『めぐりあう時間たち』:2002、アメリカ&イギリス

1941年、作家のヴァージニア・ウルフは夫のレナードと姉のヴァネッサに書き置きを残し、自宅を出た。彼女はウーズ川へ赴き、入水自殺した。夫宛ての書き置きには、「私はまた錯乱するわ。あの恐ろしい時間に耐えられないし、今度は回復しない。声が聞こえ始めると、集中できなくなるの。だから最善のことをします。貴方は何もかも最高だった。私は貴方の重荷。私が消えれば、貴方は思うように動ける。私たちほど幸せな夫婦は居なかった」と綴られていた。
1951年、米国のロサンゼルス。主婦のローラ・ブラウンは夫のダン、息子のリッチーと3人で暮らしている。1923年、英国のリッチモンド。ヴァージニアはレナードと暮らしている。2001年、米国のニューヨーク。編集者のクラリッサ・ヴォーンは恋人のサリー・レスターと同棲生活を送っている。ヴァージニアは頭痛に悩まされながらも、執筆活動を続けている。彼女はレナードから、医師の指示に従うよう促される。ヴァージニアは新作の書き出しを着想し、『ダロウェイ夫人』の執筆に取り掛かる。
ローラは寝室で起床し、ダンがキッチンで何かを探している物音を耳にする。彼女は体を起こし、『ダロウェイ夫人』を読む。クラリッサは『ダロウェイ夫人』の書き出しにある「お花は私が買って来るわ」という言葉を大声で告げ、サリーが目を覚ます。ローラがダイニングへ行くと、ダンがリッチーに朝食を食べさせている。ダンは自分の誕生日なのに、ローラに花を買っていた。あと4ヶ月で出産するローラを、ダンは優しく気遣った。
ダンが会社へ出掛けた後、ローラはリッチーに「ケーキを焼くわ。だってパパの誕生日ですもの」と告げる。「僕にも手伝わせて。いいでしょ?」とリッチーが言うと、彼女は「もちろんよ」と答えた。クラリッサは作家である友人のリチャードがカラザース賞を受賞したお祝いとして、パーティーを企画していた。彼女は友人たちに電話を掛けて出席を要請し、花屋へ出掛ける。店主のバーバラはクラリッサに、リチャードの小説が難しかったことを話す。クラリッサは難解であることは認めた上で、面白い本だと告げる。
クラリッサはバーバラから「彼の小説のモデルは貴方ね」と言われ、「彼は作家だから、何でも材料にするの。私たちは学生だった。でも事実を書き換えてるわ」と語る。花を買ったクラリッサは、病気で療養しているリチャードのアパートを訪れた。「授賞式は5時からよ。その後、ウチでパーティーを開く」と彼女が言うと、リチャードは自虐気味に「エイズでイカれても、くたばらない。しぶとさへの賞だ」と告げる。クラリッサは「違うわ」と否定し、「大丈夫よ、たかがパーティーよ」と言う。
リチャードは「行けないよ」とパーティーへの出席に難色を示し、浜辺でクラリッサからキスされた時のことを語る。そしてクラリッサに、「覚えてるか?あの時、何を求めてた?」と問い掛ける。クラリッサが答えずにいると、リチャードは「僕が死んだら怒るかい?僕は君を満足させるために生きてる」と口にする。クラリッサは動揺しながらも、「人はみんな、お互いのために生きるの」と微笑を浮かべる。「認めないわ、死ぬなんて」と彼女が言うと、リチャードは「君のために死ぬんだ。何年間、僕の世話を?僕のことを考えろ」と告げる。クラリッサは「3時半に着替えを手伝うわ」と述べ、アパートを後にした。
