『レスリー・ニールセンの2001年宇宙への旅』:2000、アメリカ&カナダ&ドイツ

連邦保安官のリチャード・ディック・ディックスは、管轄外の仕事にまで手を出してトラブルを起こす困った男。ある日、彼はハルヴァーソン長官に呼び出され、月の秘密基地ヴェーガンでエイリアン対策担当官をしているカサンドラ・メナージュと面会する。
カサンドラによれば、ビル・クリントン大統領がエイリアンによって誘拐され、ヴェーガンに連れて行かれたらしい。ホワイトハウスにいる大統領は、クローンだというのだ。そこでディックスは本物の大統領を救出するため、月へと向かうことになった。
ヴェーガンに到着したディックスは、パスクアーレ大尉やブラッドフォード刑事と顔を合わせる。やがて彼は、クローン技術を研究しているプラット博士が怪しいと考える。プラットは部下のカンストラー博士らと共に、密かに人間のクローンを生み出していた。
ディックスは大統領を救出し、地球に戻ってクローンと交換する。だが、実はディックスが連れて来た大統領がクローンだった。全てはハルヴァーソンと手を組んだプラットの策略だったのだ。ディックスはクローンの大統領が出席するパリ・オペラ座での3大テノール・コンサートへ向かい、本物の大統領と入れ替えようとする…。

監督はアラン・A・ゴールドスタイン、脚本はアラン・シェアーマン、製作はダニー・ロスナー、共同製作はヴェルナー・コーニグ&マーティン・ヘルドマン&エッジオ・グレッジオ、製作総指揮はチャールズ・スマイリー&ジェフリー・コンヴィッツ、撮影はシルヴェイン・ブロールト、編集はガエタン・フート、美術はチャバ・ケルテス、衣装はニコール・ペルティエ、特殊視覚効果はボブ・キーン、音楽はクロード・フォイジー。
主演はレスリー・ニールセン、共演はオフェリー・ウィンター、エッツィオ・グレッジオ、アレクサンドラ・カンプ、ダミアン・メイソン、ピーター・イーガン、ピエール、テレサ・バーンウェル、サム・ストーン、ヴェローナ・フェルブッシュ、ミシェル・ペロン、ポール・レインヴィル、イヴァン・ドゥシャーム、カルロス・ルイス、トミー・シュナーマッチャー、アラン・シェアマン他。


ディックスをアメリカ映画界で人気者のレスリー・ニールセン、カサンドラをフランス映画界で活躍するオフェリー・ウィンター、パスクアーレをイタリアのエッツィオ・グレッジオ、カンストラーをドイツのアレクサンドラ・カンプ、プラットをイギリスのピーター・イーガンが演じているという、ワールドワイドなキャスティングのSFコメディー。

キャスティングとしては、有名人のソックリさんが多く出演しているのもポイントだ。
クリントン大統領のソックリさんのダミアン・メイソンを始めとして(この人の出番はかなり多い)、ヒラリー・クリントン、元プリンス、マドンナ、ローマ法皇、ハルク・ホーガン、プラシド・ドミンゴ、ルチアーノ・パバロッティー、ホセ・カレーラスの3大テノール。さらにはグルーチョ・マルクス、ではなく、サダム・フセインのソックリさんも登場する。

タイトルはキューブリック監督の『2001年宇宙の旅』をもじっているが、中身は序盤にモノリスを使ったギャグがあったり、同じ音楽が使われたりする程度で、あの作品のパロディーとしては作られていない。それ以外にも、映画のパロディーはほとんど無い。
映画パロディーよりも、小ネタを積み重ねて笑いを生み出そうとしている。基本的には下ネタが多い。で、見事なぐらいに笑えない。前述したようにソックリさんが多く登場するが、ほとんどが「ソックリさんが出ています」というだけで、笑いに結び付いていない。

そもそもギャグの根本からして寒いのだが、その見せ方も上手くない。例えば、さりげなくギャグを見せればいいポイントで、「これから面白いことをやります」「ここがギャグのポイントです」というのをアピールして、これ見よがしに大写しにしたりする。
他にも、ギャグの間が悪かったり、間延びしていたり、ギャグ演出がギャグのポイントより前のめりになっていたり、カリカチュアライズや捻りが中途半端だったり、前振りが必要なギャグで前振りが足りなかったり、繰り返しギャグのテンポが緩かったり。

映画のパロディーではないのに、パロディーのような見せ方をしたりするポイントが幾つもある。日常に存在する場所が舞台なら、観客は「本来はどうなるべきなのか」を分かっているから、そこで本来とは違うことが起きた場合に、それがギャグとして成立する。
しかし、この映画の舞台は架空の未来だから、「本来はどうなるべきなのか」が観客には分からない。例えば、そのボタンを押したらどうなるのか、そこに触れたらどうなるのか、そういった舞台となっている世界観での決まりごとが、一切分からない。
そういうポイントでギャグを作り出すのなら、先に「本来はどうなるべきなのか」を見せてから、後で違う状態を見せるべきだった(SF映画のパロディーの部分は説明不要だが)。オリジナルが存在しなければ、そこにパロディーは成立しないのだ。

 

*ポンコツ映画愛護協会