『ムカデ人間2』:2011、オランダ&イギリス

ロンドンの地下駐車場で警備員として働く中年男のマーティン・ロマックスは、仕事中もDVDを観賞するほど映画『ムカデ人間』の熱烈なファンだ。ある日、彼は駐車場で車のドアが開かなくなって苛立つイアンという男が、恋人のキムと揉めている様子を監視カメラで目撃した。マーティンは監視室を出て2人の元へ行き、足先を拳銃で撃った。それからバールで殴り倒し、手足をガムテープで拘束して自分の車に乗せた。既に彼は、グレッグという2人を捕まえていた。
監視室へ戻ったマーティンは、再び『ムカデ人間』のDVDを観賞する。彼はスクラップ・ブックも作成するほどのファンであり、自らもムカデ人間を作りたいと考えていた。マーティンはATMで怒っていたアランという男を襲い、他の3人と同じように拘束した。彼はジェイクという男から、彼の所有する貸倉庫を見せてもらう。契約を持ち掛けたジェイクを襲ったマーティンだが、死んでしまったのでムカデ人間に使うことは出来なくなった。
マーティンは拘束した4人を貸倉庫へ運び込み、準備を進めようとする。携帯電話の留守電に「ロンドンのオーディションに、『ムカデ人間』に出演した北村とウィリアムズは参加できません」というメッセージが入っていたので、マーティンは落胆した。アパートに戻った彼が寝ていると、母から「またウンチを漏らしたのね」と罵られる。シーブリング医師はロマックス家を訪ね、喘息持ちのマーティンに薬を渡してカウンセリングを始めた。
母が「最近はムカデの話ばかりしているんです。12人必要だって。何のことです?」と相談すると、シーブリングは「ムカデは男根の象徴でしょう。ムカデが与える激痛は、父から受けた性的虐待を意味している」と語った。すると母は、「夫はアンタのせいで刑務所に入っている」とマーティンを睨んだ。男色の気があるシーブリングは、マーティンに性的欲求を抱いていた。シーブリングが去った後、母は大音量で音楽を鳴らす上の階の男に腹を立てる。彼女がホウキの柄で天井を叩くと、住人のディックが乗り込んで来た。ディックは「俺の邪魔すんな」と怒鳴り付け、マーティンに暴力を振るった。
仕事に出掛けたマーティンは、赤ん坊連れのティムとレイチェル夫婦に目を付けた。彼は夫婦に発砲してバールで殴り付け、赤ん坊だけを残して拉致した。レイチェルは妊娠中だった。さらに彼は、酔っ払って駐車場へ来たキャリーとヴァレリーも襲った。留守電にメッセージが入り、『ムカデ人間』に出演したアシュリン・イェニーがオーディションに参加すると聞いてマーティンは喜んだ。母はマーティンのスクラップ・ブックを見つけ、怒鳴り付けて破り捨てた。激昂したマーティンは、母の顔面をバールで何度も殴り付けた。
母を殺害したマーティンはディックを部屋におびき寄せ、太腿を撃ってからバールで殴り倒した。血まみれの白衣で駐車場へ赴いた彼は、シーブリングがタクシーの車内で娼婦のキャンディーにフェラチオさせている様子を目撃した。マーティンはタクシー運転手のポール、キャンディー、シーブリングを次々に撃ち、拉致して貸倉庫へ運んだ。
次の朝、アシュリンが偽りのオーディションでヒースロー空港に降り立ち、マーティンは車で迎えに行く。マーティンは彼女を貸倉庫へ案内し、バールで殴り付けた。彼は準備を整え、レイチェルを先頭にして全員を結合させようとする。しかし手術の最中にレイチェルが死んでいることに気付き、倉庫の隅に移動させた。マーティンは先頭をアシュリンに変更し、映画の手順を参考にして作業を進める。途中でディックがショック死してしまったので、マーティンは倉庫の隅に移動させた。予定より2人減ったものの、ついにマーティンは10人のムカデ人間を完成させた…。

脚本&監督はトム・シックス、製作はイローナ・シックス&トム・シックス、製作総指揮はイローナ・シックス、撮影はデヴィッド・メドウズ、編集はナイジェル・デ・ホンド、美術はトーマス・ステファン、音楽はジェームズ・エドワード・バーカー。
出演はローレンス・R・ハーヴィー、アシュリン・イェニー、マディー・ブラック、キャンディス・ケイン、ドミニク・ボレリ、ルーカス・ハンセン、リー・ハリス、ダン・バーマン、ダニエル・ジュード・ジェニス、ジョージア・グッドリック、エマ・ロック、キャサリン・テンプラー、ピーター・ブランケンシュタイン、ヴィヴィアン・ブリッドソン、ビル・ハッチェンス、ピーター・チャールトン、ダニエル・デザイアー。


