『ムーラン・ルージュ』:2001、オーストラリア&アメリカ
1900年、パリ。クリスチャンはアパルトマンの一室でタイプライターに向かい、自分の体験を綴り始めた。1年前、彼はボヘミアン革命に加わりたくて、ロンドンからパリへやって来た。作家志望のクリスチャンはアパルトマンを借りて、小説を書き始めようとする。彼は愛を信じていたが、まだ恋愛経験が無いことに気付いた。その時、2階で芝居の稽古をしていたナルコレプシーのアルゼンチン人が、天井を突き破って落ちて来た。そこへ芝居仲間のロートレックが来て、クリスチャンに挨拶した。彼らはダンスホールと売春宿を兼ねたムーラン・ルージュに雇われ、芝居を上演していた。
クリスチャンはアルゼンチン人の代役として、ロートレックたちの練習に参加した。作家のオードリーが書いた歌詞と作曲家のサティーが作ったメロディーが噛み合わず、口論が起きた。クリスチャンが歌うとロートレックは気に入り、オードリーと組んで脚本を執筆するよう促した。しかしオードリーが不満を漏らして拒否したので、クリスチャンは単独で担当するよう頼まれた。ロートレックは彼をイギリスの有名作家に仕立て上げ、高級娼婦で踊り子のサティーンに会わせることにした。サティーンに詞を聴いてもらい、ムーラン・ルージュを経営するハロルド・ジドラーに推薦してもらおうと考えたのだ。
クリスチャンは父に怒鳴られることを想像し、「ムーラン・ルージュのショーなんて書けない」と断ろうとする。しかしロートレックたちに説得され、結局は承知した。彼はムーラン・ルージュへ出掛け、サティーンのショーを見物した。バトロンのウースター公爵も店に来ており、ジドラーの紹介でショーの後にサティーンと会う約束を取り付けていた。一方、クリスチャンはロートレックから、「ショーの後にサティーンと2人きりで会う約束を取り付けた」と聞かされていた。
サティーンは本物の女優になることを夢見ており、ウースターと肉体関係を持つことで実現に近付こうとしていた。ジドラーと話した彼女は、クリスチャンがウースターだと誤解した。サティーンはクリスチャンを誘惑し、一緒に踊った。彼女はショーの途中で失神してしまい、楽屋へ担ぎ込まれた。サティーンを介抱したマリーは、吐血に気付いた。意識を取り戻したサティーンは寝室へ行き、クリスチャンと2人になった。ロートレックたちが窓から覗き見る中、サティーンはクリスチャンとセックスを始めようとする。クリスチャンは詩を吟じ、途中で歌い始めた。
サティーンはクリスチャンの才能に惹かれるが、相手が貧乏作家だと知って幻滅する。彼女は寝室を出ようとするが、そこーウースターがやって来た。サティーンはクリスチャンに隠れるよう指示し、ウースターに気付かれないよう必死で誤魔化した。何とかウースターを部屋から立ち去らせた彼女は、緊張から解放されて失神する。クリスチャンがベッドに寝かせていると、ウースターが戻って来た。サティーンは芝居のリハーサルだと嘘をつくが、ウースターは信じない。ロートレックたちは窓から部屋に上がり込み、サティーンに話を合わせた。そこへジドラーが現れ、サティーンは彼にも調子を合わせてもらった。
ウースターが芝居のストーリーを尋ねると、クリスチャンはインドを舞台にした愛の物語だと説明した。ジドラーが「儲けの10%が入り、リハーサルで口出しも出来る」と説明すると、ウースターは出資を約束した。クリスチャンはアパルトマンに戻るが、サティーンのことが忘れられなかった。一方、サティーンもクリスチャンへの愛を燃え上がらせていた。クリスチャンが戻って来ると、彼女は「高級娼婦に恋は許されない」と告げる。しかしクリスチャンが熱烈に愛を訴えると、サティーンは受け入れてキスを交わした。
