロは全く悪びれず、「俺はフィドラーズ・グリーンに住む」と口にする。「金も権力も無いのに、住めるわけがない」と呆れるライリーだが、「見てろ」とチョロは自信を見せた。都市の中心には「フィドラーズ・グリーン」という高層タワーがあり、そこには一部の富裕層が暮らしている。傭兵を含む貧民たちは、そこから離れたスラムで生活していた。
都市は高圧電流のフェンスで囲まれており、ゾンビが入って来ることは出来なくなっている。元傭兵のマリガンは、スラムの住人たちに決起を促している。ライリーはマリガンに声を掛け、「不自由なのはスラムだけじゃない。どこもフェンスで囲まれて自由が無い。俺はフェンスの無い世界を見つけに行く」と告げた。ライリーはスラムの盛り場を仕切るチワワから車を購入しており、それを引き取りに行く。しかし修理工場へ行くと、車は無かった。ライリーは盛り場へ行ってチワワに詰め寄り、一刻も早く車を渡すよう脅した。
ゾンビの賭け試合で娼婦のスラックがエサに使われているのを目撃したライリーは、発砲して彼女を救う。チワワは騒ぎに乗じてライリーを始末しようとするが、気付かれて反撃を受けた。ライリーに同行していたチャーリーは、正確な射撃でチワワを殺害した。ライリー、チャーリー、スラックの3人は警官隊に連行され、留置所に入れられる。ライリーがカナダヘ行くと知ったスラックは、「連れてってよ」と頼んだ。スラックが身の上話を始めると、ライリーは「やめろ、うんざりだ」と怒鳴った。
チョロはフィドラーズ・グリーンを訪れ、都市の支配者であるカウフマンの部屋へ赴いた。チョロは酒店で入手したシャンパンを贈り、カウフマンの機嫌を取る。チョロがフィドラーズ・グリーンを買うつもりだと知ったカウフマンは、「ここには理事会があって入居者の審査を行う」と説明する。「住む人を選ぶってことか。アンタに何年尽くした?俺を入居させないと、俺が片付けてるゴミの中身を入居者にバラすぞ」とチョロは脅すが、カウフマンは「少し頭を冷やせ。改めて話し合おう」と穏やかに受け流した。
チョロはカウフマンが差し向けた刺客を叩きのめし、拳銃を奪って立ち去った。スラムに戻ったチョロは、フォクシーに「隊員を集めろ」と指示した。ライリーに内緒で隊員を集合させたチョロは、デッド・レコニング号に乗り込む。ゾンビのビッグ・ダディーたちがフェンスを壊して入って来るが、チョロは武器庫を守る傭兵のブルベイカーたちを援護せず、ボーイに出発するよう命じた。彼はカウフマンに電話を掛け、「500万ドルを用意しなければタワーをデッド・レコニング号で破壊する」と脅迫した。チョロはカウフマンに、「金はボートに乗せて川に流し、桟橋に付けろ」と命じた。
カウフマンはライリーを留置所から出し、真夜中までにデッド・レコニング号を奪還するよう命じた。ライリーは「車と武器を用意する」という交換条件を出し、その仕事を引き受けた。ライリーがスラックとチャーリーを引き連れて出撃しようとすると、カウフマンの用意した援護チームのピルズベリー、マノレッティー、モータウンが合流した。ライリーがマノレッティーを連れて武器庫へ行くと、兵士たちはゾンビ化していた。ライリーたちはゾンビを始末し、弾薬を入手した。
一行が車で出発しようとした際、マノレッティーがゾンビに肩を噛まれた。車を発進させたライリーは、スラックに「俺の弟も噛まれた。ゾンビ化するまで1時間も掛からなかった」と話す。スラックはマノレッティーを射殺した。ライリーは車を停め、ピルズベリーたちが自分を始末するようカウフマンから命じられていることを指摘する。それを知った上で、彼は「俺は任務を果たす。だが、君たちは任務を果たさない。レコニング号は俺が貰う。嫌なら、ここで車を降りろ」と言い放った。
チョロは仲間のマウスを桟橋の小屋に待機させ、金を積んだボートが来るのを見張らせていた。しかしボートが到着しないので、チョロはレコニング号のロケット砲に弾薬を装填した。マウスはゾンビの群れに襲われ、命を落とした。ライリーはチョロが都市を一望できるワシントン山へ行くと推理し、そこで撃退しようと目論む。同じ頃、ダディーの率いるゾンビたちは川を渡ってフィドラーズ・グリーンに向かっていた…。

