『真夜中のサバナ』:1997、アメリカ
ジョン・ケルソーは骨董商ジム・ウィリアムズがジョニー・マーサー邸で開くクリスマス・パーティーを取材するため、ジョージア州チャタム郡サバナを訪れた。到着した夜、ジョンはマンディという女性や彼女の友人ジョー・オードムと出会った。
翌日、ジョンはジムのパーティーに出席した。ジムと話していると、彼の工房で働くビリーが現れた。彼はジムに20ドルを要求するが、断られて立ち去った。その日の深夜、ジョンはパトカーのサイレン音で目が覚めた。ジムがビリーを射殺したというのだ。ジムはブーン刑事に、ビリーが発砲したので撃ち返した正当防衛だと語った。
ジョンは町に残り、事件を取材して本を執筆しようと考えた。ジムと弁護士ソニーは、こちらに情報を流すという条件で承諾した。ジョンはドラッグ・クィーンのレディ・シャブリに会い、ビリーがルームメイトのコリーンと付き合っていたことを聞き出した。
ジムはジョンを有色人種用の墓地に連れて行き、ブードゥー教の祈祷師ミネルヴァに会わせた。ミネルヴァは、ビリーの怒りを鎮める儀式を行った。しかしジムはブードゥー教を信じているわけではなく、ミネルヴァの指示も全て聞くつもりは無かった。
ジムはラージェント検事によって第一級謀殺罪で起訴され、チャタム郡裁判所のホワイト判事は保釈申請も却下した。ジョンはジムとビリーが恋人関係にあったこと、ビリーの手に硝煙反応が無かったことを知った。公判は、ジムが不利なままで進む…。監督はクリント・イーストウッド、原作はジョン・ベレント、脚本はジョン・リー・ハンコック、製作はクリント・イーストウッド&アーノルド・スティーフェル、共同製作はトム・ルーカー、製作協力はマイケル・モーラー、製作総指揮はアニタ・ザッカーマン、撮影はジャック・N・グリーン、編集はジョエル・コックス、美術はヘンリー・バムステッド、音楽はレニー・ニーハウス。
出演はジョン・キューザック、ケヴィン・スペイシー、ジャック・トンプソン、イルマ・P・ホール、ジュード・ロウ、アリソン・イーストウッド、ポール・ヒップ、ザ・レディ・シャブリ、ドロシー・ルードン、アン・ヘイニー、キム・ハンター、ジェフリー・ルイス、リチャード・ハード、レオン・リッピー、ボブ・ガントン、マイケル・オヘイガン、ゲイリー・アンソニー・ウィリアムズ他。
実際の事件を扱った全米ベストセラーのノンフィクションを基にした作品。
ジョンをジョン・キューザック、ジムをケヴィン・スペイシー、ソニーをジャック・トンプソン、ミネルヴァをイルマ・P・ホール、ビリーをジュード・ロウ、マンディをアリソン・イーストウッド、ジョーをポール・ヒップ、そしてザ・レディ・シャブリを本人が演じている。サスペンスとしては、冗長だしユルい。
ミステリーとしては、真実が明らかにならない(匂わせることも無い)のだから不完全だ。
しかし、原作がミステリー小説ではなくノンフィクションであること、そして実際の事件も謎が解明されないままで終わっていることを考えれば、そうなっても仕方が無い部分はある。そもそも、クリント・イーストウッドが、この映画をミステリーやサスペンスとして演出しようと思っていないように感じる。それよりも、彼はサバナという町の持つ不思議な魅力に惹かれ、それを観客に伝えようとしているのではないだろうか。
序盤、マーサー邸で絵の奥に別の絵が隠されている作品を見たジョンが、ジムに向かって「何が描かれているか知りたいでしょう」と尋ねる。この時、ジムは「いいや。謎を楽しむのもいい」と答える。
この映画は、そういう意識で作られているのだ。謎を解き明かそうとするのではなく、謎めいた町を楽しもうという意識で作られた映画なのだ。町に到着したジョンは、犬がいないのに首輪だけで散歩している男グローヴァーと出会う。サバナの人々は、そんな奇妙な行動を取る彼を当たり前のように受け入れている。何匹ものアブを紐で体に結び付け、毒薬の瓶を持ち歩く男ルーサーもいる。彼は「いつか毒役を町に撒いてやる」と言っているが、人々は平然と受け止めている。
ジョンは、到着した日にマンディという馴れ馴れしい女性に誘われ、パーティーに行ってジョーやヘアメイクのスペンスと出会う。そのパーティーで、何かが起きるわけではない。マンディやジョーが、殺人事件や調査活動に深く関わってくることもない。そう、ジョンが調査を進める中で、脇役が事件に密接に絡んでくるということはないのだ。
そもそも、ジョンは「事件を調べて本を書く」と決めたはずだが、シャブリに会って以降、積極的に調査を進める動きは見せない。事件の調査よりも、映画はシャブリやミネルヴァといった奇妙な人々との出会いを描くことに重点を置いている。ジョンはジョーの馬車に乗り、シャブリのトーク・ライヴに行く。ここでは、ストーリーには全く関わらないが、シャブリのショーに時間を割く。ここでジョンが事件のヒントを得るようなことも無い。ただシャブリのショーを見せたというだけのことである。
ジムが起訴された後も、女性達がお喋りを楽しむ様子や、ジョンがマンディとデートする様子が描かれるなど、緊張感を出そうという意識は見られない。そもそもジムやソニーも危機感を全く感じていないのだから、穏やかな雰囲気で進んで行くのも当然だ。公判が始まっても、相変わらずノンビリしたムードで話は進み、ジョンが黒人の舞踏会に出席するという、裁判や事件とは全く関係の無いシーンが挿入される。しかも、そこではシャブリが勝手に乱入し、完全に主役の座をかっさらっていく。
シャブリは、その後の法廷シーンにも登場し、そこでも完全に主役の座を乗っ取る。コメディー・リリーフのような存在のシャブリが主役の座を奪うのだから、そこに緊迫感など生まれようはずもない。すなわち、監督に緊張感を出そうという意識が無いのだ。この映画は表向きは殺人事件が主軸だし、ケルソーが主人公だが、実際は違う。
本質的な主役はレディ・シャブリであり、サバナという不思議な町と、そこに住む奇妙な人々を描く映画なのだ。
それに比べれば、事件の真相など、別にどうだっていいのだ。