『Mr.オセロマン/2つの顔を持つ男』:1972、アメリカ

大規模な移植病院を経営するマックスウェル・カーシュナーは、1年ほど前から重い関節炎を患って車椅子生活を余儀なくされている。そのため手術でメスを握ることは無く、現在は監督を務めるだけになっている。しかもカーシュナーは末期癌を患い、余命わずかとなっていた。そこで彼は、自分の頭部を他人に移植する手術を行うことにした。既に自宅で可愛がっていたゴリラを使い、実験を済ませていた。地下室の檻へ赴いたカーシュナーは、2つの頭を持つゴリラの姿を確認する。可愛がっていたゴリラの頭部を、野生のゴリラの肉体に移植したのである。既に刑務所から死刑囚を貰い受ける許可を得て、カーシュナーの移植準備も進められていた。
カーシュナーは助手のフィリップに、自分の手術での執刀を指示した。運転手のトーマスは投薬での治療を提案するが、カーシュナーは「頭が麻痺してしまう。頭脳さえ残ればいいんだ」と述べた。カーシュナーはゴリラに麻酔を打ち、元の頭部を切断しようとする。しかしゴリラは暴れて地下室から逃亡し、屋敷の外へ出てしまう。フィリップとトーマスが後を追い、雑貨店でバナナを食べていたゴリラを捕獲した。カーシュナーはフィリップの助手として、新しい医師を雇おうと考える。しかし現れたフレッド・ウィリアムズが黒人だったため、差別主義者のカーシュナーは露骨に嫌悪感を示して追い払った。
看護婦のパトリシアたちは各地に電話を掛けて移植手術のための健康体を探すが、なかなか見つからない。カーシュナーは容体が急に悪化して昏睡状態へと陥っており、一刻も早く移植する必要があった。無実を訴える死刑囚のジャック・モスは、医学実験のための協力を持ち掛けられて承諾した。警官隊はジャックを屋敷へ移送し、フィリップたちに引き渡した。フィリップたちはジャックに注射を打って眠らせ、切断したカーシュナーの頭部を肩の部分に移植した。
意識を取り戻したカーシュナーに、フィリップは移植の成功を知らせた。カーシュナーが自分の意志でジャックの腕を動かすが、黒人の体だと知って愕然とする。フィリップが「すぐに手術が必要でした。若くて健康な死刑囚は、この男しかいなかったんです」と釈明すると、カーシュナーは「仕方あるまい」と漏らした。一方、ジャックも意識を取り戻し、自分の顔の隣にカーシュナーの頭部が付いているのを知る。「どうなってるんだ?お前は誰だ?」とジャックが困惑すると、カーシュナーは面倒そうに「お前の体に私の頭部を移植しただけだ。その内、どうなるかは分かる」と述べた。
ジャックが暴れようとしたので、フィリップが麻酔で眠らせた。フィリップはフレッドを屋敷に呼び寄せ、移植手術で拒絶反応が起きているので協力してほしいと頼む。フレッドが承諾すると、フィリップは「まだ手術の全貌は明かせないが、必要な情報は全て提供する」と告げて部屋を与えた。彼はフレッドにジャックの体を見せず、血清の研究だけを担当してもらう。ジャックは肺炎を起こすが、スタッフの尽力によって症状は回復した。
看護婦が鎮静剤を打ちに行くと、眠っているフリをしていたジャックは彼女を捕まえる。ジャックは看護婦を注射で眠らせ、部屋から抜け出した。彼が警備員を階段から突き落としたところで、カーシュナーが目を覚ました。ジャックは拳銃を奪い、集まった面々を脅した。ジャックはフレッドに車を用意させ、運転させて屋敷から逃亡する。すぐにフィリップたちは後を追い、通り掛かったパトカーにも追跡を要請する。ジャックは運転を交代し、フィリップは追跡をパトカーに任せて屋敷へ戻ることにした。
ジャックはパトカーを撒き、車を捨てて休息を取った。ジャックが眠り込むと、カーシュナーはフレッドに「2人で歴史に残る偉業を成し遂げよう」と協力するよう持ち掛ける。ヘリコプターから警官が発砲して来たため、ジャックとフレッドは慌てて逃走する。ジャックはモトクロスのバイクを拝借し、フレッドを後ろに乗せてレース場を滑走した。パトカーが追って来るが、ジャックは振り切ってレース場を後にした。今度は別のパトカー数台が追って来るが、またもジャックは逃走に成功する。ジャックは匿ってもらうため、妻であるライラの元へ行く…。