脚本&監督はジョージ・A・ロメロ、製作はマーク・キャントン&バーニー・ゴールドマン&ピーター・グルンウォルド、共同製作はニール・キャントン、製作総指揮はスティーヴ・バーネット&デニス・E・ジョーンズ&ライアン・カヴァナー&リンウッド・スピンクス&シレン・トーマス&デヴィッド・レスニック、撮影はミロスラフ・バシャック、編集はマイケル・ドハーティー、美術はアーヴ・グレウォール、衣装はアレックス・カヴァナー、特殊メイクアップ効果はグレッグ・ニコテロ&ハワード・バーガー、音楽はラインホルト・ハイル&ジョニー・クリメック。
出演はサイモン・ベイカー、デニス・ホッパー、ジョン・レグイザモ、アーシア・アルジェント、ロバート・ジョイ、ユージン・クラーク、ジョアンナ・ボーランド、トニー・ナッポ、ジェニファー・バクスター、ジャスミン・ゲリョ、マックスウェル・マッケイブ=ロコス、トニー・マンチ、ショーン・ロバーツ、ペドロ・ミゲル・アルセ、サーシャ・ロイツ、クリスタ・ブリッジス、アラン・ヴァン・スプラング、フィル・フォンダカーロ、ブルース・マクフィー、アール・パストコー、ジョナサン・ウィテカー、ジョナサン・ウォーカー、ピーター・アウターブリッジ他。


ゾンビ3部作のジョージ・A・ロメロ監督が手掛けた、1985年の『死霊のえじき』以来となるゾンビ映画。
ライリーをサイモン・ベイカー、カウフマンをデニス・ホッパー、チョロをジョン・レグイザモ、スラックをアーシア・アルジェント、チャーリーをロバート・ジョイ、ダディーをユージン・クラークが演じている。
『ゾンビ』で暴走族のブレイドを演じていたトム・サヴィーニが、「ゾンビ化した彼」という形で再登場。
『ショーン・オブ・ザ・デッド』のサイモン・ペグとエドガー・ライトが、見世物小屋のゾンビで出演している。

ジョージ・A・ロメロは3部作の『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』と『ゾンビ』において、ゾンビの原則を幾つか制定した。
しかし3部作のラストである『死霊のえじき』で、その内の「ゾンビは考えない」という部分を自ら破っている。バブというゾンビに、意思を持たせて行動させているのだ。
それでも「ゾンビは人肉を食う」「ゾンビに噛まれた者はゾンビになる」「ゾンビは脳を破壊しないと死なない」という最も重要な3原則は破っていないし、原則を破るバブはあくまでも「例外的な存在」という扱いだったので、それは受け入れることが出来た。
ただし、拳銃の撃ち方まで覚えてしまうのは行き過ぎだと感じた。

今回もロメロは、自ら定めた原則を破っている。
しかも、もはや「一人の例外だけがゾンビの原則を破る」というレベルに留まっていない。街のゾンビたちは話したり考えたりする奴らばかりだし、道具を扱うことも出来ている。マシンガンを発砲したり、ガソリンを撒いて火を放ったりと、ものすごく知恵を使って人間たちを殺害していく。
それって、「もはやゾンビじゃねえだろ」と言いたくなるんだよな。
そりゃあゾンビの原則を定めたのはロメロだから、「本人が手を加えて変更しようが、それは彼の自由だ」ってことになるのかもしれない。
だけど、それって歌手がヒット曲をアレンジしまくって歌うようなモンだと思うんだよね。「アンタは飽きてるかもしれんけど、こっちは原曲のままで聴きたいのよ」と言いたくなっちゃう。

ゾンビ3部作において、ジョージ・A・ロメロは社会状況を投影した描写を盛り込んでいた。
そういう社会批判の意識は今回も健在で、この作品にも「同時多発テロ以降のアメリカ」に対する主張が込められているようだ。
しかし、そういった政治的メッセージがあまりにも強くなりすぎている。
もはやホラー映画ではなく、「ゾンビの出て来る社会派映画」に成り下がっている(あえて「成り下がっている」という表現を使わせてもらう)。

政治的主張や社会的メッセージをホラー映画に入れることがダメとは言わないが、そういうのは「作品の奥に垣間見える」という程度に留めておくべきだ。
肝心のゾンビが、声高にメッセージを訴えるための道具に利用されているだけというのは頂けない。
相変わらず、「恐ろしいのは人間」というメッセージも含まれているが、これまた不格好なほど声高な主張になっている。
そういうのは、まずゾンビの恐ろしさを描いた上で提示してこそのモノだと思うのよ。
ゾンビが全く恐怖の対象とならず、それどころか、かなりの時間帯で背景化してしまっているというのはマズいだろう。

絶望感とか、閉塞感とか、そういった要素は皆無に等しい。
今回の舞台となる居住区は一定の秩序が保たれており、前作の基地にも増して安全な状態になっている。フェンス外の街へ出ない限りはゾンビに襲われる心配が少ないので、穏やかに生活することが出来る状況だ。
もちろん、貧民街はスラム状態だから治安は決して良くないだろうが、それはゾンビと何の関係も無い問題だ。
盛り場ではゾンビが見世物にされているので、もしも鎖が外れたらヤバいという状況ではあるけど、それは「サーカスの猛獣が逃げ出したら大変」というのと同じようなモンだし、それに富裕層の人間はスラムへ行かないだろう。

