『メリダとおそろしの森』:2012、アメリカ

ダンブロッホ王国のファーガス王は、エリノア王妃と幼い娘のメリダ王女、家来たちを連れて森へ出掛けた。彼は誕生日を迎えたメリダに、専用の弓をプレゼントした。エリノアは「女の子なのよ」と呆れるが、メリダは大喜びした。的を外れた矢を探しに行ったメリダは、鬼火を見つけて興奮する。メリダが戻って鬼火のことを話すと、エリノアは「鬼火は運命を示してくれると言われている」と告げる。だがファーガスは不思議な力を信じておらず、軽く笑うだけだった。
ファーガスたちが帰ろうとすると、熊のモルデューが現れた。ファーガスは武器を手に取り、家来たちと共に戦った。ファーガスは左足を食われて失うが、その戦いは伝説となった。時が過ぎ、メリダは年頃の少女に成長していた。三つ子の弟たちは自由に暮らしていたが、メリダは王女としての振る舞いをエリノアから厳しく指導される。人々の手本になるよう説かれるメリダは、母に人生を支配されていると感じている。様々な勉強を強いられ、行儀よく振る舞うよう指示される毎日に、彼女は強い不満抱いている。愛馬のアンガスに乗って森へ出掛け、的に弓を射る日だけは、自分が自分でいられる喜びを感じることが出来た。
ある日、メリダはエリノアから、3人の領主が結婚相手の候補者として息子を連れて来ることを知らされる。3人が腕を競い合い、勝った者と結婚するという説明に、メリダはため息をついた。エリノアが「貴方はこの日のために準備して来たのよ」と言うと、メリダは「違う。私じゃなく、お母様が準備して来たんでしょ。結婚なんてしないわ」と反発する。しかしエリノアは全く聞き入れず、娘を思っての行動なのに理解してくれないと感じる。
次の朝、領主のディンウォール卿、マクガフィン卿、マッキントッシュ卿が自分の息子を伴い、城へやって来た。彼らはくだらないことで喧嘩を始め、止めに入ったファーガスも騒ぎを大きくするだけだった。エリノアは無言のまま近付き、ファーガスと領主たちを引っ張り出した。「何で競うかは王女が決める」とエリノアが説明すると、メリダは「弓にする」と宣言した。勝負が始まると、メリダも参加する。彼女はエリノアの制止を無視して弓を放ち、他の3人を押さえて優勝した。
エリノアは「私に恥をかかせて」と激昂し、メリダが自分の考えを訴えようとすると「私の言うことを聞きなさい」と声を荒らげた。腹を立てたメリダは「私はお母様のようにはならない」と反抗し、壁に掛けてあるタペストリーを切り裂いた。カッとなったエリノアが弓を暖炉に投げ込むと、メリダは泣いて部屋を飛び出した。彼女はアンガスに乗り、森へ向かった。メリダがストーン・サークルに入ると、鬼火が現れた。彼女が鬼火を辿ると、その先には一軒の家があった。
メリダが家に入ると、木彫りを作る老女が住んでいた。メリダは相手が魔女だと気付き、「私の運命を変えてくれる」と興奮する。魔女が「何も買わないなら出て行ってくれ」と怒鳴ると、メリダは「全部買うわ」と告げる。彼女は代金としてペンダントを渡し、「お母様を魔法で変えてほしいの」と頼む。魔女は魔法のケーキを作り、それを母親に食べさせるよう指示した。城へ戻ろうとしたメリダが振り向くと、ストーン・サークルに移動していた。
城に戻ったメリダはエリノアの考えが変わっていないことを知り、「仲直りの印」と称してケーキを食べさせた。エリノアが具合の悪さを訴えたため、メリダは寝室へ連れて行く。するとエリノアはベッドに寝転んだ直後、熊に変身してしまった。メリダは驚き、全ては魔女のせいで自分は悪くないのだと主張した。匂いを嗅ぎ付けたファーガスが捜索に乗り出し、召使いのモーディーは熊を目撃した。メリダは三つ子に協力してもらい、エリノアを連れて城から脱出した。
メリダは森で鬼火を探すが、見つからなかった。周辺を調べると魔女の家は見つかったが、誰もいなかった。しかしメッセージが残されており、メリダは魔女が春まで戻らないこと、2度目の日の出を迎えると魔法が永遠に解けなくなることを知った。魔女は魔法を解く方法として、「プライドに裂かれし絆を直せ」という言葉を残していた。眠りに就いたメリダは、幼少期の夢を見た。翌朝、彼女が目を覚ますと、エリノアは朝食を用意していた。彼女は変身する前と同じように上品に食べようとするが、上手く行かない。しかも彼女が集めたのは、毒のある実と汚い水だった。
メリダは川へ行き、エリノアのために弓矢を使って魚を射抜いた。焼き魚を初めて食べたエリノアは、自分でも川に入って魚を捕まえた。森を歩いていたエリノアは、突如として本物の熊のような獰猛さを見せた。メリダが動揺していると、エリノアは我に返った。2人が鬼火を見つけて後を追うと、廃墟となった城があった。メリダは地下に落ち、玉座の間を発見する。それは伝説となっている、失われた王国の玉座だった。メリダはタペストリーを修繕すれば母を元に戻せると確信するが、そこへモルデューが出現した…。