前作と同じ年に製作された第2作。脚本&監督は前作に引き続いてトム・シックスが担当。
前作でジェニーを演じていたアシュリン・イェニーが本人役、ヴォラー刑事を演じていたピーター・ブランケンシュタインがアラン役で出演している。
マーティンを演じているローレンス・R・ハーヴィーは、これが長編デビュー作。
キャンディーをマディー・ブラック、キャリーをキャンディス・ケイン、ポールをドミニク・ボレリ、イアンをルーカス・ハンセン、ディックをリー・ハリス、グレッグをダン・バーマンが演じている。

1作目でムカデ人間にされたのは3人だったが、今回は10人に増えている。単純に考えれば、「質より量」を選んだってことになるだろう。
ただし前作にしても、質が高かったわけではない。そして本作品も、量の多さが質の低さを補っているわけではない。
そもそもムカデ人間ってのは、「完全なる出オチ」と言うべき存在だ。っていうか1作目でさえ、もはや出オチ以前の状態だった。
なので、2作目で数が増えようと、そのインパクトは完全に失われているのだ。

シリーズ1作目は、「複数の人間の口と肛門を結合させてムカデ人間を作る」というアイデアの段階で、完全に思考停止している仕上がりだった。
しかしトム・シックスは最初から3部作を想定していたらしいので、「もはや出オチ以前の段階だったのに、何をどうやって続編を作ろうというのか」と首をかしげたくなった。
この2作目を見た時に、1作目で抱いた疑念は確信に変わった。
トム・シックス監督にとって「ムカデ人間」というネタは、悪趣味な描写を色々と盛り込むための仕掛けに過ぎなかいのだ。そこを突き詰めよう、掘り下げようという意識は、これっぽっちも持ち合わせちゃいないのだ。

もっと言ってしまうと、この作品はホラー映画でもない。
ただ単に「悪趣味な描写を幾つも無造作に盛り込んでいる」というだけなので、それは観客を不愉快な気分にさせることには繋がるだろうが、恐怖を喚起するモノではないのだ。
1作目に関しては、一応はホラー映画としての方向性を持っていた。しかし2作目では、それすらも放棄している。
あえてジャンル分けするならば、「ものすごくマニアックなアダルトビデオ」である。

1作目でムカデ人間を誕生させたヨーゼフ・ハイター博士は、シャム双生児の分離手術で有名な外科医という設定だった。
彼は動物実験を行っており、詳しい手術の行程も説明していた。
手術シーンは省略されていたし、ムカデ人間の結合部分は包帯で隠されていたので、そこに説得力は皆無だったし、描写としては陳腐でバカバカしいモノになっていた。
しかし、少なくとも設定としては専門的な知識と技術を持ったプロフェッショナルであり、ムカデ人間に対する美学と理念を持っていた。

それに対して今回のマーティンは、『ムカデ人間』を見て「同じことをやってみたい」という欲望を抱いた地下駐車場の警備員という設定である。
つまり、何の専門的な知識も技術も無い、ただのド素人なのだ。
だから観客は、ド素人による雑な模倣を見せられることになる。
そもそも前作における「ハイターのムカデ人間作り」でさえ、描写としては雑だったのだ。
それなのに、今回は主人公の設定からしてド素人なので、ますます雑な状態と化している。

マーティンはド素人というだけでなく、ムカデ人間を造るための技術を会得しようとする意識も無い。
誘拐するための計画は立てているが、襲う方法は「バールで殴り倒す」「拳銃で発砲する」という荒っぽいモノだ。
しかも、邪魔だと思った相手は、これまた荒っぽく殴り殺す。何しろ知識も技術も道具も無いもんだから、手術前には麻酔の代わりに頭を殴って気絶させる。
でも、すぐに起きるので、苦痛の声を発することになる。

マーティンは歯を抜く技術も無いので、金槌で叩き割る。起きている状態で体を切り刻むので、途中でショック死する犠牲者も出て来る。
もちろん、そこに美学や理念なんて皆無だし、ものすごく無造作でテキトーな行動が続く。
「ホラーなんだから、主人公が乱暴なのは別にいいんじゃないか」と思うかもしれない。
しかし、それは作品の内容による。
この映画の場合、「ムカデ人間」という仕掛けとの関係性を考えると、それを造り出す人間が雑で乱暴な奴では困るのだ。