ゾンビ映画なのにゾンビの恐怖がものすごく遠いって、そりゃ本末転倒も甚だしいんじゃないかと。
この映画の致命的な欠点は、そこにある。これっぽっちも怖くないのだ。
そもそも、怖がらせようとしている意識が弱いのだ。
「ロメロは最初から怖がらせようとして撮っていない」ということであれば、怖くないのは当然っちゃあ当然だが、だとしたら「そもそも怖がらせようとしていない」ってことがダメだと思うのよ。
ホラーとは真逆に舵を切ってコメディーにしているならともかく、そういうわけでもないんだし。

さすがに「ずっと安全なままで住民たちがヌクヌクと過ごしているってのはマズい」と思ったのか、チョロが高層タワーを訪れた時に住人の男がゾンビ化するという展開がある。
だが、「都市は高圧電流で防護されているのに、なぜ高層タワーに住んでいる男がゾンビ化するのか」という疑問が沸くぞ。傭兵じゃないからフェンスの外に出ることは無いはずだし、ゾンビに噛まれる可能性も無いはず。
カウフマンが「またタワーにゾンビが入り込んだ」と話すシーンがあるけど、どこからどうやって入ったのか。
そこの疑問に答えを用意せず、ただ緊張感を出すためにゾンビ化する男を登場させても、唐突感と違和感しか抱けないよ。

前半の内にフェンスが破壊されるので、そこから「人間vsゾンビ」の戦いに突入するのかと思いきや、ゾンビはすぐに都市へ到達するわけではない。
で、メインとして描かれるのは「ライリーの部隊がチョロを制圧に向かう」というエピソード。つまり人間vs人間の対決である。
その間、双方のメンバーがゾンビに襲われる描写は盛り込まれるものの、基本的にゾンビは背景と化している。ライリーたちがチョロを制圧してから、ようやくゾンビ退治に向かうのだ。
で、ゾンビ退治に向かう時点で部隊はライリーを含めて6人いるのだが、その全員が助かってしまうという安心設計。
いいのか、ホラー映画なのにそんなに大勢が助かって。
そもそもホラーと言うよりアクションに傾いている印象を受けるし、だからってアクション映画として質が高いわけでもないし。

「一部の富裕層が高層タワーに住んでいる」という設定は、違和感を禁じ得ない。
ゾンビの蔓延によって社会基盤は完全に崩壊したはずで、そんな中での「富裕層」って何なのかと。
例えば「水や物資を大量に備蓄している」ってのを意味するとしても、そんな地位格差は暴力によって簡単に引っ繰り返すことが出来るはずで。
ただし、カウフマンが傭兵たちを使って権力の座を維持しているってのはイマイチ理解できない。傭兵たちがカウフマンに従う必要性が無いでしょ。それこそ武力を用いて始末すればいいはず。
カウフマンが無敵の戦闘能力を誇り、武力で他の連中を制圧しているってことならともかく、そうじゃないんだからさ。

『死霊のえじき』ではローズ大尉が指揮官として基地を掌握し、高圧的な態度で他の面々を制圧していた。
でも、相手は自分の部下と、武力を持たない科学者や無線技師だった。部下に関しては「上官だから」ということで従っているし、科学者たちはローズだけでなく彼の部下も武装しているので逆らえない」という状態だった。それに、ローズが制圧している相手は少数だった。
そういった諸々の条件を考えると、彼が基地で権力者として振る舞っていたのは納得できた。
それと比べて、今回のカウフマンは納得しかねる。

で、改めて「富裕層」の意味について触れるけど、それは「水や物資を大量に備蓄している」ってことじゃなくて、「金持ち」という意味なんだよな。
ボスであるカウフマンも、大量の紙幣を保有している。
いやいや、持っている貨幣によって格差が生じるって、そんなのは絶対に有り得ないでしょ。
政府の機能が崩壊しているんだから、通貨制度だって崩壊しているはずでしょ。紙幣なんて、ただの紙クズになってるはずでしょ。
その貨幣、どこでどうやって使うんだよ。

「何の役にも立たないのに、それを必死になって集めている奴の愚かしさを描く」ということで貨幣に固執するキャラを登場させるなら、それは分かるんだよ。
だけど、そうじゃなくて、ホントに「貨幣の量が格差に繋がる」という世界観の設定なのよね。
それは不可解だし、すげえ無理があると思うぞ。
どうやらジョージ・A・ロメロは「格差社会の問題」ってのを描きたかったようだけど、そもそも「それってゾンビ映画でやることなのか?」という疑問が拭えないしさ。

(観賞日:2014年2月15日)

 

*ポンコツ映画愛護協会