ヴァージニアは執筆中にメイドのネリーが部屋へ来て「相談が」と言われると、露骨に不快感を示す。1階へ下りた彼女は、ネリーが後輩メイドのロッティーに「奥様の気まぐれには付き合えない。欲しくないのに必要だって言うの」と愚痴っているのを耳にいる。彼女は厨房へ入り、相談の内容を尋ねる。ネリーはレナードから、昼食について相談するよう言われたことを伝える。ネリーは既にメニューを決めており、ヴァージニアは承諾した。
ヴァージニアは4時にヴァネッサが子連れで来ることを確認し、「中国茶とジンジャーを、子供たちにクッキーを」とネリーに指示する。ネリーは「ロンドンで買わないと。まだ昼食の準備が終わってません」と言うが、ヴァージニアは「列車で行けば間に合うわ」と買い物へ行くよう要求した。ヴァージニアは仕事中のレナードに、「散歩に行っていい?すぐ近くよ」と告げる。許可を貰ったヴァージニアは散歩へ出掛け、「彼女は死ぬわ。些細なことで自殺するの」と『ダロウェイ夫人』の筋書きを思い付いた。
ローラは材料を用意し、ケーキを作り始めた。楽しそうに作業を手伝うリッチーに、彼女は「ケーキを焼いて、パパに愛情を伝えたいの」と言う。「焼かないと伝わらない?」と問われたローラは、「ええ」と答えた。クラリッサはサリーから、「リチャードは欠席するって?でも絶対に来るわ」と告げられる。席次表を見たサリーは、「ルイスが来るの?リチャードの元恋人よ」と驚いた。彼女はクラリッサに、「私の隣ね。いつも元恋人の隣」と告げる。サリーが外出すると、クラリッサは「何もかもが悪い方へ」と呟いた。
ローラがケーキ作りに失敗した直後、友人のキティーが訪ねて来た。キティーは夫婦揃って社交的で、その日も明るい様子だった。しかしキティーは突如として深刻な表情になり、腫瘍が出来て午後から入院することを打ち明けた。「医者の見立ては?」とローラが訊くと、キティーは「不妊の原因は腫瘍だった。貴方は運のいい人ね。母になることが女の証し」と涙ぐむ。「心配なのは夫のレイよ。何かあれば取り乱すわ」と彼女が言うと、ローラは「レイのことは忘れて」とキスする。キティーは「優しい人ね」と言い、特に気にする様子もなく去った。ローラは自分を見つめているリッチーに気付き、「何が言いたいの?」と告げてケーキをゴミ箱に捨てた。
ヴァージニアは予定より早く訪れたヴァネッサを迎え入れ、3人の子供たちにも会った。ヴァージニアが「ネリーをロンドンへ買い物に行かせた」と話すと、ヴァネッサは「まだ使用人が怖いの?」と呆れる。ヴァージニアはヴァネッサから「街を出るなと医者に言われたんでしょ」と告げられ、「医者は下劣で頭が古いわ」と吐き捨てる。「調子は良くなった?田舎は癒やされる?」と訊かれたヴァージニアは、「心を病んでいても、パーティーに誘われたいわ」と口にした。