監督はマーク・アンドリュース&ブレンダ・チャップマン、共同監督はスティーヴ・パーセル、原案はブレンダ・チャップマン、脚本はマーク・アンドリュース&スティーヴ・パーセル&ブレンダ・チャップマン&アイリーン・メッキ、製作はキャサリン・サラフィアン、製作総指揮はジョン・ラセター&アンドリュー・スタントン&ピート・ドクター、製作協力はメアリー・アリス・ドラム、編集はニコラス・C・スミス、ストーリー監修はブライアン・ラーセン、プロダクション・デザイナーはスティーヴ・ピルチャー、スーパーバイジング・テクニカル・ディレクターはビル・ワイズ&スティーヴ・メイ、スーパーバイジング・アニメーターはアラン・バリラーロ&スティーヴン・クレイ・ハンター、音楽はパトリック・ドイル。
声の出演はケリー・マクドナルド、ビリー・コノリー、エマ・トンプソン、ジュリー・ウォルターズ、ロビー・コルトレーン、ケヴィン・マクキッド、クレイグ・ファーガソン、サリー・キングホーン、エイリー・フレイザー、ペイジ・バーカー、スティーヴン・クリー、スティーヴ・パーセル、カラム・オニール、パトリック・ドイル、ジョン・ラッツェンバーガー他。


ピクサー・アニメーション・スタジオが『カーズ2』の次に公開した長編アニメーション映画。
アカデミー賞長編アニメーション賞、ゴールデン・グローブ賞アニメーション作品賞など数々の映画賞を獲得した。
メリダの声をケリー・マクドナルド、ファーガスをビリー・コノリー、エリノアをエマ・トンプソン、魔女をジュリー・ウォルターズ、ディンウォールをロビー・コルトレーン、マクガフィンをケヴィン・マクキッド、マッキントッシュをクレイグ・ファーガソンが担当している。
日本語吹替版では、当時はAKB48に所属していた大島優子がメリダの声を担当している。

監督としてクレジットされているのは、2005年の『ワン・マン・バンド』でアカデミー賞短編アニメーション賞候補となったマーク・アンドリュースと、『プリンス・オブ・エジプト』のブレンダ・チャップマン。
ただし共同で監督を務めたわけではなく、最初はブレンダ・チャップマンがメガホンを執っていた。
しかしピクサーが彼女の仕事に納得できなかったために解雇し、マーク・アンドリュースを後任として起用したという経緯がある。
脚本はマーク・アンドリュース、ブレンダ・チャップマン、TVゲーム『Sam and Max』シリーズを手掛けたスティーヴ・パーセル、『ノートルダムの鐘』『ヘラクレス』のアイリーン・メッキによる共同。

