『マリー・アントワネット』:2006、アメリカ&フランス&日本

1768年、オーストリアのマリア・テレジア女帝はフランスとの同盟を強化するため、末娘のアントーニアをルイ・オーギュスト王太子に嫁がせることを決めた。アントワーヌは母から、後見人であるメルシー大使の助言に従うよう告げられる。彼女は愛犬のモップスを抱き、親友2人と共に馬車へ乗り込んだ。国境地点の森に到着すると、メルシーはフランス側へ引き渡されることを説明した。アントワーヌは馬車を降り、世話係のノアイユ伯爵夫人と会った。
アントワーヌは親友たちや愛犬と別れ、服を着替えさせられた。彼女は王太子妃のマリー・アントワネットとして、フランス側の馬車に乗り込んだ。婚姻を取り仕切ったショワズール外務大臣の案内で、マリーはオーギュストや祖父のルイ15世、五女のヴィクトワール内親王、六女のソフィー内親王、オーギュストの弟であるプロヴァンス伯爵やアルトワ伯爵らと対面した。ヴェルサイユ宮殿に到着すると、待ち受けていた大勢の人々がマリーを歓迎した。宮殿では舞踏会が催され、人々は大いに盛り上がった。
マリーとオーギュストは多くの関係者が見守る中、寝室のベッドに寝かされた。ルイ15世は2人に、王位継承者を作るよう促した。しかし翌朝、ルイ15世は2人が何もしなかったという報告を受けた。マリーの寝室には女官長のランバル公妃や女官のポリニャック公爵夫人、シャール公爵夫人らが入って来た。ポリニャック公爵夫人はマリーに、着付けの儀式が執り行われること、寝室に入るのは高位の者の特権であること、全て女官に任せることを説明した。
マリーが会食に赴くと、ルイ15世は公妾のデュ・バリー夫人を同席させた。デュ・バリー夫人が平民であることから、ヴィクトワールやソフィーたちは露骨に不快感を示した。オーギュストが全く性交渉に興味を示さないため、マリーは周囲の人々から夫に対して冷淡だと誤解される。マリーはメルシーや母の手紙によって、懐妊のために努力するよう説かれる。しかしマリーが幾ら誘惑しても、オーギュストは全く乗り気にならないのだった。
マリーはメルシーや母の手紙で、デュ・バリー夫人と良好な関係を築くよう促される。マリーはヴィクトワールとソフィーから「国王は娼婦に肩書を与えただけ。それなのに、政治にまで口を出す」などと言われていたこともあり、その指示に従わなかった。しかしメルシーから「夫人は王に告げ口しています。陛下に嫌われると大変です」と告げられたため、話し掛けることを承諾した。マリーは大勢の前で彼女に声を掛けるが、立ち去る時には「もう二度と喋らない」とメルシーに囁いた。
ポーランドは内戦状態に陥り、ロシアとオーストリアが分割した。しかしポーランドはフランスの同盟国であるため、マリア・テレジアはマリーに調停役を求めていた。メルシーから母国が関わる政治情勢を聞かされたマリーだが、そんなことよりもドレスを選ぶことに夢中だった。メルシーから真剣に受け止めるよう要求された彼女は、「同盟が破れたら、私はオーストリア人?フランス王太子妃?」と尋ねる。メルシーは「両方です」と答えた。
マリーが一向に懐妊しないため、男を買ったという悪評まで広まるようになった。マリーはオーギュストに、「貴方の弟の妃が先に懐妊したら、宮廷や国民の前で私が恥をかくのよ」と告げる。オーギュストは「務めを果たす」と口にするが、約束を果たそうとはしなかった。ルイ15世はラソンヌ医師に2人を診断させるが、肉体に問題があるわけではなかった。そんな中、プロヴァンス伯爵夫人に男児が産まれ、マリーはオーギュストと共に祝福した。しかし不妊症や不感症という周囲からの陰口を知り、彼女は寝室で泣いた。
マリーはドレスや帽子、装飾品を幾つも揃え、お菓子や酒で金を浪費する。ポリニャック公爵夫人らに誘われた彼女は、パリで開かれる仮面舞踏会に参加した。スウェーデンの軍人であるフェルゼン伯爵に興味を抱いた彼女が視線を向けていると、向こうから声を掛けて来た。しかし夜明けが迫って来たので、マリーは少し会話を交わしただけで去ることにした。フェルゼンは周囲の女性たちの言葉で、話した相手がマリーだと知った。
馬車で宮殿へ戻ったマリーは、ルイ15世が重病だと知らされる。愛人と一緒では罪の赦しが行えないと言われたルイ15世は、デュ・バリー夫人と別れることにした。ルイ15世の崩御を受け、オーギュストはフランス国王ルイ16世になった。18歳の誕生日を迎えたマリーは盛大なパーティーを開き、翌朝までギャンブルに興じた。贅沢に散在する暮らしを続ける彼女の元を、兄であるヨーゼフ2世が訪れた。マリーは兄から、ギャンブル熱や交友関係について苦言を呈される。ヨーゼフ2世はルイ16世と会い、2人だけで会話を交わす。彼が去った後、ルイ16世は初めてマリーと肉体関係を持った。そしてマリーは妊娠し、娘のマリー・テレーズを出産した。夫からプチ・トリアノン宮殿を住まいとして与えられたマリーは、自然を大切にした日々を過ごすようになる…。

