『パニッシャー』:2004、アメリカ&ドイツ

チンピラのミッキーは、銃器取引の現場に仲間のボビーを連れて赴いた。仲介役のオットー・クリーグは嫌悪感を示すが、取引には応じた。 そこへ警官隊が現れ、全員を包囲した。クリーグは銃を構えるが、即座に射殺された。ボビーも抵抗を試みて射殺され、ミッキーは逮捕 された。だが、クリーグは救急車の中で目を開けた。彼はFBIの潜入捜査官フランク・キャッスルで、射殺されたのは偽装だった。 フランクは、ボビーの父が裏社会の大物であるセイント&シザース社の経営者ハワード・セイントだと知った。
ハワードは弁護士クウェンティンにミッキーを釈放させ、暴行を加えて質問した。ミッキーは、ボビーが希望したために連れていったと 釈明した。彼はボビーをハメたのがクリーグという男だと説明し、しかし現場で死亡したと告げた。一方、フランクは潜入捜査の仕事を 引退し、妻マリアと息子ウィルの3人でロンドンへ引っ越すことを決めていた。
フランクはロンドン行きを前に、家族でプエルトリコへバカンスへと出掛けた。同じ頃、ハワードはクリーグの正体がフランクだと知った。 彼が手下に復讐を命じると、妻リヴィアは家族も皆殺しにするよう求めた。フランクは海岸沿いで、両親や友人と一緒にパーティーを 開いた。そこへクエンティンたちが現れ、銃撃を始めた。家族を殺されたフランクは反撃を試みるが、桟橋で銃弾を浴びて倒れた。 クエンティンは桟橋に灯油を撒き、火を放った。フランクの体は吹き飛び、海に沈んだ。
だが、フランクは奇跡的に生き延びた。彼は海岸に流れ着き、知人のキャンデラリアに救われた。彼は安アパートに移り住み、武器を 集めた。アパートには、他にジョアン、デイヴ、バンボという3人が暮らしていた。フランクはミッキーを捕まえて拷問し、協力を承諾 させた。フランクはハワードやリヴィアのスケジュールを聞き出し、彼らを尾行して行動をチェックした。
フランクは屋外で記者会見をしているモーリス主任の元に現れ、未だに家族を殺した犯人が逮捕されていないことへの怒りをぶつけた。 フランクはハワードがキューバのトロ兄弟と取引していることを知り、セイント&シザース社へ侵入した。フランクは取引の金をビルから 撒いて台無しにすることで、ハワードとトロ兄弟の友好関係に亀裂を生じさせた。
フランクはクウェンティンがゲイだと知り、脅迫して行動を指示した。そうすることで、彼はハワードがクウェンティンとリヴィアの浮気 を疑うように仕向けた。ハワードはフランクが生きていると知り、刺客を送り込むことにした。フランクは車に乗っているところを殺し屋 ハリー・ヘックに襲撃され、逃走する。車は横転するが、這い出したフランクはハリーを倒した。
フランクがアパートにいると、ロシア人が乗り込んで来た。フランクは重傷を負いながらも、何とか敵を始末した。フランクがジョアンたち の手当てを受けていると、クウェンティンと一味がやって来た。デイヴとバンボはフランクをエレベーターに隠し、一味に応対した。 デイヴの耳のピアスを引き千切られるが、それでもフランクの居場所を言わず、何も知らないのだと考えたクウェンティンたちは去った。 仲間として守ってくれたアパートの住人たちに感謝し、フランクは「復讐」ではなく「戒め」としての行動に出た…。

監督はジョナサン・ヘンズリー、脚本はジョナサン・ヘンズリー&マイケル・フランス、製作はアヴィ・アラッド&ゲイル・アン・ハード、 製作総指揮はクリストファー・エバーツ&ケヴィン・フェイグ&アンドリュー・ゴロヴ&パトリック・ガン&スタン・リー&アミル・ マリン&クリストファー・ロバーツ&リチャード・サパースタイン&アンドレアス・シュミット&ジョン・スターク、撮影はコンラッド・ W・ホール 、編集はジェフ・ガロ&スティーヴン・ケンパー、美術はマイケル・Z・ハナン、衣装はリサ・トムチェスジン、音楽はカルロ・ シリオット。
出演はトム・ジェーン、ジョン・トラヴォルタ、ウィル・パットン、エディー・ジェイミソン、レベッカ・ローミン=ステイモス、 ベン・フォスター、ジョン・ピネット、ローラ・ハリング、ジェームズ・カルピネロ、マルコ・セント・ジョン、サマンサ・マシス、 マーカス・ジョンズ、ボニー・ジョンソン、ロイ・シャイダー、ヴェリル・ジョーンズ、ケヴィン・ナッシュ他。