まず最初に思ったのは、「なぜジョン・ラセターはウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ(以下、ディズニー)じゃなくてピクサーの方で、この映画を製作したのか」ってことだ。
フェアリー・テイルだったら、ディズニーの得意分野でしょ。両方のスタジオの特徴を考えた時に、わざわざピクサーに「らしくない」映画を担当させるメリットが見えない。
しかも、この映画は今までディズニーが製作していた長編アニメーションのフォーマットを利用し、それを破壊するという作り方をしているのだ。
それならディズニーの方が、それを製作する意義があるってモンじゃないのかと。

2009年の『プリンセスと魔法のキス』辺りから、ディズニーはプリンセス像を変えようとする動きを見せ始めた。その『プリンセスと魔法のキス』では、ヒロインが王子様との結婚を夢見ておらず、レストランを持つことを目標に掲げていた。
翌年の『塔の上のラプンツェル』では、ヒロインが白馬の王子様を待っているだけの女性ではなく、積極的に行動しようとする性格に設定されていた。
ヒロイン像の変化は、ちよっと寂しい部分もあるけど、全否定する気は無い。時代に合わせて変えて行こうとするのは、理解できる考え方だ。
それが観客動員に分かりやすい形で出ているのだから、広く世間に受け入れられているってことだろうしね。

だから王子様に守ってもらうだけじゃないヒロインとか、自分の考えを強く持っているヒロインとか、積極的に人生を切り開こうとするヒロインとか、そういう造形なら一向に構わない。
しかし本作品のヒロインであるメリダは、自立した女性、自身の運命に立ち向かう女性ではない。
ただの身勝手で卑怯で傍迷惑な女性に過ぎないのだ。
こんな魅力の無いヒロインを良く造形できたもんだ、良くゴーサインが出たもんだと、ある意味では感心してしまう。

三つ子の弟が序盤で登場するが、彼らの存在意義は皆無に等しい。
本筋となるストーリー展開に、彼らは全くと言っていいほど絡まない。メリダが「三つ子は自由なのに、自分は自由が無い」ってことで苛立ったり、嫉妬したりするわけでもない。
熊に変身した母をメリダが城から連れ出す際には協力してもらっているが、三つ子を使わなくても方法は幾らだって考えられる。
「マトコット的な存在として愛嬌を振り撒く」という存在だと割り切るにしても、その出番は少ない。
ほとんど活用されていないんだから、要らないんじゃないかと。

モルデューは冒頭シーンで登場しているし、ファーガスに追い払われたものの死んだわけじゃないから、現在の物語に絡んで来るのは当然っちゃあ当然かもしれない。
しかし「熊に変身した母をメリダが元に戻し、母子の関係が修復される」という筋書きにおいて、モルデューは全く必要性が感じられないキャラクターだ。それどころか、この映画ってヴィランを使わなくても成立するのよ。
それなのに、無理に悪役を配置している印象を受ける。
しかも、そいつを登場させるなら、メリダに「弓の名人」という設定を付けたんだし、彼女が倒す形を取るべきでしょ。ところがクライマックスでモルデューが襲って来るとメリダはビビっているだけで、エリノアが立ち向かうのだ。でも彼女が退治するわけでもなく、モルデューは倒れてきた石碑の下敷きになる。
相手が熊であろうと「殺害」は避けたかったのかもしれないけど、だから最初からモルデューなんか出さなきゃよかったのよ。

3人の領主と息子たちも、これまた全く要らない存在と化している。
こいつらが登場しなくても、ストーリー展開には何の支障も無い。つまり、腕比べのパートも時間の無駄ってことだ。
誰か1人でも、後でメリダやエリノアと深く関わるキャラがいるのなら、そいつを登場させておく意味はあるだろう。でも、誰一人として後の展開に深く関わる奴はいないので、全カットでもいい。
エリノアから結婚について聞かされたメリダが反発し、城を飛び出して魔女と遭遇する流れにしてしまえば、そこは削除できる。

あえて言うなら、領主と息子たちは「世の中の男は揃いも揃ってボンクラばかり」ってことでは、意味があるのかもしれない。
ファーガスでさえもオツムが空っぽな男に描かれているぐらいで、この映画に登場する男は全員がバカなのだ。
ただ、それってキャラの作り方として、どうなのかと。
母と娘の関係や、女性の自立を描くのが目的だってことは分かるのよ。だけど、そのために「男はみんなボンクラ」という扱いにしちゃうのは、歪んだウーマン・リヴになってねえか。