脚本&監督はソフィア・コッポラ、原作はアントニア・フレーザー、製作はロス・カッツ&ソフィア・コッポラ、共同製作はカラム・グリーン、製作総指揮はポール・ラッサム&フレッド・ルース&フランシス・フォード・コッポラ、撮影はランス・アコード、美術はK・K・バレット、編集はサラ・フラック、衣装はミレーナ・カノネロ、第二班監督はローマン・コッポラ、音楽プロデューサーはブライアン・レイツェル。
主演はキルスティン・ダンスト、共演はジェイソン・シュワルツマン、ジュディー・デイヴィス、リップ・トーン、ローズ・バーン、スティーヴ・クーガン、アーシア・アルジェント、モリー・シャノン、シャーリー・ヘンダーソン、ダニー・ヒューストン、マリアンヌ・フェイスフル、メアリー・ナイ、セバスチャン・アルメストロ、ジェイミー・ドーナン、オーロール・クレマン、ギヨーム・ガリエンヌ、ジェームズ・ランス、アル・ウィーヴァー、トム・ハーディー、マチュー・アマルリック、ジャン=クリストフ・ブーヴェ、クレマンティーヌ・ポワダッツ、アンドレ・オウマンスキー、レネ・ルシエン・ローラン、ジョン・アーノルド、ジャン=マルク・シュテーレ他。


『ヴァージン・スーサイズ』『ロスト・イン・トランスレーション』のソフィア・コッポラが脚本&監督を務めた作品。
原作はアントニア・フレーザーの伝記『マリー・アントワネット』。
マリーをキルスティン・ダンスト、ルイ16世をジェイソン・シュワルツマン、ノアイユ伯爵夫人をジュディー・デイヴィス、ルイ15世をリップ・トーン、ポリニャック公爵夫人をローズ・バーン、メルシーをスティーヴ・クーガン、デュ・バリー夫人をアーシア・アルジェント、ヴィクトワールをモリー・シャノン、ソフィーをシャーリー・ヘンダーソン、ヨーゼフをダニー・ヒューストン、マリアをマリアンヌ・フェイスフルが演じている。

フランスのヴェルサイユ宮殿で撮影する許諾を得て、3ヶ月間に渡ってロケーションが行われた。
万全の協力体制を得て製作された映画だが、試写を見たマリー・アントワネット協会の会長は「自分たちの努力が水の泡になった」と怒りを口にしている。
また、カンヌ国際映画祭のプレス試写では、ブーイングの嵐が巻き起こった。
そりゃあ悪評の高かったマリー・アントワネットのイメージ回復に奔走してきた面々が憤慨し、激しく非難するのも当然だろう。
何しろ、この映画で描かれているマリー・アントワネットは、「パンがなければ、お菓子を食べればいいじゃない」という有名な言葉をホントに吐きそうな女なのだ(実際には言っていない)。