ローラはリッチーに、「またケーキを作るの上手く作ったら、外へ出掛けるわよ」と言う。クラリッサがパーティーの準備をしていると、予定より早くルイスがやって来た。「彼女とは、まだ?」と質問されたクラリッサは、「一緒に暮らして10年よ」と答える。ルイスが「昔の家を訪れた。あの頃のままだ」と言うと、クラリッサは「行くには勇気が必要よ。事実と向かい合うの。あの頃の思いは消え失せたと」と語る。うろたえた様子を見せた彼女は、「落ち着かないわ。何だか不吉な予感がするの」と言い、急に泣き出した。
クラリッサはルイスに、「なぜ私は取り乱してるの。胸が張り裂けそう。貴方は遠いサンフランシスコ。私は何年もリチャードの世話。ずっと正気を保って来たわ」と言う。さらに彼女は、「あの日、あの家に私たちと貴方がいた。私は彼の恋人で、ミセス・ダロウェイと呼ばれた。あの日から、その呼び名がずっと付いて回るの。彼が選んだのは貴方だった。私は一夏の女」と述べた。ルイスはリチャードと別れた後のことを語り、クラリッサの家を去った。
ローラはケーキを完成させると、リッチーを車に乗せて「用事があるからラッチさんの所へ」と言う。「行きたくない」とリッチーが口にすると、ローラは「パパが帰る前に済ませたいの」と告げる。彼女は近所に住む子守りのラッチ夫人を訪ね、リッチーを預けた。ローラが車に乗り込むと、リッチーは泣いて後を追い掛ける。しかしローラは息子を無視し、車で走り去った。彼女はホテルにチェックインすると、ベッドに薬の瓶を並べて『ダロウェイ夫人』を読んだ。
ヴァージニアはヴァネッサが話し掛ける言葉を全く聞かず、「彼女がこの世から完全に姿を消したとしても、全ては変わりなく続く。そのことを恨むか、死で全て終わると信じて自分の心を慰めたか。死ぬことは可能」という『ダロウェイ夫人』の文章を構想する。ようやく彼女が呼び掛けに気付くと、ヴァネッサの末娘であるアンジェリカが歩み寄って「何を考えてたの?」と問い掛けた。ヴァージニアは彼女、「主人公を殺すこと。でも気が変わったの。他の人を殺しそうで怖いわ」と答える。
ローラは薬で自殺しようと考えていたが、「死ねない」と叫んでベッドから飛び起きた。ヴァネッサは子供たちを連れて、早々にロンドンへ戻ることを決めた。ヴァージニアは「もう帰るの?もっと居て」と頼むが、ヴァネッサの気持ちは変わらなかった。「何か言って。私は良くなった?」と問われたヴァネッサは、「良くなってるわ」と言う。「救いの日は来るの」とヴァージニアが訊くと、「その内」と彼女は述べた。ヴァネッサはキスするヴァージニアの腕を振りほどき、子供たちを連れて屋敷を去った。
クラリッサの家に娘のジュリアが到着し、「これでも急いだの。怒らないで」と告げる。ジュリアが手伝いを申し出ると、クラリッサは書類を寝室へ運ぶよう頼んだ。ジュリアは「ルイスと通りで会ったわ。過去の亡霊たちがパーティーに集まるんでしょ」と話した後、母が泣いていたことに気付く。クラリッサが「リチャードは私を俗人扱いするの。君の人生は取るに足らない物だと、彼の目が言っていたわ」と話すと、ジュリアは「ママの受け取り方よ」と口にする。するとクラリッサは、「彼といると、“生”を感じる。彼がいないと、全てが色あせるの」と述べた…。

