『夕陽よ急げ』:1967、アメリカ

第二次世界大戦直後のジョージア州。リバーサイドでは、ジュリー・アン・ウォーレンが相続した広大な土地に工場を誘致する計画が持ち上がっている。だが、白人ラッド・マクドウェルと黒人ローズ・スコットの土地買収が、思うように進んでいない。
土地の買収を進める責任者は、ジュリーの2人目の夫ヘンリーだ。彼は今回の計画を上手く進めれば、建設会社の重役になることが決まっている。ヘンリーは、ジュリーと前の夫の息子コーリーが自閉症で口を聞かないことに、不快感を抱いている。
ヘンリーとジュリーにとって、土地の買収相手は赤の他人ではない。ラッドはヘンリーの従弟で、ローズはジュリーが幼い頃に面倒を見てもらった乳母だ。ヘンリーはラッドの息子チャーリーにプレゼントを渡すなどして、自分に懐かせている。
ローズは息子リーヴは、ヘンリーに強い敵対心を抱いており、絶対に土地を売るつもりは無い。リーヴは友人ヴィヴィアンの元へ行き、彼女の祖父ターロウ教授に協力を求めた。リーヴは、曽祖父が1860年に交わした土地所有権の書類を持参していた。
ジュリーはローズの元に行き、白人と同じ値段で土地を買うというヘンリーの意志を伝えた。だが、ローズは頑なに土地売却を拒んで興奮し、心臓発作で倒れてしまう。一方、ヘンリーはラッドの元へ行くが、やはり土地の売却を拒否された。
ローズは息子リーヴに「白人の言いなりにならず、戦いなさい」と言い残して息を引き取った。リーヴはラッドと手を組み、土地に水路を引くためにダイナマイトを使う。ヘンリーが現場に駆け付けている間に、部屋に軟禁されたコーリーが暴れて重傷を負った。ヘンリーはリーヴの行為が違法だと訴え、保安官に逮捕させようとする…。

監督&製作はオットー・プレミンジャー、原作はK・B・ギルデン、脚本はトーマス・C・ライアン&ホートン・フート、撮影はミルトン・R・クラスナー&ロイヤル・グリッグス、編集はルイス・R・ローフラー&ジェームズ・D・ウェルズ&トニー・デ・サラガ、美術はジーン・キャラハン、衣装はエステヴェス、音楽はウーゴ・モンテネグロ。
出演はマイケル・ケイン、ジェーン・フォンダ、ジョン・フィリップ・ロー、ダイアン・キャロル、ロバート・フックス、フェイ・ダナウェイ、バージェス・メレディス、ロバート・リード、ジョージ・ケネディー、フランク・コンヴァース、ロリング・スミス、ジム・バッカス、ビア・リチャーズ、マデレーン・シャーウッド、レックス・イングラム、スティーヴ・サンダース、ジョン・マーク他。


K・B・ギルデンの小説を映画化した作品。アシスタント・ディレクターとして、後に『ロッキー』などを監督することになるジョン・G・アヴィルドセン、『プリンス・オブ・シティ』などのプロデュースを手掛けることになるバート・ハリスが携わっている。
ヘンリーをマイケル・ケイン、ジュリーをジェーン・フォンダ、ラッドをジョン・フィリップ・ロー、ヴィヴィアンをダイアン・キャロル、リーヴをロバート・フックス、ラッドの妻ルーをフェイ・ダナウェイ、判事をバージェス・メレディス、保安官をジョージ・ケネディーが演じている。

ウォーレン家ではヘンリーとジュリーの夫婦関係があり、自閉症の息子コーリーの問題がある。マクドウェル家ではラッドとルーの夫婦愛があり、長男チャーリーの反抗がある。スコット家ではローズとリーブの親子関係がある。また、ヘンリーとラッドの血縁関係や、ローズとジュリーの親しい関係といった要素も絡んでくる。
夫婦の問題や、親しい人間関係が争うという問題に加え、土地を巡る問題、貧富の差を巡る問題、人種差別の問題なども絡んでくる。様々なことがあって、それらを全て捌いていくのは大変だ。で、どうなったかというと、やっぱり捌き切れていない。

どれもこれも、つまみ食いをして、食べ散らかして放置してしまう。どこに重点を置きたいのか、どこに焦点を当てたいのか、まるで分からない。大勢の人物を登場させて、誰も彼もにスポットを当てて、結果的には全員が薄い印象になっているという始末。

クレジットでは、マイケル・ケインが最初に来る。しかし、彼を主人公として見るのは苦しい。何しろ、どうしようもなく不快なだけの悪党だからだ。ではジェーン・フォンダを主役として見るべきかというと、それも苦しい。何しろ、自分の息子が夫の虐待のせい自閉症になっているのにイチャイチャしているような、やはり不愉快な人物だからだ。
誰が主役として適当なのかと考えた時に、最初に目に付くのはラッドだ。しかし、彼が主人公にふさわしい存在感を示すかと問われると、ノーと言わざるを得ない。クレジットの順番で見れば次はヴィヴィアンだが、どう頑張ってもリーヴを助ける脇役でしかない。

終盤に裁判劇が待っていることを考えると、リーヴを主人公として話を構成するのが最も適しているように思える。しかし、その裁判劇では、なぜかジュリーを主役に据えてしまう。しかも、悪役だったジュリーを、急に善玉にしようとする。しかしながら、急にヘンリーに冷たくなる姿は、正義に目覚めたというより、高慢な態度にしか見えない。
「不当に訴えられたリーヴが差別を跳ね返して勝利する」という形を取っていれば、裁判終了でエンディングに雪崩れ込める。しかし前述したように、裁判の主役はジュリーだ。その形では、裁判劇が終わってもエンディングに行くことが難しくなる。
というわけで、裁判の後も、「ジュリーに離婚を告げられたヘンリーが、ダムをダイナマイトで爆破する」という展開を用意する。そして、ここではヘンリーに「チャーリーを助けようとする」という行動を取らせ、彼まで善玉サイドに傾けてしまう。しかし、それまでの行動を考えると、それはムリ。どう頑張っても悪人なので、半端なことをされても困る。

放っておかれる問題が幾つかあるが、特にガキの扱いが悪い。コーリーは、本来ならば不憫に思われるべき人物なのだろうが、余計な時に泣き叫ぶという行動ばかりが目立つ邪魔者として描かれている。正直、煩わしいだけの存在だ。
さらに扱いが悪いのが、ラッドの息子チャーリーだ。このガキンチョ、黒人への差別意識剥き出しで、「黒人の味方をする奴は死ねばいい」と父親に言い放つ。最後はラッドと和解するのかと思いきや、そのまま死亡する。正直、同情心は沸かない。

そして映画は、いつの間にかジュリーが消え、ヘンリーも爆破で姿を消し、チャーリーが死亡し、ラッドが仲間と共に土地を再開発しようと動き出した所で終わる。
「えっ?」と言いたくなる終幕だ。
ってことは、やっぱりラッドが主役で、土地を巡る話だったということか。
そんな風にも、最後になって思うが、自分自身でも納得できる答えではない。

 

*ポンコツ映画愛護協会