映画の導入部でメリダのナレーションが入り、「運命は探し求める物、努力すれば変えられる物」と語る。
だったら彼女が努力して自分の運命を変える話を描くべきだろうに、実際は「母の運命を変えてしまい、それを元に戻す話」なのだ。しかも自分の運命を努力で変えようとしなかった結果として、そういう事態を招いているのだ。
しかも「母を熊に変身させてしまい、それを戻す」という話だから、ただのマッチポンプだし。
ただテメエのケツを拭くだけの話なのに、それを心に響くドラマとして描くって、至難の業でしょ。

とは言え、前半は「エリノアの押し付けが酷い」ってのを描いているので、メリダが反発したくなる気持ちは理解できる。エリノアが娘の意志を完全に無視し、自分の望む女性像の枠に押し込もうとしているのだから、そりゃあメリダが嫌がるのも当然だ。
だからメリダを不快なヒロインだと思うことは無い。
ただし、だからって魅力的なヒロインだと感じるわけではない。
だから中盤以降は印象をアップすることが求められるのだが、むしろ逆を行く。それも、あるシーンで一気にガクンと印象を下げる。

そのシーンとは、エリノアが熊に変身してしまうシーンだ。
魔法のケーキで母を変えてしまおうとするのも問題行動だが、それだけなら不快指数を高めるほどではない。
しかし母が熊に変身した途端、メリダは「あの魔女が、お母様にとんでもない魔法を掛けたのね」と言う。そして「私のせいじゃない」と言い訳と自己弁護に終始する。
しかし魔女はメリダのリクエストに応えただけであり、そこには悪巧みなど何も無い。メリダを欺いて、何か目的を達成しようとしたわけではない。
メリダが「母を変えてほしい」と頼んだから、変身させるケーキを作ったのだ。

メリダはエリノアが熊に変身しても、そんな事態を招いたことへの責任や罪悪感を全く見せない。悪びれる様子など微塵も無く、「私を責めないで。悪いのは魔女なの」と平気で言い放つ。
この考え方が一向に揺るがないまま、どんどん時間が過ぎて行く。
城から逃げ出した後も、まるで反省の色を見せない。それどころか、エリノアのために魚を弓矢で射抜くと、「王女に武器なんて必要ないのよね、お母様に言わせれば」と嫌味っぽい言葉を吐く。
まるで反省していないだけでなく、「熊になって不自由している母の世話をしてやる」という態度を見せる。
だけどエリノアが熊に変貌したのは、テメエのせいだからな。

メリダはエリノアが獰猛な様子を見せると、「変わったわ。まるで中身の本物の熊みたい」と、デリカシーのかけらも無い言葉を浴びせる。
自分が悪いことをしたから償おうとか、母はショックを受けているだろうから気を遣おうとか、そういう気持ちが全く無い。
母を元の姿に戻すため、必死で頑張ろうという態度も見えない。たまたま玉座の間を発見し、「タペストリーを直せばいい」と思い付くだけだ。
そこに至る努力など何もしていないし、苦悩や葛藤も無い。

メリダが城へ戻ると争いが起きており、彼女はエリノアを寝室へ行かせるために演説を始める。
メリダは「私たちの国は若くて伝説にはなっていないけど、絆を結んだ物語がある。侵略者から土地を守る時に手を結んだ。お互いのために戦った」と語るのだが、伏線も流れも全く無かったので、そこに何の説得力も感じない。
メリダの「私は勝手だった。失敗を改めなきゃならない。絆を修復する」という言葉は母にも向けられているという設定だろうが、これまた唐突なだけ。
そこでエリノアが「愛する人を自分で見つける」ってのを認める気持ちになるのも、いつの間に変化したのかと。きっかけになるような出来事も、心情の変化を示す描写も、全く無かったでしょうに。ただ森でメシ食ってモルデューから逃げただけじゃねえか。

(観賞日:2017年7月29日)

 

*ポンコツ映画愛護協会