監督はスティーヴン・ダルドリー、原作はマイケル・カニンガム、脚本はデヴィッド・ヘア、製作はスコット・ルーディン&ロバート・フォックス、製作総指揮はマーク・ハッファム、製作協力はマイケル・アルデン&イアン・マクニール&マリーケ・スペンサー、撮影はシーマス・マッガーヴェイ、美術はマリア・ジャーコヴィク、編集はピーター・ボイル、衣装はアン・ロス、音楽はフィリップ・グラス。
出演はメリル・ストリープ、ジュリアン・ムーア、ニコール・キッドマン、エド・ハリス、トニ・コレット、クレア・デインズ、ジェフ・ダニエルズ、スティーヴン・ディレイン、アリソン・ジャネイ、ジョン・C・ライリー、ミランダ・リチャードソン、アイリーン・アトキンス、マーゴ・マーティンデイル、リンダ・バセット、ジャック・ロヴェロ、ソフィー・ワイバード、リンゼイ・マーシャル、ジョージ・ロフタス、チャーリー・ラム、マイケル・カルキン、コリン・スティンソン、クリスチャン・コールソン、ダニエル・ブロックルバンク、カルメン・デ・ラヴァラード他。


マイケル・カニンガムの小説『めぐりあう時間たち―三人のダロウェイ夫人』を基にした作品。
1923年、1951年、2001年という3つの時代の物語が並行して綴られる。
監督は『リトル・ダンサー』のスティーヴン・ダルドリー。脚本は『ストラップレス』『ダメージ』のデヴィッド・ヘア。
年代別にキャストを紹介すると、1923年のヴァージニアをニコール・キッドマン、レナードをスティーヴン・ディレイン、ヴァネッサをミランダ・リチャードソン、ネリーをリンダ・バセットが演じている。1951年のローラをジュリアン・ムーア、キティーをトニ・コレット、ダンをジョン・C・ライリー、ラッチをマーゴ・マーティンデイルが演じている。2001年のクラリッサをメリル・ストリープ、リチャードをエド・ハリス、ジュリアをクレア・デインズ、ルイスをジェフ・ダニエルズ、サリーをアリソン・ジャネイ、バーバラをアイリーン・アトキンスが演じている。
ベルリン国際映画祭ではメリル・ストリープ&ジュリアン・ムーア&ニコール・キッドマンの3人が銀熊賞(女優賞)を受賞し、他にもアカデミー賞主演女優賞(ニコール・キッドマン)、ゴールデン・グローブ賞ドラマ部門作品賞&女優賞(ニコール・キッドマン&メリル・ストリープ)など数々の映画賞を受賞した。

この映画、かなりハードルが高い。ヴァージニア・ウルフと『ダロウェイ夫人』について、それなりの知識を持っていないと、ちゃんと内容を理解することは不可能だろう。「インテリの、インテリによる、インテリのための映画」と断言してもいいぐらいだ。
残念ながら私はボンクラなので、そういう映画に付いて行くことは無理だ。
この映画を理解するために、ヴァージニア・ウルフと『ダロウェイ夫人』について学ぼうという気も無い。
そこまでして味わいたいと思えるほど、、この映画に面白味を感じないからだ。

この作品のヒロインであるヴァージニア、ローラ、クラリッサは、3人とも「死」に付きまとわれている。
ヴァージニアに至っては、冒頭シーンで入水自殺が描かれている。
劇中では何年に自殺したのかという表記が無いから分かりにくいが、それは彼女の物語が描かれている1923年の出来事ではなく、それから何年も経過した1941年だ。
その段階で既に、「ヴァージニア・ウルフに関する知識があれば分かるけど、そうじゃないと内容を理解するのが難しい」という状態になっている。

ヴァージニアは最初に入水自殺したことが描かれるが、ローラとクラリッサについては物語の終盤に「自殺を考える」という展開が用意されている。
最初に自殺のシーンがあるぐらいだから、最も動機が分かりやすいのはヴァージニアなのかというと、むしろ逆だ。
これもまた「ハードルの高さ」なのだが、たぶん「母と異父姉の死を受けて少女時代に神経衰弱となった」「父の死で欝病も発症した」「異父兄から性的虐待を受けていた」「仲の良かった女性と性的関係を持ったことがある」といったヴァージニアに関する情報を知っていなければ、なかなか厳しいモノがあるんじゃないだろうか。
そもそも、「ヴァージニアが神経衰弱を患い、療養のために田舎へ引っ越している」という状況でさえ、劇中では薄い情報しか与えてくれないし。

ローラはキティーから『ダロウェイ夫人』の内容について問われた時、「主人公の女性は、外から見ると幸せそうでも、違うの」と言う。
それは、この映画のヒロイン3名の状況を表現する言葉でもある。
作家として、主婦として、編集者として、それぞれ仕事や私生活で幸せを得ているように、外からは見える。しかし実際のところは、「女性のあるべき姿」「女性が望むべき幸せの形」に苦しんでいる。
そこには「フェミニズム」「レズビアン」といった要素が関係しており、これはヴァージニア・ウルフの著作を評論する時にも取り上げられることが多い。
だから、やはりヴァージニア・ウルフと『ダロウェイ夫人』について知識が無いと、理解するのが難しい映画なのだ。

