『マイケル』:1996、アメリカ
老女のパンジー・ミルバンクはマイケルという男を伴い、車でアイオワ第一銀行の支店を訪れた。その夜遅く、局員が仕事を終えて去った後、支店の建物はペシャンコに潰れた。かつてシカゴ・トリビューン紙の花形記者だったフランク・クインランは、現在はミラー紙に勤務している。彼は同僚のヒューイ・ドリスコルが飼う犬のスパーキーを相棒にして、旅日記を連載していた。クインランはヒューイと共にクリスマス特集号の表紙写真を手掛けるが、ヴァータン・モルト編集長の怒りを買って担当交代を通告された。
クインランは編集部に届いた購読者からの手紙を確認し、その中にモーテを経営するパンジーからの手紙を見つけた。バンジーの手紙には「半年ほど前からマイケルという天使がウチに住み着いている」と書いてあり、写真が同封されていた。クインランはモルトに写真を見せ、ここに連れて来ると持ち掛けた。モルトはクリスマスまでに連れて来るよう指示し、雇ったばかりのドロシー・ウィンタースが天使の専門家なので同伴するよう告げた。
ドロシーは天使の専門家ではなかったが、仕事が欲しいのでクインランに真実は明かさなかった。クインランはバンジーとヒューイを同伴し、スパーキーを連れてパンジーのモーテルへ赴いた。バンジーが呼ぶと、2階からマイケルが現れた。マイケルはパンツ一丁で股間に手をやり、髪はボサボサで煙草を吸っていた。だらしない格好のマイケルだが、背中には大きな翼が生えていた。クインランとヒューイは彼が天使だと信じなかったが、「これで記事になる」と喜んだ。ドロシーはマイケルについて、パンジーの金目当てだと推測した。
翌朝、マイケルは無作法に食事を取り、ドロシーは「天使って不潔なのね」と口にした。頭の上に光の輪が無いことを彼女が指摘すると、マイケルは「種類が違う」と述べた。パンジーはマイケルが大天使だと言い、自分のために銀行を潰してくれたと自慢する。パンジーの夫が死んだ後、高速が出来てトラックはモーテルを素通りするようになった。客が減って銀行が差し押さえに来たので、パンジーは神様に助けてほしいと祈った。するとマイケルが現れ、支店長に「こんな銀行は駐車場に変えてやる」と言い放って建物を潰してくれたと彼女は話す。「町の連中は、つむじ風の仕業だと思ってる。お金のことは、うやむやになった」と、パンジーは語った。
パンジーは朝食を作っている最中に急死し、葬儀が執り行われた。クインランはモルトに電話を掛け、天使を見つけたのでワイドショーや出版社に売り込んでくれと頼む。マイケルはクインランがシカゴへ連れて行くつもりだと分かっており、向こうが言い出す前に「行こう」と告げた。ただしクインランはクリスマスに間に合うため飛行機で行くつもりだったが、マイケルは「途中で世界一の麻紐を見たい」と車で向かうことを要求した。
マイケルが「1つ条件がある」と言うと、クインランは「ギャラだろ。写真を発表したら払う」と告げる。マイケルは「金じゃない。僕が言う時に謝罪するんだ」と述べ、シカゴに着くまで写真はダメだと告げた。ロビンはマイケルに「ニュースのネタにされるのよ」と話し、シカゴ行きを思い留まるよう説いた。マイケルは「来なきゃ君の秘密をバラす。ここへ来た理由を知ってる」と脅し、頼んだ時にドロシーが歌う約束を取り付けた。
一行は出発し、クインランはマイケルに「食堂ではコートを羽織ってくれ。翼が目立つ」と頼んだ。マイケルは世界一大きな麻紐を見物した時、牛を見つけて決闘を申し入れた。彼は牛に体当たりし、激しく転倒する。クインランが心配して駆け寄ると、彼は「幸せだ。何度も決闘したが、怪我をしたことは無い」と立ち上がった。マイケルはクインランに、「今回が地上に来る最後だ。26回が最後で、二度と戻って来られない」と述べた。クインランが「なぜここに?僕と何か関係が?」と訊くと、彼は『北風と太陽』の話をする。クインランが「何が言いたい?僕に賭けたのか?」と尋ねると、マイケルは「地上に戻るためにね」と答えた。