監督はリー・フロスト、原案はリー・フロスト&ウェス・ビショップ、脚本はリー・フロスト&ウェス・ビショップ&ジェームズ・ゴードン・ホワイト、製作はウェス・ビショップ、製作総指揮はジョン・ローレンス、撮影はジャック・スティーリー、音楽はロバート・O・ラグランド、音楽プロデュース&監修はマイケル・ヴァイナー。
出演はレイ・ミランド、“ロージー”・グリア、ドン・マーシャル、ロジャー・ペリー、チェルシー・ブラウン、キャシー・バウマン、ジョン・ダラガン、ジョン・ブリス、ブルース・キンボール、ジェーン・ケレム、リー・フロスト、ウェス・ビショップ、ロジャー・ジェントリー、ブリット・ニルソン、リック・ベイカー、フィル・フーヴァー、ロッド・スティール、マイケル・ヴァイナー、ウィリアム・スミス、ジェリー・バトラー、ジョージ・E・ケアリー他。


『アニマル』や『セックスファイター』など、セックス・エクスプロイテーションの作り手として活動していたリー・フロストが監督を務めたホラー・コメディー映画。
『双頭の男』という題名でテレビ放送されたこともある。
脚本はリー・フロストと『淫欲野獣/SEX暴力団』のウェス・ビショップ、『地獄の暴走』『ヤング・アニマル』のジェームズ・ゴードン・ホワイトによる共同。
ジェームズ・ゴードン・ホワイトは前年に『怪奇!双頭人間』という作品も脚本も手掛けていて、同じアイデアを使っている。

カーシュナーを演じたのは、1945年の『失われた週末』でアカデミー賞主演男優賞とカンヌ国際映画祭男優賞、他にも数多くの映画賞を受賞したレイ・ミランド。
1954年にはアルフレッド・ヒッチコック監督の『ダイヤルMを廻せ!』で主演を務め、この2本が彼の代表作。
1960年代に入ると活躍する場所が大きく変化し、ロジャー・コーマンの『姦婦の生き埋葬』と『X線の眼を持つ男』に主演。1970年の『ある愛の詩』では主人公の父親を演じたが、B級SFやB級ホラーが主戦場となった。
ちなみに本作品は、ロジャー・コーマン作品と同じAIPの配給で全米公開されている。

オスカー俳優のレイ・ミランドと「ダブル主演」の形でクレジットされているジャック役のロージー・グリア(ルーズヴェルト・グリア)は、元々はNFLのニューヨーク・ジャイアンツでラインバッカーとして活躍していたアメフト選手。
引退してからテレビ番組のホストに転向し、歌手としても活動している。
他に、フレッドをドン・マーシャル、フィリップをロジャー・ペリー、ライラをチェルシー・ブラウン、パトリシアをキャシー・バウマンが演じている。
アンクレジットだが、特殊効果を担当したのはデビュー間もない頃のリック・ベイカーで、ゴリラの「中の人」も担当している。

邦題に「Mr.オセロマン」とあるが、そんな名前の怪人が登場するわけではない。原題は「The Thing with Two Heads」だから、まるで違う邦題になっている。
白人の頭部が黒人と合体するから、「白と黒でオセロ」ってことで「Mr.オセロマン」というわけだ。
今の時代だと、「差別が云々」ってことでアウトになるかもしれない。
でも原題からは逸脱しているけど、そんなに悪くないセンスだと思うのよね。映画のテイストや品質も含めて、何となく合っているのでね。

映像的な面で最も重要になるのは、いかにして「黒人の体に白人の頭部だけを移植した状態」を表現するかってことだ。
当時は今のようなVFXなど無かったので、後から映像を加工して頭部を加えるなんてことは出来ない。
そこで本作品が採用したのは、「二人羽織」である。
特殊効果とは全く関係の無い、ものすごくレトロな方法を取ったわけだ。
ちなみに前述した『怪奇!双頭人間』でも、やはり二人羽織が採用されている。まあ当時の技術だと、それしか方法は無いかなあ。

ただ、「当時の技術だと仕方がない」という事情を考慮しても、やっぱり「安っぽい」「陳腐」という印象を受けることは事実である。
何しろ、レイ・ミランドがロージー・グリアと同じ服を着て、後ろから頭部だけを出しているのがバレバレだからね。
英語で何と呼ぶのか知らないけど、「二人羽織」にしか見えないのよ。
そして二人羽織に見えるってことは、ちっとも怖くないどころか、喜劇でしかないのよ。
もしくは余興ね。

ホラー・コメディー映画と前述したけど、リー・フロストが最初からコメディーを意識していたかどうかは微妙なところだ。
むしろ、普通に怪奇映画を撮ろうとしたけど、双頭の男が陳腐な見た目になってしまったせいで、予期せぬコメディーのテイストが混じったということじゃないかと。
と言うのも、その部分を除けば、笑いを取りに行っている演出やシナリオを強く感じるわけではないのよね。
別の何かを狙いに行っている可能性は感じるけど、それについては後述する。