ウースターはジドラーに対し、契約と引き換えに「今後、サティーンが相手をするのは自分だけ」「店の権利書は預かる」という条件を提示した。彼は脅しを掛けて、ジドラーに条件を飲ませた。サティーンはウースターから何度も食事に誘われるが理由を付けて断り続け、クリスチャンとの逢瀬を重ねた。我慢できなくなったウースターは、ジドラーに「今夜の食事に彼女が来なかったらショーから手を引く」と通達した。狼狽したジドラーは、クリスチャンとサティーンがキスをして抱き合う現場を目撃した。
サティーンはジドラーからクリスチャンとの密会を指摘され、「ただの火遊びよ」と釈明した。ジドラーは彼女に、「火遊びは終わらせろ。公爵の所へ行け」と命じた。しかしサティーンは激しく咳き込んで倒れ、外出できなくなってしまう。ジドラーはウースターの元へ行き、「サティーンは懺悔に行った」と嘘をついて誤魔化した。サティーンを診察した医者は、ジドラーに「結核で余命わずかだ」と告げた。サティーンは病気を隠してクリスチャンと会い、「もう終わりにしましょう」と述べた。
納得できないクリスチャンは、自分の愛を芝居に込めた。しかしリハーサルを見学したウースターはサティーンとクリスチャンの関係に強い疑念を抱き、結末を変更するよう要求した。ヒロインは金持ちのマハラジャではなく貧しいシタール奏者との愛を選ぶ結末だったが、その変更を命じたのだ。つい本音を口にしてしまったクリスチャンは慌てて取り繕うが、ウースターには完全に見抜かれた。サティーンはその場を取り成し、その夜にウースターと会うことを約束した…。監督はバズ・ラーマン、脚本はバズ・ラーマン&クレイグ・ピアース、製作はマーティン・ブラウン&バズ・ラーマン&フレッド・バロン、共同製作はキャサリン・ナップマン、製作協力はスティーヴ・E・アンドリュース&キャサリン・マーティン、撮影はドナルド・M・マカルパイン、美術はキャサリン・マーティン、編集はジル・ビルコック、衣装はキャサリン・マーティン、振付はジョン・オコネル、音楽はクレイグ・アームストロング、音楽監督はマリウス・デ・ヴリーズ、音楽監修&音楽製作総指揮はアントン・モンステッド。
出演はニコール・キッドマン、ユアン・マクレガー、ジョン・レグイザモ、ジム・ブロードベント、リチャード・ロクスバーグ、デヴィッド・ウェナム、ギャリー・マクドナルド、ジャセック・コーマン、マシュー・ウィテット、ケリー・ウォーカー、キャロライン・オコナー、クリスティン・アヌ、ナタリー・メンドーサ、ララ・マルケイ、カイリー・ミノーグ、デオビア・オパレイ、リナル・ハフト、キース・ロビンソン、ピーター・ウィットフォード、ノーマン・ケイ、アーサー・ディグナム、キャロル・スキナー、ジョナサン・ハーディー、キルナ・スタメル、アンソニー・ヤング、ディー・ドノヴァン、ジョニー・ロックウッド、ドン・リード、タラ・モリス、ダニエル・スコット他。
声の出演はオジー・オズボーン プラシド・ドミンゴ。
『ダンシング・ヒーロー』『ロミオ+ジュリエット』のバズ・ラーマンが監督を務めたミュージカル映画。
脚本も同じく『ダンシング・ヒーロー』『ロミオ+ジュリエット』のバズ・ラーマン&クレイグ・ピアース。
サティーンをニコール・キッドマン、クリスチャンをユアン・マクレガー、ロートレックをジョン・レグイザモ、ジドラーをジム・ブロードベント、ウースターをチャード・ロクスバーグ、オードリーをデヴィッド・ウェナム、ドクターをギャリー・マクドナルド、アルゼンチン人をジャセック・コーマン、サティーをマシュー・ウィテット、マリーをケリー・ウォーカー、ニニをキャロライン・オコナーが演じている。芝居の稽古に参加したクリスチャンは、口論の中で『The Sound of Music』を口ずさむ。この映画はオリジナル楽曲ではなく、カバー曲を中心にミュージカルシーンを構成している。
でも既存の楽曲を使うにしても、なんでよりによって『サウンド・オブ・ミュージック』の歌なのかと。
クラシカルなミュージカル映画として超が付くほど有名な作品から取ってくるって、どういうつもりなのか。