一行は食堂に入り、ドロシーは「天使なら世の中の改善を」とマイケルに言う。マイケルは「世の中は変えられない」と告げ、クインランが「天使は何をする?」と質問すると「限られた数の奇跡を起こす」と返答した。マイケルは店にいた2人の女を誘い、ジュークボックスの曲に合わせて一緒に踊った。すると他の女たちもフロアに集まり、一緒に踊った。店の男たちは腹を立て、マイケルに喧嘩を仕掛けた。加勢したクインランは簡単に倒れるが、マイケルは余裕で男たちを蹴散らした。
店に警官隊が駆け付け、マイケルたちは逮捕された。ドロシーは「私は無関係」と訴えるが、聞き入れてもらえなかった。牢に入れられた彼女は別れた夫を例に出し、「私を巻き込んだ」とクインランを非難した。クインランはマイケルに促されて彼女に謝罪し、優しく接した。翌日に裁判が開かれると、エスター・ニューバーグ判事は休廷を告げてマイケルを判事室に呼んだ。するとマイケルたちは無罪放免となり、車で出発した。
マイケルたちはイリノイ州に入るが、タイヤがパンクして立ち往生してしまう。そこへ新郎新婦の車が通り掛かり、マイケルたちは町まで送り届けてもらった。4人は新郎新婦と同じレストランで夕食を取り、名物のパイを注文した。ドロシーはクインランに促されてバンドが演奏していたステージに上がり、別れた3人の夫を題材にしたオリジナルソングを歌唱した。食事を終えたドロシーとクインランは会話を交わし、同じ部屋に入って肉体関係を持った…。監督はノーラ・エフロン、原案はピート・デクスター&ジム・クインラン、脚本はノーラ・エフロン&デリア・エフロン&ピート・デクスター&ジム・クインラン、製作はショーン・ダニエル&ノーラ・エフロン&ジェームズ・ジャックス、製作総指揮はデリア・エフロン&ジョナサン・D・クレイン、製作協力はドナルド・J・リーJr.&アラン・カーティス、撮影はジョン・リンドリー、美術はダン・デイヴィス、編集はジェラルディン・ペローニ、衣装はエリザベス・マクブライド、音楽はランディー・ニューマン。
出演はジョン・トラヴォルタ、アンディー・マクダウェル、ウィリアム・ハート、ボブ・ホスキンス、ロバート・パストレリ、ジーン・ステイプルトン、ジョーイ・ローレン・アダムス 、カーラ・グギノ、トム・ホッジス、ウォレス・ランガム、テリー・ガー、キャサリン・ロイド・バーンズ、リチャード・シフ、カルヴィン・トリリン、ドナルド・J・リーJr.、ジョアン・フレガレッテ・ジャンセン、デヴィッド・ハロッド、ジェーン・ラニア、ジョン・ハッセイ他。
『めぐり逢えたら』『ミックス・ナッツ/イブに逢えたら』のノーラ・エフロンが監督を務めた作品。
原案を務めたのは、元新聞記者のジム・クインランと小説家のピート・デクスター。
この2名と監督のノーラ・エフロン、妹のデリア・エフロンが脚本を務めている。
マイケルをジョン・トラヴォルタ、ドロシーをアンディー・マクダウェル、クインランをウィリアム・ハート、モルトをボブ・ホスキンス、ヒューイをロバート・パストレリ、パンジーをジーン・ステイプルトン、新婦をカーラ・グギノ、新郎をトム・ホッジス、ニューバーグをテリー・ガーが演じている。クインランたちが勤務するミラー紙は、ザックリ言うと東スポみたいなタブロイド紙だ。霊魂再来の担当記者がいたり、「ベッドが宙に浮いた」「冷蔵庫にゴーストがいた」といった購読者からの電話が掛かったりしている。