マーベル・コミックの作品に登場するキャラクターを用いたアメコミ映画。
原作では、フランクは海兵隊の軍人であり、ギャングの抗争に巻き込まれて妻子が死亡している。1989年にはドルフ・ラングレン主演で 映画化されている。あちらはオーストラリア映画だった。
今回の作品を撮ったのは、脚本家のジョナサン・ヘンズリー。これが監督デビュー作品となる。
フランクをトム・ジェーン、ハワードをジョン・トラヴォルタ、クウェンティンをウィル・パットン、ミッキーをエディー・ジェイミソン、 ジョアンをレベッカ・ローミン=ステイモス、デイヴをベン・フォスター、バンボをジョン・ピネット、リヴィアをローラ・ハリング、 ボビーをジェームズ・カルピネロ、モーリスをマルコ・セント・ジョン、マリアをサマンサ・マシス、ウィルをマーカス・ジョンズ、 フランクの父をロイ・シャイダーが演じている。

主演がトム・ジェーンというのは、このスケールの作品としては弱い。
悪役を演じるジョン・トラヴォルタの方が、格は遥かに上だ。
主役のネーム・ヴァリューに弱さがある場合、悪役に大物を配置するというのは、例えばティム・バートン監督の『バットマン』でも 見られた手法である。
上手くやらないと「悪役の映画」になってしまい、バランス調整が難しいが、本作品はそんな心配が無い。
なぜなら、ハワードの存在感がそれぼと強くないし、非情で残酷な悪党としてのアピールも弱いからだ。

原作のパニッシャーは、胸に大きなドクロのマークが入った全身タイツ姿で、白い手袋とブーツを着用している。いかにもアメコミの ヒーローって感じのコスチュームだ。
1989年版ではドルフ・ラングレンがドクロを嫌がって使用されなかったが、今回は一応、息子から貰ったシャツの柄ということで使って いる。さすがに「全身タイツは無いだろ」という判断だったんだろう。さらに汚しも加えて、あまりドクロが目立たないようにしてある。 白い手袋とブーツは着用していない。
だが、コスチュームが原作と同じかどうかなんて、どうだっていいと思わせるぐらい演出と脚本がヘボい。ジョナサン・ヘンズリーは、 これまで『ジュマンジ』『ダイ・ハード3』『セイント』『アルマゲドン』とロクな脚本を書いていないんだが、それなりにヒット作が 多いためなのか、おバカな製作者が、なぜか監督のオファーを出してしまったんだろうね。

まず話の入り方からして、間違っているとしか言いようが無い。
「主人公が悪党に家族を殺されて復讐劇へ」ではなく「主人公が悪党の息子を死に追いやって、それを恨んだ悪党が主人公の家族を殺して 復讐劇へ」だと、悪党の行動理由も復讐なので、そこに「復讐の連鎖」という問題が生じてしまう。
なぜ最初の殺人を、「悪党にとって息子が殺されるという悲劇」にしてしまうのか。そこは素直に、主人公の家族が殺されるという悲劇に すべきではないのか。
復讐の連鎖について深く掘り下げるとか、主人公が苦悩するとか、そういうことなら別に構わないが、そうではないのだ。
だったら、そこはポール・カージー(2作目まで)やマッド・マックス(1作目のみ)のように一方的な復讐者にしておくべきだ。
「悪党が主人公の家族を殺す正当な理由」なんて、別に無くていい。まず主人公と家族の幸せな暮らしを描き、そこから惨劇へ入ればいい。

フランクと家族の生活に関しても、息子が引越し続きの生活を嫌がっているという描写によって、いきなり哀愁が漂っているんだよな。
それのせいで、「幸せ満開から悲劇へ」という落差が減少してしまう。
その後、バカンスで楽しんでいる様子が綴られる。
だが、それより先に、ハワードが復讐に乗り出したことを描いてしまうので、バカンスの風景を見せられても、そこに悲劇の色を感じて しまう。
色んな意味で、入り方を間違っているということだ。

ハワードのキャラ設定がフワフワした感じになっている。
なぜ本人ではなく、リヴィアがフランクの家族抹殺指令を出すのかと。
リヴィアが最後の敵になるのなら、それも良かろう。だが、違うのだ。
だったら、そこはハワードが家族の抹殺を企てるべきだろうに。
そもそもハワードが息子を殺した実行犯には全く関心を示さず、逮捕劇に関わった連中も無視し、フランクだけに標的を絞るのが解せない 。息子を死に追いやったという意味ではミッキーも復讐相手になって然るべきなのに、普通に手下として雇うし。