おまけに、マトモに聴かせようとせず、断片的に終わらせているし。芝居の稽古から始まるミュージカルシーンでは、T・レックスの『Children of the Revolution』やデヴィッド・ボウイの『Nature Boy』も組み込まれている。
でも、複数の楽曲を組み合わせてミュージカルシーンに当てはめる演出が、成功しているとは到底思えない。
また、ここでは妖精を登場させるなど幻想的な映像表現を狙っているが、これも成功しているとは感じない。
やたらとケバケバしい色使いだし、目がチカチカする。場所がムーラン・ルージュに移ると、ファットボーイ・スリムの『Because We Can』やニルヴァーナの『Smells Like Teen Spirit』が使われる。
しかし、高揚感も没入感も全く刺激されない。
また、ガチャガチャした雰囲気の中で間髪入れずにサティーンの歌に入るので、「ステージに姿を見せただけで大勢を引き付ける圧倒的な魅力」ってのも全く伝わらない。
しかも、もうサティーンが歌い始めているにも関わらず、クリスチャンのナレーションを入れて邪魔する始末。サティーンのショーは、『紳士は金髪がお好き』の『Diamonds Are a Girl's Best Friend』とマドンナの『Material Girl』を使って構成している。
でも、ここも既存の楽曲を中途半端に使っているだけにしか思えない。有名な曲を使うなら、その1曲だけで1シーンを構成し、ちゃんとフルコーラスを聴かせた方がいいんじゃないかと。
あと、サティーンが踊った後、シルクハットを一斉に投げ上げてシーンを切り替え、2曲目に入るのは絶対に要らんよ。
しかも、その2曲目は途中から少し歌うだけで終わっちゃうし。あと、ロートレックがクリスチャンの歌詞を気に言ったり、サティーンが彼の詩に惹かれたりするシーンがあるのよね。でも、「その歌詞はクリスチャンが作ったわけじゃないからね」と、冷めた気持ちになっちゃうのよ。
もちろんオリジナル楽曲だったとしても、その歌詞は作詞家が担当しているわけで、クリスチャン本人の作品ではないのよ。だけど「この映画のために作られた楽曲」ってことなら、そこの印象は全く違ってくるわけで。
あと、細かくカットを割りまくり、ダンスもマトモに見せようとしていない。
時代を無視してもいいけど、ショーの演出がドイヒーだわ。既存の歌曲を使った現代風のロック・ミュージカルとして作るのなら、それはそれで1つのやり方だろう。だけど、オペレッタの曲である『天国と地獄』だけで構成するミュージカル・シーンがあったりするので、統一感が無くて中途半端に感じるのよね。
クリスチャンとサティーンが愛を確かめ合うシーンでは複数の歌曲を繋げているけど、「1曲で表現しろよ」と言いたくなる。
借り物の歌をパッチワークで歌っても、まるで心に響かないぞ。
劇中では「クリスチャンとサティーンを結び付ける歌唱シーン」として描いているが、こっちを引き込む説得力は乏しいのよ。ドラマの部分に目を向けても、やっぱり引き付ける力は弱い。クリスチャンとサティーンの恋愛劇が、ちっと応援できないのよ。
その理由は明白で、クリスチャンが現実を全く理解せず感情だけで無秩序に突っ走っている奴にしか見えないからだ。
自分の気持ちをぶつけ、全て思い通りにしようと動かそうとする。自己中心的で、相手への思いやりなど皆無。そのせいでサティーンを困らせ、辛い立場に追い込んでいる。
「若さゆえの未熟な真っ直ぐさ」として、好意的に捉えることも出来ない。そこまで若くもないしね。
だから彼が焦燥を抱えても、傷心しても、ちっとも同情心は誘われない。(観賞日:2021年10月9日)
第24回スティンカーズ最悪映画賞(2001年)
ノミネート:【最悪の歌曲・歌唱】部門「Lady Marmalade」(クリスティーナ・アギレラ、マイア、リル・キム&ピンク)