そんだけ荒っぽくしているんだから、前作に比べるとグロテスク描写、残酷描写はアップしているんじゃないかと思うかもしれない。だが、今回はモノクロ映像にしてあるので、その印象は抑制されている。
なぜモノクロ映像にしてあるかというと、ある一ヶ所でカラーを使い、そこを際立たせるためだ。
その一ヶ所とは、「下剤を飲まされた犠牲者たちが我慢できずにウンコをブリブリと排出する」というシーン。
カメラに飛び散るウンコを際立たせるため、その茶色だけはカラー映像にしてあるのだ。
そのためにモノクロを使っていることからして、トム・シックスが悪趣味な描写だけに全精力を傾けていることが分かろうというものだ。

ジョン・ウォーターズやポール・ヴァーホーヴェンなど、「悪趣味」と称される映画監督は世界に大勢いる。しかしトム・シックスは、そういった面々とは比較にならない。
これは、ある意味では褒め言葉だし、ある意味では悪口になるだろう。
「比較にならない」ってのは、「トム・シックスは別次元で仕事をしている」ってことだ。
前述した面々は、ちゃんと「映画」を撮ろうとしていた。その中で、悪趣味な要素が盛り込まれていたのだ。
しかしトム・シックスは「悪趣味な描写があれば充分」という意識で、この作品を構成している。
だから「悪趣味」に特化しているという意味では、良くも悪くもズバ抜けていると言えるかもしれない。

で、そんな風に悪趣味三昧で監督自らノリノリで楽しんでいたんだろうし、だったら徹底的にやればいいものを、最後の最後で「実は全てマーティンが見ていた夢だった」という、あまりにもヌルいオチを用意してしまう。
変に日和ったようなオチを用意したのは、「逃げを打った」ということではない。
その証拠に、「それは夢だったけど、駐車場では赤ん坊の泣き声が響いている」というラストにしてある。
つまり、「マーティンは既に女を誘拐しているかもね」ってことを示唆しているわけだ。

トム・シックスは、決して「悪趣味描写のオンパレードで終わったら批判を受けるかもしれないな」と腰が引けたわけではなく、「だって楽しいんだもん」という強い意識で作っている。そこには何のブレも迷いも無い。
それなのに夢オチというヌルい着地にしたのは、単純に「話を上手く着地させる方法が見つからなかったから」である。
前作と同じ方法を取るわけにもいかないし、でも「マーティンが死ぬ」という結末でも使わない限り、話が片付きそうにない。
だから夢オチってことで、強引に片付けたのだろう。

後前述したように、トム・シックスは悪趣味な描写を幾つも盛り込むことだけに意識を向けている。
ストーリーには何の価値も抱いておらず、ただ映画としての体裁を整えるための付属品に過ぎない。
彼は「悪趣味な描写を色々と盛り込んだら面白くなる」と信じているので、終盤には「マーティンがチンコに有刺鉄線を巻き付け、最後尾の女をレイプして射精」という描写を用意している。
そこに性欲の要素を持ち込んでいるんだから、「悪趣味」という意味では立派なモンだ。

そして悪趣味をエスカレートさせたトム・シックスは、ついに「生きていたレイチェルが破水しながら逃走を図り、車内で出産し、臍の緒が付いた胎児の頭もろともアクセルを踏む」という描写まで用意してしまう。
レイチェルが容赦なく力一杯に胎児の顔面を踏み付ける映像を、ハッキリと写し出すのだ。
それが面白いと思えるんだから、ある意味では天晴れである。
どんなにグロテスクな描写を得意とする監督でも、どれだけ残酷描写を盛り込む監督でも、そういう表現は普通なら避ける。それが暗黙のルールだからだ。

しかしトム・シックスは、そもそもホラー映画を作っているつもりが無いし、前述したように本作品は「ものすごくマニアックなアダルトビデオ」なので、「映画人としての矜持」など要らないのである。
ようするに、トム・シックスという人は、真っ当な映画監督ではない。そして本作品は、形式上は「映画」として公開されたが、実質的には映画ではないのだ。
だから、貴方が「マニアックな映画を見たい」と思っているのなら、この作品はオススメしない。
ものすごくマニアックなアダルトビデオを見たい」と思っているのなら、これを見るのは自由である。
ただし、そうだとしても、積極的にオススメはしないが。マニアックで面白いアダルトビデオなら、日本製で他に幾らでもあるからね。

(観賞日:2016年11月5日)

 

*ポンコツ映画愛護協会