ただ、モルトが「モーテルに天使がいる」という情報を信じてクインランに連れて来るよう命じたのか、その辺りが良く分からない。
そもそもパンジーが同封した写真には、どういう状態のマイケルが写っていたのかも分からないし。
これはクインランに関しても同様で、天使の情報に対する彼らのスタンス、考え方がフワッとしたままで話を進めるのは決して上手いやり方とは言えない。オープニングで描かれる「夜中に銀行支店が急に潰れる」という現象は、その時点では何のこっちゃ良く分からない。
後でクインランたちがモーテルを訪ねた時、パンジーとマイケルの説明によって「どういう出来事だったのか」は伝わるようになっている。ただ、それを映画の冒頭で見せる意味があるのか、それて得られる効果があるのかと問われたら、答えはノーだ。
むしろ、そんなのは見せない方がいい。パンジーたちか台詞で説明するシーンまでは、そういう出来事があったことを描かない方がいい。
事前に触れておくとすれば、「支店が急に潰れた。つむじ風の仕業だと思われる」と報じる新聞記事を見せるような形で処理した方がいい。最初に「マイケルが訪れた夜に支店が潰れる」という出来事を描かなければ、マイケルが特殊能力を持っているかどうかは分からないままになる。
しかし、その出来事を描くことによって、マイケルに特殊能力があることは「ほぼ確定事項」になってしまう。
現象だけを見れば、「つむじ風の仕業」と解釈できないわけじゃない。しかし物語として考えると、その可能性はゼロだろう。
ともかく、マイケルに奇跡を起こす特殊能力があるかどうかは分からないまま後半まで引っ張った方が、何かとメリットは大きいと思う。クインラン、ドロシー、ヒューイの3人はマイケルに会っても、彼が天使だと信じている様子が全く無い。ヒューイは鳥の化け物だと評し、ドロシーは老女を騙すジゴロだと推理している。
それなのに「マイケルに特殊能力があるのは確定的」として話を進めると、そこに乖離が生じてしまう。
それを考えると、クインランたちが会った時、マイケルの背中に翼があるのもどうなのかと。
この時点で、彼が天使ってことも確定しちゃうでしょ。幾らクインランたちが「天使なんかいるわけない」と否定しても、そりゃ無理があるよ。「パンジーの急死」という出来事は、話を進める上で邪魔なキャラを雑に処分していると感じる。パンジーが死んだのに、世話になったであろうマイケルが全く気にせず明るく元気にしているのも薄情に感じるし。
あと、パンジーが急死するシーンの描写が、なんか変なのよね。
彼女の具合が悪くなった時、座って朝食を取っていたクインラン、ドロシー、ヒューイは気付いた様子を見せる。だけど、心配して駆け寄ることは無く、ただ座って見ているだけなんだよね。
「せめて声ぐらい掛けろよ」と言いたくなるわ。マイケルが食堂で女たちを誘って一緒に踊るシーンは、明らかに「演じているのがジョン・トラヴォルタだから」ってのを意識した演出になっている。
きっと多くの人が、『サタデー・ナイト・フィーバー』や『グリース』などで踊っていたトラヴォルタを連想することだろう。
何となくセルフ・パロディー的な匂いも漂うのだが、この映画だとマイナスが大きい。
ファンタジーに振り切るべき作品なので、そこで「マイケルは天使じゃなくてジョン・トラヴォルタ」というリアルを感じさせるのはマズいでしょ。細かいことかもしれないけど、背中に大きな翼の生えているマイケルが、どうやって服を着ているのかが気になる。登場シーンは上半身裸だったけど、葬儀のシーンやシカゴへ向かう時にはスーツを着用しているからね。
しかも、「どうやって着ているのか」とクインランたちが質問することも無いし。
それが分からなくても、ストーリーを進める上で支障が生じることは何も無いのよ。