ソフィア・コッポラもキルスティン・ダンストも、史実を忠実に描いた伝記映画ではないと主張している。
確かに、これは典型的な伝記映画とは全く異なっている(そもそも史実通りであれば、プロヴァンス伯爵夫人は出産していないはず)。
ただ、ソフィア・コッポラはアントニア・フレーザーの伝記を読んで「マリー・アントワネットは人間らしくて共感できる優しい女性」と感じたらしいが、それが映画では上手く表現できていない。
この映画で描かれるマリーには、まるで好印象を持てないのである。

最初にマリー・アントワネット(アントーニア)としてキルスティン・ダンストが登場した時、「アンタは違うよね」と言いたくなる。
ルイ16世(オーギュスト)としてジェイソン・シュワルツマンが登場した時、「アンタも違うよね」と言いたくなる。
なぜなら、マリー・アントワネットとルイ16世は結婚した時、14歳と16歳だったからだ。
だけどキルスティン・ダンストもジェイソン・シュワルツマンも、どう頑張ってもティーンズには見えない。実際、2人とも大幅に設定年齢を超過している。

マリーとオーギュストの関係は、「未熟であるがゆえに、なかなかセックスに至らない」という形に見えなきゃいけないはずなのだ。
でも2人とも見た目が充分すぎるほど大人なので、「芝居と年齢が合ってないよね」と言いたくなる。
マリーに関しては、まだ14歳だから、「政治に無関心だし、オシャレに夢中」ってのが幼さとして受け入れられるのだ。
だけど、それなりに成熟した大人にしか見えないので、その振る舞いは「立場をわきまえない身勝手で愚かしい女」という印象になってしまう。

マリーがデュ・バリー夫人を無視するのは、ヴィクトワールとソフィーの言葉に感化されたことが原因だ。
しかし、そもそもマリーが2人の言葉に影響をうけまくっているというアピールが弱い。なので、デュ・バリー夫人を徹底的に無視する態度は違和感を抱かせる。
それに、「ヴィクトワールとソフィーの影響」ってことを理解したとしても、「いい大人なのに、自分の考えは無いのか」と言いたくなる。
ここも、ホントは「まだ14歳だから」ってことで納得できなきゃいけない部分なのに、14歳には見えないから問題が起きている。

「マリーが遊興にふけるのはプレッシャーやストレスから逃れるため」という内容で描いているはずだが、そういう言い訳が成立しなくなっている。
ここに関しては、「マリーが14歳には見えない」ということだけが原因ではない。
母からの手紙を読んで顔を歪めるシーンなどが申し訳程度に挿入されるだけで、マリーが苦悩や辛さを抱えていることを示す描写が少なすぎるからだ。
伝わって来ないのではなく、そもそも伝えようとする描写が乏しいのだ。

それもあって、「遅々として話が先に進まない」という印象が強い。
前半は「マリーがオーギュストとのセックスに至らないまま、宮殿で生活する様子」を見せられる時間が延々と続く。
きらびやかな衣装や華やかな舞台装置を写し出すだけで、観客に満足してもらおうという腹積もりだったのか。人間ドラマと呼べるようなモノは、ほとんど見当たらない。
そもそも個々のキャラ描写も薄くて、大半の登場人物は出オチに近い。登場した時の紹介で、ほぼ思考停止している。

不妊症や不感症という陰口を耳にしたマリーが寝室に入って泣いた後、彼女が衣装や食事で散在する様子がダイジェストとして描かれる。
ここに関しては、「自分より先にプロヴァンス伯爵夫人が男児を出産し、ストレスから浪費に走る」ってことが分かりやすく伝わるようになっている。
ただしマリーは、それ以前から「オシャレに夢中で母国の情勢に全く興味を示さない」という様子が描かれていたりするのだ。
だから「プロヴァンス伯爵夫人の出産が浪費のきっかけ」という風に描きたかったのだとしても、そこがボンヤリしてしまう。

