『ラストゲーム』:1998、アメリカ
妻殺しでアッティカ刑務所に服役しているジェイク・シャトルズワースは、所長から呼び出された。ジェイクの息子ジーザスは、高校ナンバーワンと言われるバスケ選手だ。所長はジェイクに、知事の出身校であるビッグ・ステイト大学にジーザスを進学させることが出来たら、15年の刑期を大幅に減刑すると知事が約束したことを語る。
ジェイクは所長の作戦で、食中毒で隔離されるという形をとって刑務所を出た。スパイヴィーとクラドップが監視役に付き、1週間後の大学体育協会への登録までにジーザスを説得せねばならない。当然のことながら、失敗すれば知事との裏取引は消える。
ジェイクは、まずジーザスの妹メアリーと会い、再会を喜び合った。だが、そこに現れたジーザスはジェイク追い返した。ジーザスは母マーサを殺したジェイクを憎んでいたのだ。ジェイクは言い争って妻を突き飛ばし、転倒したマーサは頭を打って死亡したのだった。
ジーザスは、法的後見人であるマーサの妹サリーと夫ババの元を訪れ、ジェイクが出所していることを話した。だが、ババはジーザスに進路のことばかり尋ね、「もう大学との裏取引が成立しているんだろう。俺にも分け前を渡せ」と要求してきた。
ジーザスは自分が通うリンカーン高校のバスケ部コーチから、金を渡すから進路の情報を教えろと迫られた。恋人のララは、規則を破ってでもエージェントのディアンドレメマッキーと会って欲しいと頼んで来た。彼女はエージェントから金を受け取っていたのだ。
安ホテルに泊まっているジーザスは、ヒモのスイートネスに殴られている隣人の娼婦ダコタと親しくなった。ジェイクがコニー・アイランドの町を離れてテック大学を訪れている頃、ジェイクはスパイヴィーから借りた金でダコタとベッドを共にしていた。やがてコニー・アイランドに戻ったジーザスに、ジェイクは1オン1での勝負を要求する…。監督&脚本はスパイク・リー、製作はジョン・キリク&スパイク・リー、撮影はマリク・ハッサン・サイード、編集はバリー・アレクサンダー・ブラウン、美術はウィン・トーマス、衣装はサンドラ・ヘルナンデス、音楽はアーロン・コープランド、歌はパブリック・エネミー、音楽監修はアレックス・ステイヤーマーク。
主演はデンゼル・ワシントン、共演はレイ・アレン、ミラ・ジョヴォヴィッチ、ロザリオ・ドーソン、ヒル・ハーパー、ビル・ナン、ネッド・ビーティー、ジム・ブラウン、トーマス・ジェファーソン・バード、ロジャー・グーンヴァー・スミス、ロネット・マッキー、ゼルダ・ハリス、ジョセフ・ライル・テイラー、ミシェル・シェイ、ジョン・タートゥーロ、アーサー・J・ナスカレラ、トラヴィス・ベスト他。
『マルコムX』のスパイク・リー監督作。ジェイクをデンゼル・ワシントン、ジーザスをNBA選手のレイ・アレン、ダコタをミラ・ジョヴォヴィッチ、ララをロザリオ・ドーソン、ブーガーをヒル・ハーパー、ババをビル・ナン、スパイヴィーをジム・ブラウンが演じている。
突然だが、ウディー・アレンという映画監督がいる。彼のジャズ好きは有名だ。ウディー・アレン監督がジャズ・ギタリストを描いた『ギター弾きの恋』は、ここで内容については論評しないが、とにかく彼のジャズに対する深い愛情は強く感じられた映画だった。
そんなウディー・アレンのジャズ好きと同じぐらい、スパイク・リー監督のバスケ好きは有名だ(ニックスの熱狂的ファンだ)。
さて、この映画を見て、彼のバスケに対する深い愛情を感じ取ることが出来る観客は、どれほどいるのだろうか。