ただ、ずっと引っ掛かることは確かだし、謎のままで終わらせるのはディティールの粗さだと感じてしまうぞ。パンジーが死去してマイケルたちがシカゴへ向かうと、ロードムービーになる。ロードムービーでは旅先で出会う人々との交流をメインにすることもあるが、そのパターンは使っていない。
出会う人がいないわけじゃないが、そこでの交流によってドロシーたちが影響を受けることは全く無い。この映画は人々との交流ではなく、旅の経験を経て気持ちや関係性が変化する様子を描いている。
そして、そこで大きく扱われているのはドロシーとクインランの恋愛劇だ。
ヒューイはハッキリ言って、ただの同行者に過ぎない。コメディー・リリーフ的な役割さえ与えてもらえず、「スパーキーの飼い主」として何とか存在意義を保っている。肝心なドロシーとクインランの恋愛劇も、まるで冴えない。
根本的な問題として、「なぜ旅を通じてドロシーとクインランが惹かれ合う話をメインに据えたのか」ってのが疑問なんだよね。
これが「以前から密かに好意を抱いていた」とか、「かつてはカップルだった」とか、何かしらの関係性があったのなら、まだ分からんでもないのよ。
だけど初対面の2人であって、そこからカップルになるまでのロマンスをメインに据えるのが得策とは到底思えないのだ。ロマンスを始めるために、まずはドロシーがクインランを牢で責める展開がある。
だけど、なぜ「私を巻き込んだのか」と言い出すのか、全く分からない。どう考えても、巻き込まれる原因を作ったのはマイケルでしょ。
クインランはマイケルに促されて詫びたり優しくしたりするけど、これも「なんで?」と思っちゃうし。
ここからドロシーとクインランのロマンスが始まるような形にしてあるけど、初手から不可解で強引な方法を取っているようにしか思えない。ドロシーとクインランが惹かれ合ったりカップルになったりする上でマイケルの存在が重要なのかと考えると、そうでもないのよね。彼がいなくても、ドロシーとクインランは勝手に惹かれ合ったんじゃないかと。
それぐらい、マイケルが2人に影響を与える出来事、恋愛劇に関与する行動ってのが、ほとんど無いのだ。
レストランでクインランがドロシーに歌うよう促すのは本人の考えであり、マイケルは傍観しているだけ。その後もドロシーとクインランが勝手にお喋りして、勝手に燃え上がってセックスを始めている。
っていうか、あの流れで、なんで急に恋心が高まってセックスするのかと。セックスの翌朝、スパーキーがトラックにひかれて死亡すると、ドロシーは犬の調教師として雇われたことを告白する。そしてクインランは、モルトが天使の取材で失敗させ、ヒューイからスパーキーを奪おうと目論んでいることを知る。
そんな目的のために、わざわざ取材に差し向けたのかよ。
それぐらいスパーキーが人気のタレント犬で、大きな価値があるってことなんだろう。
だけど、そういうのを表現する作業が全く足りていないので、バカバカしいとしか感じないんだよね。クインランは半ば強要するような形で、マイケルにスパーキーを蘇らせる。マイケルはシカゴに着くと「時間切れだ」と言い、消失する。
その後も話は続くのだが、なぜかクインランはドロシーを拒否するような態度で立ち去る。そして最後の最後に再会し、結婚を申し込む。
だけど、余計な手間を掛けず、ストレートにプロポーズさせりゃいいじゃねえかと言いたくなる。クインランが急にドロシーを拒むような流れなんて、何も見当たらなかったし。
ちなみに、偶然の再会には、「クインランがマイケルを見掛けて追い掛けると、ドロシーがいた」という形でマイケルを関与させている。でも最後だけマイケルを恋愛劇に近付けても、あまりも弱いし薄いよ。(観賞日:2024年12月28日)