あと、夫婦生活に関するストレスが原因だったとしても、その享楽的で浪費しまくる生活が全てOKになるわけでもないしね。きっかけは何であれ、衣装や食事に散在しまくる生活を、マリーがそれなりに楽しんでいるように見えるし。
「華やかで楽しそうに見えるけど、心は空虚」という雰囲気でもないのよね。そしてマリーが感じない分まで、こっちが空虚さを感じてしまう。
誕生日の翌朝、入浴している時の表情は、虚しさを感じている様子も窺える。だけど、そういう仕掛けが乏しいのよね。
なので誕生日のパーティーに関してはともかく、それ以前の浪費に関しては、普通に楽しんでいるようにしか見えない。

ヨーゼフ2世はマリーとオーギュストに会った後、母への手紙に「2人の問題は不器用なこと」と記している。
だけど、そんな風には全く見えなかった。おまけに、ヨーゼフ2世がオーギュストと会って何を言ったのかは、全く分からない。
なので、その後にオーギュストがマリーを初めて抱くのだが、まるで腑に落ちない展開になっている。
オーギュストはヨーゼフ2世に何を言われて、マリーと関係を持つ気になったのか。それって、かなり大事な要素のはずなのに、バッサリと省略しちゃってるのよね。

派手で享楽的な生活を送っていたマリーだが、娘が誕生してプチ・トリアノン宮殿に移ってからはギャンブル熱が無くなる。
シンプルな服に身を包んで、自然を大切にする暮らしを送るようになる。
ただし、「優雅な生活」ってのは変わらない。
それと、生活の表面的な部分は大きく変化するけど、娘が産まれたことによって自身の考えがどのように変化したのか、ルイ16世との関係がどのように変化したのか、その辺りの掘り下げは弱い。

フェルゼンが仮面舞踏会のシーンで登場するが、そこではマリーと少し会話を交わすだけ。
それだけで出番が終わることは無いだろうと思っていたら、「ルイ16世とマリーがアメリカで戦った軍人と会う」というシーンで再登場する。そして、その再会をきっかけに、マリーはフェルゼンと肉体関係を持つ。
だけど、もう「夫がセックスしてくれない」という問題は解消され、娘も産まれた後なのに、そういう行動に走ると「単なる尻軽の浮気女」でしかないでしょ。そのタイミングで夫を裏切るってのは、ただのビッチじゃねえか。
ロハス生活に入ったことで少しはリカバリーできても、それを全て台無しにする行動だ。

マリーが平気な顔で浮気に走るアバズレっぷりを披露するので、その後で産まれる息子は「ホントに旦那の子供なのか」と疑いたくなる。
終盤に入ると困窮した国民による暴動が勃発し、怒りの矛先がマリーに向けられるのだが、これっぽっちも同情心を誘わない。
それと、国外脱出を促されたルイ16世が宮殿に残ることを決めるとマリーは「夫の傍にいます」と言うんだけど、何しろフェルゼンと浮気しているもんだから、そこに真実の愛があるようには全く見えないのよね。
浮気した後で、夫への裏切りを悔いるとか、夫に対する愛に目覚めるとか、そういう心境の変化が描かれているわけでもないし。

18世紀のフランスが舞台だが、伴奏音楽にはクラシックな雰囲気の曲を一切使っていない。ソフィア・コッポラはポップ・テイストを取り入れたかったらしく、The Radio Dept.やBow Wow Wow、The CureやNew Orderなどの曲を採用している。
だから仮面舞踏会のシーンでも、まるで現代のクラブのようなノリになっている。
だが、そういう感覚が問題なのではない。
現代風に飾り付けた青春ドラマとして受け取ったとしても、その中身が薄っぺらいってことが問題なのだ。

キャラクターの描写が薄いとか、心情の変化を掘り下げる意識が弱いことは前述したが、それは全てにおいて言えることだ。
この作品は、ほとんど何も掘ろうとしていない。掘ろうとして失敗しているのではなく、そんなことは完全に脇へ追いやっているのだ。
そんなことより、派手な衣装やキラキラした装飾品、カラフルなお菓子や綺麗な舞台装置を幾つも用意して、ポップで絢爛豪華な映像世界を作り上げることに意識が傾けられている。
何しろ撮影のスケジュールを短くして節約し、そこで浮いた予算を衣装やセット代に回しているほどだ。
だから「中身はどうでもいいからオシャレな映像作品」を見たい人にはオススメする。

(観賞日:2017年6月26日)

 

*ポンコツ映画愛護協会