ローラはキティーから、「貴方は運のいい人ね。母になることが女の証し」と告げられる。不妊で悩んでいたキティーにとっては、子供を産んで母になるのが女としての幸せなのだ。
1951年だけでなく現代でさえ、そういう考え方は根強く残っている。
しかしローラにとって、それは幸せではなかった。ただ、「それが女の幸せ」とされているから、そして自身の望む幸せなど叶えられそうにないから、「みんなが思う幸せの形」として、結婚や出産を選んだのだ。
しかしローラはキティーにキスしたことで、何かが弾けてしまう。

クラリッサはサリーと10年間も同棲し、幸せに暮らしているように見える。
2001年にもなれば、まだ差別はあるだろうが、ローラのいる1951年に比べれば、遥かにレズビアンが暮らしやすい世の中へと変わっている。
しかしクラリッサは、「逃避行動」として同性の恋人と暮らしているだけだ。
かつて愛したリチャードは、自分を捨てて同性であるルイスを選んだ。心の傷を癒やすため、クラリッサは男性ではなく女性の恋人を選んだ。そうすることで、現実から目を背けようとしたのだ。

これまでのクラリッサは、現実から目を背け、レズビアンとして生きることによって正気を保っていた。
しかし彼女はリチャードへの愛が消えたわけではなく、だから病気を患った彼の世話をするようになった。あくまでも「友人」としての献身であり、愛する気持ちは抑えていた。
だが、死を考えたリチャードの言葉、そしてルイスの来訪によって、クラリッサは平静な状態でいられなくなった。
リチャードのことを考えるだけで激しく取り乱してしまうほど、クラリッサにとって彼は大きな存在なのだ。

クラリッサはジュリアに、サリーのことを「偽りの慰め」と言っている。
ジュリアから「過去を懐かしんでいるだけよ」と言われても、彼女にとってはリチャードと交際していた頃が最も幸せなのだ。
そしてクラリッサの時間は、実質的にそこで止まっている。だから彼女はリチャードといる時以外、全てが色褪せている。
ジュリアに気付くと慌てて「貴方以外よ」と釈明しているが、実際は娘も含めてだ。
それぐらい、クラリッサは「リチャードこそ全て」という気持ちで暮らし続けていたのだ。

しかし、実はクラリッサが全く気付かないほど、リチャードは「クラリッサに守られる人生」に苦悩していた。
そして彼は、そこから解放されるために死を選ぶ。決してクラリッサを嫌っていたわけではないが、「彼女のために生きる自分」に限界が訪れて自殺を選んだのだ。
彼は自殺の直前に「僕たちほど幸せだった二人はいない」と言うが、これはヴァージニアが夫に残す遺書の文面と同じだ。
幸せだと感じる気持ちはあるが、自分を解放するためには「死」しか見えなかったのだ。

終盤に入ると、リチャードがローラの息子であることが明らかにされる。
ローラがホテルで自殺しようと考えた時に妊娠していたのが、リチャードだ。ローラは自殺こそ思い留まったものの、リチャードを産むと家を出て失踪した。夫も子供たちも、彼女を思い留まらせるストッパーとしては何の力も持たなかったのだ。
リチャードは母を恨み、小説の中で「怪物」と呼んで殺害する。それを知ったローラは、誰も自分を許さないだろうと考えるが、同時に「ああするしか無かった」と言う。本人としては、強烈な苦悩の末に失踪を選んだのだろう。
しかし、そんな彼女に対する共感は全く無い。残された夫と子供たちに対する同情心だけが湧く。
ってことは、私には全く合わない映画ということなんだろう。

(観賞日:2017年3月15日)

 

*ポンコツ映画愛護協会