タイトルロールで、スパイク・リー監督はスローモーションによってバスケをプレーするシーンを描く。さらにジーザスがストリート・バスケをするシーンでも、またスローを使う。とにかくスローでバスケのプレーを見せまくる。やたらとスローを多用することで、ここぞという大事なポイントでスローモーション映像の効果が得られなくなってしまう。今回のデンゼル・ワシントンは、アフロにドロボーヒゲという、間違った小柳トムのモノマネみたいな姿で登場する。そんなマヌケな姿はOKでも濡れ場はイヤだったのか、ジーンズを履いたまま腰を振るという、逆にマヌケ極まりない格好を披露する。
ジェイクという父親は、とてもじゃないが誉められた男ではない。それを考えれば、ジーザス視点でジェイクとの親子ドラマを描いた方がいいのではないかと思える。進路のことで周囲から色々と言われ、悩みを抱えるのはジーザスなのだし。
しかしながら、この映画はジェイクとジーザス、どちらにも視点を当てて、どちらのドラマも充実させようと試みる。その欲張りな精神が身を結べば素晴らしい映画になるかもしれないが、結果的には「一途を追う者、二兎をも得ず」になっている。劇中、シャキール・オニールやチャールズ・バークレー、マイケル・ジョーダン、大勢のコーチ達を本人役で出演させ、ジーザスについて語らせるというシーンがある。大勢のバスケ関係者の出演は、この映画のセールスポイントの1つになっている。
しかし、映画としてのバランス、まととりを考えれば、それは邪魔なシーンになっている。これはリアリティーが求められるようなシリアスなドラマなのだが、実際のバスケ関係者を本人役で大挙して出演させることが、逆に荒唐無稽な匂いを持ち込んでしまう。途中、ジーザスの知り合いのビッグ・タイムという男が「黒人の有望スポーツ選手はさけドラッグや女に溺れて潰れる」と語り、イメージ映像も挿入される。
どうやらスパイク・リー監督、どうしてもジーザス個人だけの問題ではなく、黒人全体の問題として語りたかったらしい。
しかし、「ビッグ・タイムの喋りが無駄に長いよ」と思わされるだけだ。実はジェイクとジーザスの親子ドラマは、それほど充実していない。大半はジーザスが周囲から進路について言われたり汚い交渉を迫られたりして悩む姿を描いており、たまにジェイクが絡んでくるという程度。回想シーンで少年時代のジーザスとジェイクの絡みが挿入されるシーンは何度かあるが、そっちの方が現在の絡みより多いぐらい。
それまで父親を嫌悪していたジーザスだが、ジェイクがビッグ・ステイト大のことを持ち出すシーンでは、笑顔で話を聞いている。わだかまりが消えていくようなドラマは、それまでに全く無かったのにだ。忘れていたので、終盤になって慌てて取り戻そうとしたのかもしれないが、だから和解への過程がスッポリと抜け落ちる形になっている。ジーザスのドラマとジェイクのドラマは、それぞれ別々に進行している時間が大半だ。ただし、前述したようなジーザスの悩める姿に多くの時間が割かれており、ジェイクのドラマは大して膨らんでいない。なので、ダコタというキャラクターの存在価値が薄い。
「ジェイクばかりをイヤな奴にしておくわけにはいかない」というワケの分からないバランス感覚が働いたのか、終盤になってジーザスの「ララに堕胎させていた」というダーティーな過去を明らかにする。何のメリットがあるのかは、サッパリ分からない。ジェイクは最後まで、「息子のことを親身になって考えているのではなく、テメエの刑期を減らすために息子を利用しようとしている」としか見えない。何しろ、終盤に至っても、悩めるジーザスを放っておいて、ノホホンと娼婦と楽しんでいるぐらいだしね。
で、そういう風に見えるにも関わらず、最終的に「父と息子は分かり合えた」という終わり方になっている。最後の1オン1で、全て分かり合えたのかもしれない。だが、その納得し難い推理で強引に納得するとしても、それまでの時間は無駄だったということになる。
第21回スティンカーズ最悪映画賞
ノミネート:【最悪の演出センス】部門[スパイク・リー]