『夜霧のマンハッタン』:1986、アメリカ
1968年、ニューヨーク。8歳の誕生日を迎えたチェルシー・ディアドンは、父親の画家セバスチャンから絵をプレゼントされた。しかしその夜、自宅で火災が発生。セバスチャンは死亡し、絵画も全て消失してしまった。
それから18年後、チェルシーは父親の友人だったロバート・フォレスターから絵を盗もうとした容疑で逮捕される。弁護を担当することになったローラ・ケリーは、担当のトム・ローガン検事補を裁判の前にチェルシーと面会させる。
チェルシーは絵は自分が8歳の時に父親からプレゼントされたもので、取り返そうとしただけだと主張。自分の絵である証拠に、「チェルシーへ」という裏書きがあると言う。ローガンとケリーがフォレスターに会いに行くと、知人であるタフトに絵を渡したと言われる。
ローガンとケリーはタフトのギャラリーで絵を確認するが、裏書きは無かった。しかし、18年前の火災を殺人として調査していたC・J・キャバナー刑事から資料を渡されたケリーは、保険会社の作品目録では例の絵が消失したことになっている事実を知る。
タフトを尾行したローガンとケリーは時限爆弾をセットした倉庫に閉じ込められるが、何とか脱出。その日の夜、タフトから逃げてきたというチェルシーがローガンを訪れ、2人はベッドを共にする。翌朝、踏み込んできた刑事はチェルシーをタフト殺害容疑で逮捕してしまう…。監督&製作はアイヴァン・ライトマン、原案はアイヴァン・ライトマン&ジム・キャッシュ&ジャック・エプスJr.、脚本はジム・キャッシュ&ジャック・エプスJr.、製作総指揮はジョー・メジャック&マイケル・C・グロス、製作協力はシェルドン・カーン&アーノルド・グリムシャー、撮影はラズロ・コヴァックス、編集はシェルドン・カーン&ペム・ヘリング&ウィリアム・ゴーディーン、美術はジョン・デキュア、衣装はアルバート・ウォルスキー、音楽はエルマー・バーンスタイン、主題歌はロッド・スチュアート。
出演はロバート・レッドフォード、デブラ・ウィンガー、ダリル・ハンナ、ブライアン・デネヒー、テレンス・スタンプ、スティーヴン・ヒル、デヴィッド・クレノン、ジョン・マクマーティン、ジェニー・ダンダス、サラ・ボッツフォード、ロスコー・リー・ブラウニー他。
例えば、高倉健が女を口説きまくる映画を見たがる人がいるだろうか。
例えば、田村正和が勇ましい男を演じるドラマを見たがる人がいるだろうか。
彼らはもはや「高倉健」や「田村正和」を演じており、視聴者もそれを期待している。では、美しい女の登場に慌てふためいてオロオロしたり、娘に突っ込まれて情けなくオロオロしたりするロバート・レッドフォードを、観客は見たいだろうか。
金髪の渋い二枚目俳優としての固定イメージを完全に確立したロバート・レッドフォードが、トンチキでコミカルな芝居をする姿を見たいと思うだろうか。単純な話、この映画にはキャスティングのミスがある。
レッドフォードにローガン役をやらせたことが失敗なのである。
本人はそれなりに頑張っているのだろうが、コミカルな所のあるハンサム男ではなく、ギャグを外しているカッコ悪い男にしか見えないのだ。
例えばチェヴィー・チェイス辺りがローガンを演じていたら、もう少しマシなものになっていたかもしれない。とはいえ、そうだったとしても中途半端な感じは否めないのだが。寝付けないローガンがタップを踊ったり、同じく寝付けないケリーが食べまくったりする姿に時間を割き、チェルシーのトンマなパフォーマンス・アートにも時間を割く。
無駄な場面には余計な時間を浪費するが、本筋はなかなか進めようとしない。スマートでユーモラスなサスペンスを作りたかったようだが、見事に失敗している。
中途半端なユーモアは、サスペンスとしての味を壊す役目しか果たしていない。
アイヴァン・ライトマンにサスペンスは合わないということを証明した作品だろう。