クウェンティンたちがフランクと家族を襲撃するシーンで、長々とアクションを見せるセンスもいかがなものか。
そこに「アクションシーンとしての盛り上がり」など不要なのだ。そこで必要なのは、主人公の眼前で家族が無残に殺されるという悲劇性 、残虐性なのだ。主人公を復讐に燃え上がらせるためのモノがあればいいのだ。ダラダラとアクションシーンとして引き延ばす必要は無い。
また、ハワードが手下任せで惨劇に同席しないのもマイナス。
そこは、ハワードが自ら手を下す姿をフランクに目撃させるべきだ。
そうした方が、ハワードの復讐に共感しやすくなる。

演出のセンスということでは、コミカルな要素を持ち込んでいることも引っ掛かる。
例えばミッキーを拷問するシーンでは、外で様子を窺うデイヴ&バンボのリアクションによってコミカルな感じを出している。
ロシア人の殺し屋との格闘にもコミカルな匂いを漂わせるが、なぜ緊迫した死闘で弛緩せにゃならんのか。
この映画のどこにコミカルなモノが必要なのかと。
アパートの住人を配置したことも、「ほんのわずかな癒しや安らぎ」ではなく、無駄で余計な脱力にしか繋がっていない。
フランクは孤独なアンチ・ヒーローでいいのに。ホノボノとか要らないよ。ヒリヒリと肌を焼くような痛みに満ちた映画でいいのよ。
それに、デイヴはピアスを引き千切られても居場所を吐かず、「フランクは仲間だから、家族だから」と言うが、そこまでして守ってやる ほど強い絆で結ばれて無いだろうに。

フランクが家族を殺されて復讐心に燃えても、すぐ報復に乗り出すことは無い。ハワードやクウェンティンを張り込み、撮影して調査する という地味な作業がある。
それだけでなく、警察の記者会見場にノコノコと出掛けることで、自分が生きていることを敵に知られてしまう。
挑発のつもりかもしれないが、死んだと思わせておいた方が絶対に得なはずで、ただのアホにしか見えない。
で、アホならアホらしく、どんどん敵を始末していけばいいものを、下調べや作戦に手間と時間を費やしている。
復讐といえば、ハワードの手下を1人ずつ殺害していくという行動を想像するのだが、フランクは斜め上を行く。
彼が復讐として選ぶ行動は、ざっくり言うならば「嫌がらせ」である。
金を台無しにしてトロ兄弟との取引に亀裂を入れることで、ハワードを困らせるのである。
言うまでも無く、それはハワードを殺す計画としての第一歩ではない。
単なる嫌がらせである。

フランクの行動の中に殺人が無いわけではないが、それは向こうが攻撃してきた場合に限られる。
それ自体が目的というのではなく、嫌がらせという本来の目的に付随したオマケのようなモノだ。
クウェンティンとリヴィアに関する作戦にしても、彼らを殺すためのモノではなく、陥れるためのモノだ。
そして本人は手を汚さず、ハワードが2人を殺すように仕向ける。
そんな話が綴られる中で、なんかハワードが哀れに思えてくる。
テメエで手を汚す覚悟が無いのなら、最初から復讐なんて考えるんじゃねえよと。フランクの復讐に対する考え方が、ワシにはサッパリ 分からんよ。
そう思っていたら、「これは復讐ではなく戒めだ」とか言い出す。
いやいや、復讐だからさ、どう考えても。
もうね、自分の行動を「復讐ではない」と言ってしまう辺り、潔さゼロ。
自分のやっていることは正義でも何でもなく、私怨による復讐だと言い切ってしまえよ。
そこの覚悟の無さも、これまたマイナスだ。

で、戒めって言っているんだけど、悪党の殺人よりも、フランクの殺人の方が残酷ってのは、どういうことなのよ。 そりゃ明らかに過剰な暴力になっちゃってるでしょ。
そういう残酷処刑をするのなら、先に悪党サイドの残酷極まりない殺人を見せておかないと、「それぐらいやっても当然」と受け止める ことは出来ないぞ。
で、そんな私刑が終わった後に長いエピローグがあるが、完全なる蛇足。
続編に向けての地均しのつもりかもしれんが、本国アメリカでコケてるし、パート2は厳しいと思うよ。

(観賞日:2008年2月29日)

 

*ポンコツ映画愛護協会