「2つの頭を持つ男」というネタだけでは厳しいと思ったのか、序盤は「2つの頭を持つゴリラ」を登場させ、そいつが暴れて逃げ出すという展開を用意している。町の人々が双頭のゴリラを見て驚き、逃げ惑う様子が描かれる。
でも考えてほしいんだけど、そもそもゴリラが町に表れて暴れ回ったら、それだけで普通は誰でもビビッて逃げるよね。
つまり、そういう展開を用意しても、「双頭のゴリラ」という設定は全く意味が無いのよ。
人々はゴリラが双頭だからビビッて逃げるんじゃなくて、ゴリラだから逃げているわけで。

ジャックが登場すると、映画の雰囲気が一気に変化する。その理由は、ノリのいいソウル・ミュージックがBGMとして流れるからだ。
「これって何の映画だったっけ?」と首をかしげてしまうほど、そこだけ急に別の作品が混入したかのような雰囲気を醸し出す。まるで「無実で投獄された黒人の主人公を描くプリズン・ムービー」とか、そんな感じのノリになる。
でも、すぐに彼が移送されてカーシュナーの頭部が移植される手術シーンへ移るので、また元の軌道へ修正される。
「だったら、その黒人映画っぽいノリが入る短いシーンって邪魔だよね。余計なノリだよね」と思うかもしれないが、そうとも言い切れないような展開が、その後に待ち受けている。

カーシュナーがフレッドを嫌悪して追い払うシーンは、分かりやすい前フリになっている。そんな黒人嫌いのカーシュナーが、黒人であるジャックの体に頭部を移植される。
で、たぶん「黒人嫌いのカーシュナーが、黒人のジャックと同じ体で争って云々」というトコの面白さを狙っていたんだろうとは思う。
ただし考えてほしいんだけど、別にカーシュナーが黒人嫌いじゃなくても、ジャックが黒人じゃなくても、普通は勝手に他人の頭部を移植されたら嫌がるでしょ。
一方、ジャックが黒人じゃなくても、無実を訴える死刑囚で自分の言うことを聞かなかったら、カーシュナーは批判的な態度を取ったり嫌味を浴びせたりするでしょ。

つまり、カーシュナーとジャックが言い争いになったり、カーシュナーの要求をジャックが無視して行動したりする展開は、前述した要素を削ぎ落しても同じように作れちゃうのよ。
なので、カーシュナーの黒人嫌いという設定や、「白人の頭部が黒人に移植される」という展開は、ほぼ無意味と言ってもいい。
この映画は「白人と黒人」という分かりやすい組み合わせを持ち込んでおきながら、それを活用するための作業を完全に失敗しているのだ。

ジャックは何度も無実を主張し、それを証明するために協力してくれとフレッドに頼む。フレッドは警官殺しの濡れ衣を着せられたという彼の潔白を信じるようになり、アリバイを証明する人間について尋ねる。
フレッドはウィリー・トンプソンという男を泊めてやったこと、事件が起きたら逃げてしまったことを話す。
この辺りのシーンは全て、「何のための描写なんだよ」と言いたくなる。
ジャックの肉体にカーシュナーの頭部が移植されたことと、ジャックの無実を証明することは、何の関係も無いでしょ。

そもそも、「ジャックが屋敷から逃亡し、警察に追われる」という展開自体が、「ジャックの肉体にカーシュナーの頭部が移植された」という要素を全く活用していない。
単に「無実を訴えるジャックがフレッドの車を使って逃亡し、警察に追われる」という部分だけを使って話を進めたとしても、ほぼ内容は変わらない。
何が問題かというと、双頭人間を登場させておきながら、怪奇映画としての方向性を全く打ち出そうとしていないことだ。
単なる逃亡劇を描いたら、双頭人間の存在が無意味になるのも当然だろう。

ジャックが屋敷から脱出した後は、ライラの家に辿り着くまで延々と「警察からの逃亡劇」が描かれる。
最初は車、途中からバイクを使い、ジャックがパトカーの追跡を振り切る様子が描かれる。クラッシュあり、カーチェイスありで、ようするにアクションシーンが続く構成になっている。
軽快なBGMが流れており、もはや怪奇映画の雰囲気など全く無い。すっかりブラックスプロイテーション映画のような状態になっている。
「別の何かを狙いに行っている可能性」と書いたのは、それのことだ。

ただしブラックスプロイテーション映画として捉えるにしても、最初に主人公として登場するのはカーシュナーだし、頭部の移植手術という要素はあるので、中途半端な形になっている。
しかも、前半の内にブラックスプロイテーション映画へと変貌しておきながら、終わり近くになると「ジャックの肉体を支配したカーシュナーが自分で彼の頭部を切断しようとする」という展開が用意され、急に怪奇映画へ舵を戻そうとする。
そのくせ、最後は生き延びたジャックがフレッド&ライラと車に乗って楽しく歌う様子が描かれており、結果としては「ただデタラメなだけの映画」という印象になっている。

(観賞日:2017年8月8日)

 

*ポンコツ映画愛護協会